めんどり通信/2017年9月10日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <一旦救われたなら、二度とその救いを失うことはないのかどうかについての思考> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 7:13、14
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行
く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
★新約聖書 ローマ人への手紙 14:10
・・・わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
●マタイによる福音書25:14-30には「タラントのたとえ」が書かれている。 「タラントのたとえ」
は、主人がしもべたちに、それぞれの能力に応じて、それぞれに5タラント、2タラント、1タラント
を渡してから、旅に出かけた。 5タラント渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、さら
に五タラントもうけ、 2タラント渡された者も、同様に、さらに2タラント儲けた。 ところが、一タ
ラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、
これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 5タラント渡された者も2タラント渡
された者も主人から「よくやった。良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実
であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とほめられた。 ところが、
1タラントを渡された者は、主人は厳しい方、恐ろしい方なので、渡された1タラントを地の中に
隠しておいたと言った。 すると、その1タラントは取り上げられ、10タラント持っている者に渡さ
れた。 主人は「悪い怠惰な僕よ」と叱られ、ついには、外の暗闇に追い出せ、と言われてし
まったというというたとえの話しである。
これに似た たとえがルカ19:11〜27に、「ミナのたとえ」がある。 このたとえは、イエスがエル
サレムに入城直前、すなわち十字架の少し前に語られたたとえである。 ある身分の高い人
が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。 主人が遠くに出かける
時、10人のしもべに10ミナを渡して、自分の財産の運用を任せた。 原語では1人1ミナずつ渡
されたと書かれていると言う。 そして主人が王位を受けて帰って来たとき、お金をどう用いた
かを問いただすため、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。
2人は、それぞれ1ミナを使って10ミナ、5ミナの利益を得た。 主人は、「小さい事に忠実であっ
た」からと、それぞれ10の町、5つの町を任せるというかたちで働きに報いた。 しかし、3番目
の者は、主人は恐ろしく、厳しい方だから、なくさないように1ミナをふくさ(布)に包んでしまって
おいたと言う。 それを聞いた主人は怒り、1ミナを取り上げ、それを10ミナ持っている者に与え
たというたとえの話しである。
「タラントのたとえ」と「ミナのたとえ」は、共通する教えもあるが、相違点もある。(めんどり通信
/ 2014年2月2日。<神から与えられたもの「タラント」「ミナ」に忠実になれ!>も参照) これ
らのたとえから、いろいろ学ぶべきところがあるが、一旦、キリストを信じたら、「救い」を失うこ
とはないのか? それとも、「神の救い」という「神の最大の恵み」は失うことがあるのか?につ
いて思考してみたい。
キリスト教会、クリスチャンのほとんどが、一旦、キリストを信じて救われたなら、二度と「救い」
を失うことがないという見方をしているようだ。 「ミナのたとえ」で、主人が厳しい方で恐ろしい
からと1ミナを布に包んで、しまっていた者は、主人に叱られて1ミナを取り上げられたが、それ
以上の「罰」を受けていないことにより、一度、キリストを信じて受け入れた者は「救い」を失うこ
とがないという主張がある。 この1ミナを、「信仰」であると言う者もおり、「永遠の命」「キリスト
の福音」「キリストの救い」と言う者もいる。 しかし、1ミナが「信仰」にせよ、「永遠の命」にせ
よ、「キリストの救い」、「キリストの福音」にせよ、いずれであっても失って、どうして天の御国で
暮らすことができるのかと思うのだが・・・。
一旦、人はキリストを受け入れて救われたら、その「救い」は永遠に失われることはないと主張
する教会、キリスト者たちが示す聖書箇所は、何ヶ所かある。 一部を書いてみる。 ローマ
8:30
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者た
ちには、更に栄光を与えて下さったのである。」 ここから、神がキリストを信じた者(神が選ん
でおられた者)を受け入れられたとき、その人が天の御国へ行くようにされたという主張。
ローマ8:33,34
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右
に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」 ここから、再び永遠の滅びに
定められるようなことは絶対ない、キリストが弁護してくださるから誰も訴えることができないと
いう主張。
ヨハネ福3:33:3「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れな
ければ、神の国を見ることはできない」。 テトス3:5「わたしたちの行った義のわざによってでは
なく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは
救われたのである。」 ここから、信者は信じたそのとき、生まれ変わって(新生して)いるという
主張。
ヨハネ福3:15 3:15「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」 ここから、誰
でもイエス.キリストを信じる者は「永遠のいのち」を持つという主張。 もし、「永遠のいのち」
「救い」を失うなら、聖書の永遠のいのちの約束は間違いだったということになるという主張な
どがある。
パウロは、「その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をく
ぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。(Tコリント3:15)」と言ったから、「タラン
トのたとえ」「ミナのたとえ」の「1タラント」「1ミナ」を隠した人のように、働きの報いは失っても、
「救い」は失うことがないという主張もある。
また一方、たとえ、この地上で、キリストを信じて「キリスト者(クリスチャン)」になり、神の恵み
に与ったとしても、その「神の恵み」を失うことがあるという主張がある。 どちらかといえば、こ
のような解釈、主張をする教会、キリスト者(クリスチャン)の方が少ないようである。
「タラントのたとえ」の中で、主人は厳しい方、恐ろしい方だということで1タラントを地の中に隠
しておいた者が、外の暗闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりすると言われ
たが、この「泣き叫んだり、歯がみをしたり」は他の箇所でも言われている。 世の終りに、御
使たちがきて、悪人を炉の火に投げこむと、そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりすると言
われた。(マタイ13:50) 王の息子の婚宴の席で礼服をつけなかった者が、外の暗闇に追い
出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりすると言われた。(マタイ22:13) 思いがけない
時に人の子が来たとき、しもべ仲間を殴ったり、酒飲みたちと飲んだり食べたりしている者は、
偽善者たちと同じ目、すなわち、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするとも言われた。(マタ
イ24:51) また、狭い戸口からはいらなかった者たちが、外に投げ出され、そこで泣き叫んだ
り、歯がみをしたりするとも言われた。(ルカ13:28)
また、「タラントのたとえ」に続いてイエスが言われたことは、人の子が来られた時、すべての国
民(クリスチャン)を羊とやぎとを分け、やぎは永遠の刑罰を受けると言われた。(マタイ25:31-
46) イエスの語られたことばを受け取るべきではないだろうか。 ただ、一つの聖書のことば
の一面だけを取り上げて、聖書の各所、全体を見るのでないなら、本来、主が言わんとされる
こと(真理)が人間の都合のいいように変わってくる危険性がある。 福音さえ、ゆがめられて
しまう。 聖書のことば(文字)から判断するのではなく、書かれていることばの奥にある主の言
わんとされている御心を知ることが重要である。 聖書が改ざんされていると言われる現代は
尚更、自分の見方見解ではなく、確かな聖霊の導きが必要である。
パウロは、Tコリント人への手紙3:15で「・・しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のように
ではあるが、救われるであろう。」と言った。 しかし、一方で「自分が失格者になってしまわな
いため、自分のからだを打ちたたいて服従させる(Tコリント9:27)」とも言っている。 いわ
ば、キリスト者(クリスチャン)がどのような生活をしても、すなわち神が「良し」とされない生活を
しても「救い(永遠のいのち)」は失われない、ということではない。
Tヨハネ2:19
のことばを見ると、ヨハネは自分たちから離れて行った者に対して、彼らは「真の
クリスチャン」ではなかったと理解しているようだ。 こういう見方を多くの教会がする。 自分た
ちの教会から去って行った、追い出された者は、「真のクリスチャン」ではない。 むしろ、神に
嫌われているから、そのような者とは関わってはならないとする教会、キリスト者も多いのでは
ないだろうか。 「自分たちの教会こそ正しい、良い」という考えが根底にある。 正しい方、良
い方は主なる神である。(マタイ19:17)
我々人の目から見て、Tヨハネ2:19 のことば通りのことが、現実にあらわれず、「その人」がク
リスチャンとして最期まで生きたなら、「その人」が本物の信仰(神が見られて「良し」とされる信
仰)を持っていたのか持っていなかったのかを最終的に判定することはできない。 自他ともに
認める「救われたキリスト者」、それも主のために良い働きをしたと自他ともに認める「救われ
たキリスト者」と呼ばれる者であったとしても、主の御前に立った時、「わたしはあなたがたを全
然知らない。 不法をなす者ども。 わたしから離れて行け。」と主から言われる者たちもいる。
(マタイ7:21-23)
ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねると、主イエスは人々にむ
かって「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多い
のだから。・・・」と言われた。(ルカ13:23-30) このような主のことばをじっくり祈りつつ歩んで
いきたいものである。 主は、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望
み、我々に対してながく忍耐しておられるのである。(Uペテロ3:9) その主のあわれみと神の
愛に心から感謝しつつ、一歩一歩をキリストにしっかりつながって歩んでいきたいものである。
★旧約聖書 伝道の書 3:11
・・・人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
★めんどり通信/2015年5月24日。<いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす
者はまれである、について思考>★/2017年6月11日。<『天路歴程』とビジョンから「狭い門」
「狭い道」を思考する>★/2016年11月20日。<「神の領域」についての思考>★/2015年5月
10日。<死後の裁き。悲しい結果になる中にクリスチャンもいることについて:ビジョンと思考
>参照
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