めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年11月20日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「神の領域」についての思考>


★旧約聖書 伝道者の書 3:11
   人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 
★旧約聖書 伝道者の書 11:5
   あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのよ
   うに、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。
 
「神の領域」について今まで何回か思考して書いたことがあるが、今回もいろいろ考えてみ
た。 「神の領域」とは、神にしか分からない、人間が触れることができない部分と、一部分で
はあるが、人に応じて、その人のその時々に応じて、触れることができる部分があるように思
う。 神にしか分からない部分というのは、人間の正しさや力、知恵が及ばず、人間がどうする
こともできない領域があるということだ。 「死と死後の世界」について、多くの教会や神学者、
聖書学者たちが説いているが、実際、死後の世界から生還した者はいない。 臨死体験
言って、死後の世界を垣間見た者はいたとしても、完全に死んで復活したわけではない。 だ
から、聖書から、神学者、聖書学者たち、キリスト者たちが、死後について説いてきたが、そこ
には、人間の考えや推測も入っている可能性はある。 そういう意味では、「死と死後」につい
ては、人間が完全に知ることのできない「神の領域」があるのかもしれない。 
 
人は、この世にある膨大な数の教え、何かの経典、自然、・・・などの中から、自分が選び、自
分で納得したものを自分流に解釈して、それを基準にするのと、「聖書(神のことば)」「主イ
エス・キリスト」を基準にするのとでは考え方も生き方も違ってくる。 一般的には、キリストを受
け入れ、どこかの教会に所属し、洗礼を受けている者がキリスト者(クリスチャン)と呼ばれ、救
われた者と言われる。 
 
しかし、「あの人は救われている。」「この人は救われていない。」と人が言い切ることはできな
い。 正確に、「誰が救われているのか、救われていないのか」。 それは、神のみが知ってお
られる。 それでも、聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救
われます。(使徒 16:31)」、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを
死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」と書い
てあるではないか。 だから、一旦、キリストを受け入れた者は、救いからもれることはない。 
たとえ、何をしたとしても救いを失うことはないなどと多くのキリスト教会で言われていると聞く。 
 
しかし、他の人から、「救われた」と見えるその人が、その後ずっと、主のところに留まっている
とは限らない。 パウロがいた時代、エペソ教会に属し、教師か長老の立場にいたと言われる
ヒメナオとアレキサンデルのように、いつ、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会うかは、誰に
も わからないからである。(Tテモテ1:19,20) また、自他ともに認める「救われたキリスト
者」、それも主のために良い働きをした自他ともに認める「救われたキリスト者」と呼ばれる
者であったとしても、主の御前に立った時、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす
者ども。わたしから離れて行け。」と主から言われる者たちもいる。(マタイ7:21-23) 
 
確かに天国と地獄はある。 天国へ行く者、地獄へ行く者に分けられることは事実である。 あ
くまで、「福音のことば」という基本は変わることはないが、人の過程(途中経過)だけで、天国
行きか地獄行きかを決め付けられないところがある。 人間は、生前、どのような生き方をした
としても、キリスト者(クリスチャン)であれ、未信者であれ、どのような人でも一度は死ぬ。 ま
た、真の神の御前に立つ。(へブル9:27) このことは、人が信じる信じないは関係ない。 そ
の時が来れば、その通りになる。 神は、その人の心の奥を見られている。 だから、どんでん
返しは大いにあり得るということだ。
 
福音警告のことばをその人に応じて、聞いた者知らされた者の全員が、その「神のことば」
を受け入れることを主は望んでおられる。 聞いた知らされたその時に、受け入れることがで
きなくても、その人の体の命が尽きるまでに、個々にその人に応じて神がいろいろな方法で
「救い」を迫ってくださる。 それは、ただただ神のあわれみであるが、それに気づいて悔い改
める者もいれば、関知しない者もいる。 
 
一人一人の最期の時、主の御前に立った時のことをご存知なのは、主なる神だけである。 一
人一人、天国へ行ったか地獄へ行ったかを、正確に知っておられるのは神だけである。 そう
いう意味で、「救い」は、ある意味、人が完全に知ることのできない「神の領域」である。 ただ、
「キリストの十字架と復活」という「神の恵み」を知らされていることは、人間に「神の領域」の一
部を知らせてくださっているということである。 上記の使徒行伝16章31節ローマ人への手
紙10章9節のことばや、他聖書に記されている「救いに関することば」は、みな事実であり真実
である。 本当に、「キリストの救い」は、神の一方的なあわれみと恵みに満ちたものである。 
このような「救いに関することば」を感謝して受け入れ、主イエス・キリストの御前にへりくだる者
を神は見捨てられない。 「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しか
し、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」と書かれている。(詩編138:6)
 
また、神は創造主であり、人間は被造物である。 被造物である人間が、創造主のこと、創造
主が行なわれるみわざのすべてを理解しようとすることなどできない。 パンクする。  幼児に
東大の問題を延々と説明しようとするなら、幼児はパニックになって泣き叫ぶであろう。 的を
ついたたとえではないかもしれないが、人間が創造主のすべてを知ろうとすることは、そういう
ことに似たことではないだろうか。 だから、人間が完全に知ることのできない「神の領域」があ
るということは、神の人間に対する「神のあわれみと神の愛のあらわれ」であると思う。 ところ
が、人間は、何でも知りたがり、知ることに満足し、時には優越感を持つ存在である。 
 
かつて、アダムとエバは、まだ罪が入っていなかったとき目が開け、善悪を知るようになる」
という蛇の言葉に魅かれ、賢くするという善悪を知る木から食べて罪」が人類に入ってき
た。 人間の自由意志が、正しく使われなかった結果である。 人間が完全に知ることのでき
ない「神の領域」があるということをアダムとエバが知っていたなら、・・・と思うが、そこに焦点
を向けるべきではない。 神がちゃんとキリストによって解決してくださっておられ、大きな「神
の祝福と恵み」を与えてくださっておられるのだから、むしろ、我々人は、「神の祝福と恵み」
感謝して受け入れ、主なる神に目を向けるべきである。 
 
先週のめんどり通信/2016年11月13日で、『神からの試練による「苦しみ」の原因、理由を、
神はヨブに答えられなかったが、それにも「神の領域」があるのかもしれない』と書いたが、確
かに、軽い苦難ではなく、ヨブほどの苦しみ、苦難を通っている者であるなら、苦難の原因、理
を知りたいと思うであろう。 それが、たとえ、人間が完全に知ることのできない「神の領域」
に関することであったとしても、もし知ることができるなら、苦しみが、ほんの少しでも軽減され
るのではないのか、と思うものであろう。 「苦しみ」「苦難」の原因、理由を教えられる場合もあ
るかもしれないが、ヨブのように答えられないのは、なぜなのだろうと、もう一度考えてみた。
 
もし、苦難の理由が、例えば@「あなたを、かくかくしかじか、こういうレベルの恵みに与らせる
から、その恵みを受けた時に、高ぶらないため」とか、A「あなたは、以前、このようなことを、
仕出かしたから、このような苦難を通るのだ」などと具体的に語られたなら人は、どう反応する
だろうか。 @いつ終わるとも知れない厳しい試練で、あまりの苦しさゆえ、「それなら、それほ
どレベルの高く尊い恵みはいりません。 もっとレベルの低い恵みでいいですから、今すぐ、こ
の苦難を終わらせてください。」と、自分の自由意志で返答する可能性の方が大であろう。 ヨ
ブほどの苦難は、それほど苦しいものであるからだ。 神は、その人が、その試練の期間を全
うできるようにと細心の神の計らいをなされるので、その人が、その苦難に耐えられることをよ
くご存知である。 しかし、人が、自由意志でリタイヤする、と返答するなら神は、それを認めざ
るを得なくなる。 
 
また、A「自分の肉の思いや考えに基づいた言動をしてしまったことを悔い改めても刈り取りを
しなくてはならないのでしょうか。 自分は何と愚かな者だろうか。 この苦しみを受けても当然
なのだ。」などと、神に目を向けずに、苦しむ自分に目を向けて、「救い」とは正反対の方向へ
行く恐れがある。 このように見ていくとき、やはり、人が完全に知ることのできない「神の領
域」があることは、神の人間に対する「神のあわれみと神の愛のあらわれ」であると思う。
 
いずれにしても、ヨブのところでもわかるように、神はご自身が目を留められた者に、神ご自身
のことを深く知らせることをご計画してくださっている。 ヨブは神を知っていた。 キリスト者も
主イエス・キリストを知っている。 ただ、「キリストを知る」ことには深みがある。 「キリストを知
る」ということは、「神と出会う」、「神を見る」ということにつながる。 「神と出会う」、「神を見る」
というのは、人間が頭で納得して出会うのではない。 それ以上のこと。 もし納得してからと言
うのなら、「神と出会う」、「神を見る」ことが、人間の納得した基準内に引き下げられてしまう。 
我々人間の基準ではなく、神は、神の基準に引き上げられたところで、我々人に、「顕現され
ること」、「ご自身を知らせること」を望んでおられるのではないだろうか。 
 
神は、ヨブに神ご自身のことを深く知らせることにより、、神に出会わせた。 すなわち「神を見
せた」。 そして、そうされることにより、ヨブを、深くへりくだらせた。 へりくだりにおいても 更
に深みがあるからだ。 神は、ご自身のそばにヨブを引き寄せるため、ヨブの訴えに直接に答
える方法をとられなかった。 しかし、ヨブの訴えは無下にされておらず、ヨブが受けた「神の恵
みと祝福」は大きいものだった。(ヨブ記42:10-17) 結果的に見れば、ヨブが知ることのできな
い「神の領域」があったことは、ヨブにとって、むしろ、大いに益になった。 
 
ヨブは、神に対して、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられ
ることを知った」と申し上げたが、神とヨブとの交わりが、それまでと比べものにならないくらい、
深く身近になったと思われる。(ヨブ記42:2) 我々も人間が完全に知ることのできない「神の
領域」を通して、更に深く 神の愛に触れたいものである。 
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 11:33
   ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り
   尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
 
 
 
 



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