めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年4月3日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<弟子訓練について>


★旧約聖書  申命記 8:5
       あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
      知らなければならない。

★新約聖書(口語訳) ルカによる福音書
   自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはで
    きない。

★新約聖書 マタイによる福音書 16:24
   それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自
   分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

●「弟子訓練」については、キリスト教会でも賛否両論あるようだ。 「弟子訓練が聖書から導
き出されたものではなく、軍隊や企業の人材養成をキリスト教会用にモデルチェンジしたもの
にすぎない」という意見があり、主が「あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」と言
われたではないか。 主は弟子たちを訓練なさったではないかなどの意見がある。 他にもい
ろいろあるようだ。 事実、イエスは12弟子を選ばれ、訓練された。 主は3年半の公生涯にお
いて、弟子訓練に大きな力を注がれた。 

主の働きで大いに活躍したパウロの場合は、この地上では直接、イエスに会っていなかった。 
しかし、ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と、復活し
たイエス・キリストに呼びかけられたという体験があった。 そしてその直後、目が見えなくなっ
た。 パウロは声は聞いたが、復活の姿は見ていなかった。 3日後、主の命令により主の弟
子アナニアが、サウロのために手を置いて祈ると、サウロの目からうろこのような物が落ちて、
目が見えるようになった、という特殊な体験をしている。(使途9章) いずれにしても 大いに主
の望まれる働きができたのは、主から直接の訓練を受けたからと思われる。 

当時の弟子たちは、人の影響を受けていない。 キリストの影響を受けている。 この地上で
実際、主を肉眼で見える状態であろうと、昇天後、肉眼では見えない状態であろうと、主が直
接、訓練をなさっておられる、ということが重要ポイントであろう。 

著者は約20年くらい前、教会で弟子訓練を受けていた。 当時の牧師は、「神学校へ行って
も、実際、人を救いに導けない。(他にも理由を言っておられたが・・) 弟子訓練は教会ですべ
き」という考えだった。 とにかく厳しかった。 牧師は、中途半端な弟子ではなく、本物の弟子
にしようと熱心のあまり、厳しくなったと思われる。 ただ、出来上がる弟子はキリストの弟子と
いうより、その牧師の影響を受けた弟子だった。 いろいろな理由があり、著者は牧師の影響
を受けることができなかった。 今となっては、それは幸いなことであったが、当時は自分を責
めた。 

ただ、今日まで主が、多くの体験(苦難、困難、試練など・・・)を通して、それらをすべて益にし
てくださったばかりか、それらの出来事一つ一つを通して、主がキリストの弟子としての訓練を
直接してくださったことを痛感する。 訓練は、すべて完了ではなく、今も尚、続いているように
も思う。 霊的に成長していくことは、働きにとって重要なことであり、深みがあるからだ。 霊
的に成長するために、主の働きが出来るようになるために、祈って聖霊に触れ続けていくこ
と、聖書の神のことばを知る(悟る)ことが大切だが、それ以外に、いろいろな体験、経験を通
して主によって直接、訓練される、ということはもっと大切である。 

いずれにしても、弟子訓練を施す者の影響を受けることは、芳しいとはいえない。 もし人の影
響を受けるとしたなら、その人がどのように主の御前にへりくだっているのか、キリストに対して
どのような心の態度をとっているのかを学ぶべきであろう。 そのような影響を受けることは主
が喜ばれることである。 クリスチャンはキリストの影響を受けるべきである。 そのことがわ
かっていても、実際、どうしても その人の影響を受けてしまうということがあり得る。 人が人
を弟子訓練することは、なかなか難しいものであろうと思われる。  

大事なことは、新しい聖霊の川の流れに乗ること、また乗り続けること、日々絶えず、主イエ
ス・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分を置き、主の御心を知って祈り続けること、
神に依り頼むことである。 

★旧約聖書 箴言3:11,12
   「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子
   をしかるように、主は愛する者をしかる。」

★旧約聖書 (口語訳)詩篇66:10
   神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。




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