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2011年4月3日<弟子訓練について> | |
著者は約20年くらい前、教会で弟子訓練を受けていた。 当時の牧師は、「神学校へ行って も、実際、人を救いに導けない。(他にも理由を言っておられたが・・) 弟子訓練は教会で すべき」という考えだった。 とにかく厳しかった。 牧師は、中途半端な弟子ではなく、 本物の弟子にしようと熱心のあまり、厳しくなったと思われる。 ただ、出来上がる弟子は キリストの弟子というより、その牧師の影響を受けた弟子だった。 いろいろな理由があり、 著者は牧師の影響を受けることができなかった。 今となっては、それは幸いなことであったが、 当時は自分を責めた。 ただ、今日まで主が、多くの体験(苦難、困難、試練など・・・)を通して、それらをすべて益にして くださったばかりか、それらの出来事一つ一つを通して、主がキリストの弟子としての訓練を 直接してくださったことを痛感する。 訓練は、すべて完了ではなく、今も尚、続いているようにも思う。 霊的に成長していくことは、働きにとって重要なことであり、深みがあるからだ。 霊的に成長するために、主の働きが出来るようになるために、祈って聖霊に触れ続けていくこと、 聖書の神のことばを知る(悟る)ことが大切だが、それ以外に、いろいろな体験、経験を通して 主によって直接、訓練される、ということはもっと大切である。 いずれにしても、弟子訓練を施す者の影響を受けることは、芳しいとはいえない。 もし人の影 響を受けるとしたなら、その人がどのように主の御前にへりくだっているのか、キリストに対して どのような心の態度をとっているのかを学ぶべきであろう。 そのような影響を受けることは主が 喜ばれることである。 クリスチャンはキリストの影響を受けるべきである。 そのことがわかって いても、実際、どうしても その人の影響を受けてしまうということがあり得る。 人が人を弟子 訓練することは、なかなか難しいものであろうと思われる。 めんどり通信/2011年4月3日号へ |
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