めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年10月11日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
神が定められた立ち位置から離れると傲慢、高慢になることについての思考:イザヤ書14章から思考


★旧約聖書 イザヤ書 14:12 〜14:15
   暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 
   どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。
   神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の
   頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とさ
   れる。
 
★旧約聖書 ミカ書 6:8
   主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
   のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
   ではないか。
 
●人には、それぞれ 神が定められた立ち位置がある。 本来、人がおるべき位置は、罪を犯
す前のアダムとエバのように「主である神のもと」である。 そこから離れる、遠ざかるというこ
とは、高ぶり、傲慢になる可能性がある。 アダムとエバに罪が入る前は、「主である神のもと」
で神との親しい交わりがあった。 ところが、彼らは、神のことば退けて、「目が開け、神のよ
うになり、、賢くする」という蛇の言葉を受け入れた。(創世記3章) このことは、彼らが神に対
する謙虚さ、素直さ、謙遜を失ったことであり、それは神に対して傲慢であり、高ぶりである。 
 
この傲慢、高ぶりは「罪」であるが、これは最初、サタンから始まった。 冒頭のみことばイザヤ
書14章の箇所には、バビロンへのさばきと滅びの理由が書かれているが、要は、バビロンの
王が栄光の座から落ちたのは、『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上
げ、・・・いと高き方のようになろう。』と考えたからであると書かれている。 この「思い」には、
サタンが働いていたことは明らかである。 ここの「バビロンの王」は、当時のバビロンの王を
指すだけでなく、むしろ世界の国々の大きな権威と位、力を持っている者たちをあらわしてお
り、その背後には、サタンの支配と働きがあるということである。 「バビロンの王」とは、サタン
の象徴的な型であり、神に裁かれる存在であるということだ。 黙示録には「大バビロン」という
名まえが出てくるが、そこは「悪霊の住まい」と書かれている。(黙示録14:8,16:19,17:5,18:2)
 
サタンは、サタンになる前に、御使いのかしらであり、「北の果てにある会合の山」すなわち、
天の御座で神に仕えていた。 「明けの明星」と呼ばれ、御使いの中で最も美しく、賢く、力ある
存在だったという。 本来、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕
えるため遣わされた」という尊い神の務めがある。(へブル1:14) ましてサタンは天使長だっ
たゆえ、更に尊い務めを与えられていたと思われる。 しかし、神が定められた(与えられた)
立ち位置から離れた時点で、この務めができなくなったばかりか、「いと高き方のようになろ
う。」と企(たくら)んで傲慢になった。 そのためサタンは、神によって、その位置(地位)から陰
府(よみ)に落とされた。 
 
ただ、サタンが神によって、その位置(地位)から落とされる前に、サタン自らが、その立ち位
置から離れた。 御使いにも与えられていた自由意志で、自ら その立ち位置を離れた。 こ
こが問題である。 ちなみに、この箇所のヘブル語「明けの明星」は、イザヤ14章12節にし
か使われていないという。 これをラテン語「ルシファー」(Lucifer)と訳したのだという。 神の子
イエスを意味するヨハネの黙示録22章16節「明けの明星」とは違うということである。
 
さて、主イエス・キリストを信じた者たち、自称、他称クリスチャンというのではなく、神の目から
見られてクリスチャンである者たち一人一人は、一つのキリストのからだの中の一つ一つの肢
体(器官)である。(Tコリンと12章) 「わたしの教会をわたしが建てる(マタイ16:18)」とイエス
は仰せられたが、キリストのからだなる教会は本来「一つ」である。 この「教会」(ギリシャ語で
クレシア:呼び出された者たちの集り、召し出された者たち)のかしらは、キリストである。(エ
ソ5:23)  神の目から見られてクリスチャンは、この一つのキリストのからだの、一つの部
分に組み込まれている。 それが、その人に与えられた立ち位置である。 例えば、足として召
し出されている者が、健全な手があるのに、主の命令もなく しゃしゃり出て手の働きをするこ
とは、神から与えられている立ち位から離れることであり、高ぶりにつながる危険性がある。 
 
ただし、自分が、どの部分(肢体、器官)であるのかを知らない人が多いと思われる。 しかし、
主と交わりをしながら歩んでいるうちに、必要な時がきたら主が教えてくださるであろう。 主
の方が、その人が知ることを必要と見なされたなら、その人に わかるように教えてくださるで
あろう。 
 
また、基本的には「主である神のもと」に立つことが人の立ち位置であり、一つのキリストのか
らだの中の一つの肢体(器官)のところが人の立ち位置であるが、サタンが天使長という立ち
位置であったように、人によっては、さらに具体的なものもある。 使徒、預言者、伝道者、牧
師、教師という立ち位置。(エペソ4:11) 監督、執事という立ち位置。(ピリピ1:1) ダビデのよ
うな王、すなわち先頭に立つべき立ち位置、など具体的に知らされる立ち位置もある。 教会
の役員会で決められたり、ある特定の教団の神学校を出たから牧師という立ち位置が与えら
れたというのではなく、それら一つ一つの立ち位置も、主なる神から与えられるものである。
 
それらの立ち位置を自分の思い込みではなく、主から明確に教えられて知ったなら、その位置
ら離れないことある。 その立ち位置を離れるということは、意識するしないに関わらず、
神に反抗、反逆しているという可能性がある。 それは主を悲しませる。 「主なる神を愛して
いる」と言いながら、「何事も主のために」という思いをもって過ごしながらでも、その可能性が
全くないとは言い切れない。 もちろん、一人一人に応じて訓練試練が与えられて、自我が砕
かれ、肉が切り取られていくうちに、人は「罪」から遠ざかり、見事に変えられていく。 そうし
て、「主への愛」が深くなっていく。 そのような者たちが、「主なる神を愛している」と言い、「何
事も主のために」という思いをもって過ごすことを、主は喜ばれるであろう。 しかし、そのよう
な者たちにとっても大切なことは、神から与えられている自分の立ち位置を知ること、自分と交
わっている人たちの立ち位置を知ることである。 そして、その位置に立っている者を互いに尊
ぶことである。(Tコリント12:23、Tペテロ2:17) それが、へりくだる秘訣である。
 
悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている(T
ペテロ5:8) 悪魔、サタンは、自ら自分のおるべき位置から企(たくら)みをもって離れたが、そ
のような企みを露ほども持たない者であったとしても、人の心の奥底、自分でも気づいていな
い心の奥底に、おるべき位置から離れて、神に対する謙虚さ、素直さ、謙遜を失ったアダムと
エバの性質が残っている可能性はある。 だから、具体的な立ち位置が与えられている者は、
より深く清められることを主の方が望まれている。 それだけ、一人一人(クリスチャン)が、「ど
の立ち位置にいるのか」、「神が定められた立ち位置にいるのかどうか」ということが重要であ
るということだ。 
 
いずれにしても、必ずきちんと立っていなければならない立ち位置は、主である神のもと」
ある。 このことは、クリスチャンだけでなく、神に造られたすべての人間の立ち位置である。 
とにかく、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主と主のことばの御前にへりくだる
こと、絶えず主の御心を知って祈っていくこと、聖霊の流れに乗ってくことをして、神から与えら
れている立ち位置にとどまっていたいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 27:4
   私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
   に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。



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