めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年1月22日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルについての思考>


★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5:10 
   主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主
   とともに生きるためです。
 
創世記のアブラハムに関することが書かれている章を読み進めている時、ハガルのことが
気になったので、いろいろ思考してみた。 ハガルに関して書かれているところは多くはない。  
おもに創世記16章25章に書かれている。 尚、創世記17章で、神は、アブラハムが99歳の時、
サラが89歳の時に、神はアブラハムと契約を結ばれ、「アブラムとサライ」「アブラハムとサラ
に改名」を命じられ、「契約のしるし」として、アブラハムとかかわるすべての男子が、「割礼を
受ける」ことを命じられた。 
 
さて、創世記16章。 アブラムがカナンの土地に住んで10年後のこと。 妻のサライは、不妊で
神の約束のことば通りには、子どもが生まれる気配がなかった。 それで、サライは、アブラム
にサライの女奴隷ハガルによって子どもを得ることを提言した。 当時の慣習では、妻の奴隷
が夫との間に産んだのであれば、その子は、妻の子となることが許されていた。 アブラムの
妻サライは、自分の女奴隷を、夫アブラムに妻として与えた。 女奴隷ハガルは妊娠した。
 
ところが、女奴隷ハガル(ヘブル語で「逃亡者となる」「逃げる」の意味)は、主人であるサラを
見下すようになった。(軽んじた) それで、サライはアブラムに、そのことで詰め寄った。 アブ
ラムは、「彼女をあなたの好きなようにしなさい。」とサライに言った。 ヘブライ語原典によると、
ここは「彼女に、あなたの目に最も良い事を彼女にしなさい。」ということで、サライが自分の目
の判断でしたことなので、その結果についてもまた、自分の目に一番良いことをするようにとア
ブラムは言ったということらしい。 
 
サライが、ハガルにつらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げ去った。 すると、主の
使いが、カナンの地とエジプトを結ぶ幹線道路である「シュルへの道」で、ハガルを見つけてく
ださった。 ハガルは、エジプトに戻ろうとしていたのかもしれないが、故郷のエジプトに戻って
も、奴隷である彼女を保護してくれる者はいなかったであろう。 主の使いは、「女主人のもと
に帰り、従順に仕えなさい。」と言われた。 この箇所は、ヘブライ語原典では、「お前の女主人
に帰れ。そして彼女の手の下で苦しめられよ。」ということらしい。 人から見れば理不尽のよう
に思えるが、それでも、神が定められた位置に留まることが、主のみこころである。 神は、意
味もなくそのようには語られないし、そのように語られてハガルを無下にするような方ではな
い。 そのことを、ハガルも知ったと思われる。
 
また、主の使いは、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどにな
る。」約束のことば与えられ、更に子どもの名まえを「イシュマエル(神は聞かれる)」と名付
けるようにと言われた。 ただ、これらのことばの後、「彼は野生のろばのような人となり、その
手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住
もう。」とも言われた。 
 
主の使いのことばを聞いたハガルは、女奴隷さえも気にかけてくださった神に感謝し、神を「あ
なたはエル・ロイ。(ご覧になる神)」と呼んだ。 それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、な
おもここにいるとは。」とハガルは、主の使いを見てそれが神ご自身であることを悟り、死んで
いないことに驚いている。 ハガルはアブラムの天幕に戻り、アブラムに男の子を産んだ。 ハ
ガルから詳細を聞いていたであろうアブラムは、その男の子をイシュマエルと名づけたというこ
とである。
 
創世記21章の場合。 その後、アブラハム100歳とサラ90歳の時、神の約束のことば通り、「イ
サク(笑う)」が生まれた。 イサクが乳離れの盛大な宴会のとき、サラはイシュマエルがイサク
からかっているのを見て、この事実をアブラハムに訴え、ハガルとイシュマエル親子を追放
するようにと願った。 ここの「からかって」は、ヘブライ語原典では、「戯れて」ということで、そ
「戯れ(メツァヘク)」は、単なる遊びではなく、偶像崇拝・姦淫・殺害と同じ意味を持つ言葉
という。 サラは、宴会の時、イシュマエルが、イサクの殺害を連想させる戯れをしたのかもし
れない。 サラは、イシュマエルに語られていたことば(創世記16:12)をアブラハムかハガルか
ら聞いていたと思われる。 だからこそ、サラは、不吉な予感を感じていたのかもしれない。 し
かし、アブラハムは、二人とも自分の子どもであるゆえ、非常に苦しんだ。 すると、神は、「サ
ラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。(21:12)」と言われた。
 
翌朝早く、アブラハムは、パンと水の革袋を取って、神が言われたようにハガルとイシュマエル
を送り出した。 彼女たちは、ベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。 追い出されたハガル
は、革袋の水が尽きたとき、絶望し、子どもの死ぬのを見たくないと思い、声をあげて泣いた。 
イサクの乳離れの年齢が2歳か3歳であるなら、イシュマエルは16歳か17歳。 神は、声を上げ
て泣いたハガルの声を聞かれたのではなく、少年の声を聞かれ、天からハガルを呼んだと書
かれている。 そして、神に勇気づけられ、目が開かれ、井戸を見つけ助けられた。 イシュマ
エルは、パランの荒野に住みついて、母ハガルは、エジプトの国から彼のために妻を迎えたと
いうことである。
 
これらの箇所から、多くは、サラはハガルに対してきつく、奴隷と言えどもハガルはかわいそう
な人とハガルに同情が集まることが多いようである。 確かに、発端はアブラハムとサラであ
る。 「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。(創世記15:4)」という主のことばアブラムに臨ん
だが、それは、アブラムの実子が跡を継ぐという意味で、妻サライとの子が跡を継ぐということ
である。 当然、アブラムは、そのことを妻サライに伝えていたはずである。 それなのに、アブ
ラムとサライが為したことは、約束の成就を待たずに、自力で解決しようとしたことで、特にサ
ラは、「神と神のことば」よりも「世の常識」「自分の考え」の方を信じ、優先し、行動してしまっ
た。 アブラハムも優柔不断でサラに同調した。
 
しかし、神は、サラのハガルに対して、言うことすることに関して、サラを責めておられない。 
むしろ、ハガルに、サラのところに帰れと言われ、21章のときには、サラが、ハガルとイシュマ
エルを追い出せと言ったことで悩んでいたアブラハムに、「サラがあなたに言うことはすべて聞
きいれなさい。」と言われた。 そこに注目すべきではないだろうか。 ヘブライ語原典では、
「悩んではならない。」が、「お前の目に悪くなるな」、すなわち、アブラハムはサラが悪いよう
に見るが、サラを悪く見るな、サラは悪くないという意味らしい。 神の視点と人の視点は全く違
うのである。 ただ、アブラハムとサラが人間的な方法で、奴隷ハガルによって長男イシュマエ
ルを産んだというこの事(失敗)により、神はアブラハムに13年間、顕現されず、沈黙された。
 
他にもハガルについて思うこと。 考えること。 16章で語られた主のことば中で、ハガルの
子孫は、数えきれないほどになるとか、男の子が産まれ、その子の名まえイシュマエルを神が
名づけられた、という主のことば感謝できるであろうが、「彼は野生のろばのような人となり、
その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対し
て住もう。(16:12)」ということばを聞いて、ハガルは、どう感じたのだろうか 荒野で生活す
る以上、多くの他民族との戦いがあるからかもしれないが、イシュマエルは攻撃的な性格であ
るということ。 弟イサクとも敵対するということだ。(この時、イサクはまだ生まれていないが) 
 
ハガルは、荒野で(16章)で神が自分を見ておられることを知り、奴隷の自分を顧みられる神
であることも知り、モーセと同じような体験(出エジプト33:22,23)をしたことも言っているが、なら
ば、なおさら、16:12主が語られたことば気にならないのだろうか ハガルは、自分は神
の後ろを見た、ということが、あまりにも大きなことだったから、そちらの方に心が捉われて、
のことば内容を深く考え受け留めることができなかったのだろうか 確かに、神に出会うこ
とはとてつもなく大きなことである・・・。 この時の感動があったからこそ、女主人サラのところ
に帰ることができたのであろう。 しかし、その感動が、ずっと持続したのだろうか それが
持続するということは、ハガルに与えられた位置で、心からへりくだって女主人サラに仕えると
いうことである。
 
もしかしたら、アブラムの子孫と同じようにハガルの子孫も増やすこと、自分の子の名まえをイ
シュマエルと神が名づけてくださったことは、ハガルにとって受け入れやすいことばであったか
もしれない。 イシュマエルもアブラムの子孫であること、それが、ハガルにとって大きなことで
あっただろう。 だから、それらを受け入れた後の、決して心地よいことばとはいえないイシュマ
エルに関してのことばについては、深く考えず、深く受け留めなかったのかもしれない こう
いうことは、我々キリスト者にもありがちなことである。 聖書やいろいろな方法で語られた「主
のことば」を、自分の都合のいいように受け留めるか、もしくは自分が受け取れる分以外は、
深く心に留まらせていないということが、あるからだ。 「主のことば」の一部だけを受け取っ
て、有頂天になっていないか吟味することも必要かもしれない。
 
さて、ハガルは、サラのところに帰り、イシュマエルを産んだが、イシュマエルは誰が育てたの
だろうか ハガルが荒野から帰った時、主が語られたことばを、アブラハムとサラに伝えた
であろう。 ただ、ハガルが戻ってきたとはいえ、アブラハムの長男として、サラが育てることを
しただろうか 主がアブラハムに語られたことばとハガルが帰ってきたことから、サラは、最
初アブラハムに提言した時のようではなかったと思われるのだが たとえ、サラがイシュマエ
ルを育てたとしても、イシュマエルの人間性の育成には、大いにハガルの影響が強かったと推
測できる。
 
なぜなら、イシュマエルがイサクをからかう(戯れる)ような者に育っているからだ。 もし、サラ
がイシュマエルを育てたのであれば、イサクが生まれるまでに十年以上あったのだから、イ
シュマエルを追い出せ、とは言わなかったのではないだろうか また、ハガルも、16章でサラ
のところに帰ってから、心底、正しくサラに仕えることができていなかった可能性はある。
 
また、21章で、神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけて、生き、そこで生活の
基盤を得たが、目が開けて「まことの神」を知ったのであれば、なぜ、イシュマエルの嫁をエジ
プトから迎えたのだろうか ハガルは、「あなたこそ、エル・ロイ、わたしを顧みられる神で
す」と確かに、神に出会ったのかもしれないが、砕かれていなかった可能性がある 人は、
苦労したから、苦難試練を通ったから砕かれたとは限らないからである。 それほど、人間の
自我は固い。 主の介入なしには、砕かれないものである。 日々の生活の中で、主により頼
み、主を見続けている者を神は捨て置かれない。 本当の助けは、ある意味、砕かれることか
もしれない。 
 
パウロが、イサクとイシュマエルの対比を、ガラテヤ人への手紙4章28-31節でしている。 パウ
ロは、ハガルの子イシュマエルは肉の子どもであったのに対して、サラの子イサクは御霊に
よって生まれた子どもだったという。 ハガルは肉的な誕生しかしていない人を象徴していた。 
すなわち、砕かれていない人を現わしていると思われる。 イサクはイエス・キリストの贖いに
よって新しく生まれた人を現していた。 ただ、この新しく生まれた人は、生まれて終わりだけで
はなく、アブラハムやサラのように砕かれた人を現わすと思われる。 
 
いろいろハガルのことを考えながら思った。 やはり、神にはすべてにおいてご計画があり、一
つ一つの出来事は神が支配しておられるのだと。(マタイ10:29、ローマ4:17、コロサイ2:10) 
そして、そのご計画を「今」も進めておられるのだと。 また、人には、一人一人、主が定められ
た位置、与えられた位置があるのだと。(めんどり通信/2013年6月9日。<主が与えられた位
置にとどまっているなら神が立てた権威に従うことができる>/2015年10月11日。<神が定め
られた立ち位置から離れると傲慢、高慢になることについての思考:イザヤ書14章から思考>
を参照)
 
今も生きておられ、ご計画を進めておられるイエスから目を離さないで、常に「主イエス・キリス
トを足場にした歩み」、すなわち、「神と共に歩むこと」をしていきたいものである。 主イエス・
キリストに心から頼り、頼り続けているのか、・・・など祈りつつ、ゆっくり考えてみたいものだ。
 
★旧約聖書 詩篇 94:14
 まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。
 
 
 



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