めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年6月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主が与えられた位置にとどまっているなら神が立てた権威に従うことができる:ダビデから学ぶ



★新約聖書  ローマ人への手紙  13:1
    人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威
    はすべて、神によって立てられたものです。


★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5
    わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
    中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた
    がたは何もすることができないからです


イスラエルの初代王サウルは、最初、イスラエル人の要求によって、神が立てられた。 しか
し、まもなくサウルの不従順によって、神の霊はサウルから離れ去った。その頃、神はサウルに
代わってダビデを召し出され、預言者サムエルによって、ダビデは王になるための油注ぎを受け
た。ダビデは人の要求によってではなく、神の要求により神ご自身が、直接、召し出されたが、ダ
ビデが公にイスラエルの王として立つには、ある程度、時間を要した。その期間は、ダビデにとっ
て訓練、試練の時となった。本来、神に召され、油注ぎを受けたならば、その時点で、それ以前の
位置とは違い、サウル王と立場が逆転するものである。まして、サウルは神に捨てられた者、い
や、サウル自身から神を離れたと言っても過言ではない者であるから、王の位置には、ダビデが就
いて当然であった。

しかし、ダビデは、神に召し出され、王としての油注ぎを受けても、サウル王より低い位置、すなわ
ち、サウルに仕える家来としての位置にとどまった。そのことの現れが、Tサムエル記24章と26章
に記されている。サウルはダビデに対しての妬みから、ダビデを殺そうと執拗に追いかけた。 ダビ
デは荒野へ逃げていたが、とにかく必死にサウルから逃れようとした。そのときの苦しんだ様子が、
詩篇に綴られている。そんなダビデにサウルを殺すチャンスがきた。 ダビデの部下に、これは主
が与えてくださったその時です、と促され、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。 しかし、そ
の後で「主に油そそがれた方、私の主君に対して・・手を下すなど、主の前に絶対にできないこと
だ。・・(1サムエル記24:6)」
と心を痛めた。二度、サウルを殺すチャンスがあり、部下に促されても
ダビデはサウルに手を下そうとしなかったばかりか、部下たちにも手を下すことを許さなかった。
 
たとえ、神からの直接の召しがあり、神からの王としての油そそぎがあったとしても、神が定められ
た位置にとどまることが重要なのである。その時に神が定められていた位置にとどまっているなら
ば、神が立てた権威にも従うことができる。確かに神は、サウルを退け、ダビデを選び召し出され
た。 それでも、何事においても神の計画がある。 また、従う相手、この場合はサウルであるが、
サウルが間違っているなら、神がその者に、神の方法で間違いを正されるか、裁きを与える。その
ことをダビデはよく悟っていたと思われる。 「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼は
その生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。(1サムエル記26:10)」
とダビデの
言葉から伺える。  だから、あくまで、その時のダビデの位置は、サウルの家来としての位置にとど
まることが主のみこころだった。 その後、サウルは戦いのとき死んだ。 神によって裁かれたのだ。

そして、ダビデは、主なる神が、サウルを裁かれて死んだ後、公においても「王」としての位置に就
いた。 このように、神が定められた位置にとどまるということは、神に対してへりくだっているという
ことであり、神が立てた権威に従っているということである。 

著者の体験。 約17年ほど前、主のあわれみによって以前、所属していた教会から主が召し出して
くださった。 実際は「追い出された」のだが、「召し出してくださった」という言葉を、教会を出て数年
経って、ようやく使えるようになった。 当時の牧師は、信者を信仰に固く立たせようと熱心だった。 
だから、「とにかく牧師の言うことはみなイエス様が言っているのと同じ」ということが信者の心の奥
に入り込んだ。 著者も牧師は神が立てられた権威だからと、必死に従おうとしたが、牧師の気に
入る通りに従えていなかったようだ。 役に立たない、どうしようもない、イエス様に嫌われていると
教会を追い出された。 霊的にも深い方だったが、カルロス・アナコンディアやベニー・ヒンなど怪し
い器が導く流れを受け入れた。 その他、悪霊に付け込まれる隙があり、それらをサタンは見逃さな
かった。 しかし、そのようなことを著者は全く見えていなかった。 むしろ、追い出されることにより、
深く傷つき、人間不信、クリスチャン不信、教会不信に陥った。 しかし、著者がこうして主から離れ
ず今日があるのは、当時、必死に神が立てられた権威に従おうとした、すなわち、みことばに従おう
とした著者の心の奥(本音)の態度を主は見られて、あわれんでくださったからだと思う。 心から主
に感謝する。 そして、そのような体験は、著者の自我を砕き、肉を切り取るためには必要なことで
あった。 

さて、主は、キリスト者にぶどうの木と枝のたとえで、ぶどうの木であるキリストにつながる枝であり
なさいと、キリスト者がとどまるべき位置を教えておられる。 また、旧約時代は、神の民という位置
以外に、王、預言者、祭司という油を注がれる特別な位置があった。 神の民であるイスラエルの
民は、神が定められた位置にとどまっていたときには、特別な位置に立てられていた預言者、祭司
たちの語る「主のことば」に従っていた。 しかし、神が定められた「神の民」としてのおるべき位置が
ずれると、奴隷根性があらわれきて、「主と主のことば」を疑ったり、不平不満を繰り返し、自分に不
都合なこと、悪い状況などを人のせいにしたり、偶像崇拝に走ったり・・した。 

その他、キリスト者の位置については、パウロがローマ人への手紙コリントの手紙でも語ってい
る。(めんどり通信/2011年6月19日参照)また、プロテスタントのキリスト教会では「万人
祭司」とか「全信徒祭司」という言葉をいう。Tペテロの手紙2:9、黙示録1:6、黙示録5:
10
などが根拠として挙げられる。 教会によって解釈はいろいろあるようだ。 「万人祭司」
であるなら、「牧師も信徒もみな同じ祭司の位置」である。 もしくは、だから牧師、牧会者はいらな
い、教会も必要ではなく、集会があればそれがみこころである、ということもよく聞く。 しかし、エペ
ソ人への手紙4章11節
には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人
を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
と書かれている。 

いずれにしても、キリストを信じる者には、一人ひとり、与えられた位置がある。 信者の位置、牧会
者の位置、伝道者の位置・・・がある。 からだの器官であらわすなら、手の位置、足の位置、目の
位置、・・・と一人ひとりに神が定められた位置がある。 一人ひとりが、その位置にとどまっている
なら、神が立てた権威に従うことができるだろう。 また、主である神が、与えようとしている樹液、す
なわち神が与えようとしておられる「神の恵み」を受け取ることができ、一人一人に応じて、明確な
導きを与えてくださるであろう。  日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の
御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗り続けてい
きたいものである。

★旧約聖書 ミカ書 6:8
    主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておら
    れるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神ととも
    に歩むことではないか。






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