めんどり通信/2016年7月24日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <人の「死」についての再考> |
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★新約聖書 ヘブル人への手紙 13:14
私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都
を求めているのです。
★旧約聖書 申命記 30:19
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 15:50
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
●新聞のお悔やみ欄を見ると、死亡者の年齢に結構、高齢の方が多い。 その中で、低い年
齢の方が書かれているのを見ると、何とも言えない気持ちになる。 著者が学生時代、もう四
十数年にも前になるが、まだ主イエスとお会いしていない頃、「死」について考え込んだことが
あった。(めんどり通信/2013年9月1日/証しによるプロフィール一覧参照) 「死」について「め
んどり通信」でも思考したことを書いた。(2012年5月20日/<「死」について想うこと>、/2012
年3月4日<神の領域、死後>、/2014年1月19日<人が死ぬことについて:「世」に「異常に執
着」するな>) 最近も、お悔やみ欄を見ながら「死」について、いろいろ考えてみた。
新聞のお悔やみ欄を見ながら、「キリストを受け入れていない人たちは、自分が死ぬことや死
後の行先について、どのように考えているのだろうか? 特に高齢の方々は、どのように「死」
について捉えているのだろうか?」と思い巡らしていた。 今日、癌をはじめ様々な病気や交通
事故、災害による事故などが増えてきたので、年齢順に「死」が訪れるとは限らない。 平成27
年9月20日総務省発表によると、高齢者人口は、過去最高であるという。
聖書では「死」について、どのように書かれているかを見てみる。 旧約聖書では、アブラハム
やイサクやダビデ、ヨブのように「長寿を全うして死んだ」と、長寿が神の祝福として書かれてい
る。(創世記25:8,35:29、T歴代誌23:1、ヨブ42:17) しかし、これは、ただ単に長く生きたと
いうのではなく、幸いな人生であったということでもある。 長生きをすることだけが、神の最高
の祝福というのでもないからだ。 旧約聖書、創世記5章に書かれている約900年という長寿の
時代の中で、エノクだけが、その3分の1と寿命が短い。 しかし、エノクは「三百年、神とともに
歩んだ」幸いな者であった。
また、旧約聖書、伝道者の書8章12節に「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。 し
かし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」と書かれている。
長生きと幸せを別に考えている。 長生きであっても幸せがなければ虚しいということである。
逆に、長生きでなくても幸せな場合があり得る。 また、困難や苦難、苦しみが多かったとして
も、幸せな場合があり得る。
この伝道者の書の作者は、この世の中、正しく生きる者がつらい目に会うこともあるし、悪いこ
とや理不尽なこと、不条理なことも多くあるが、それでも、神を恐れ、神とともに生きている者
は、主なる神を見上げて「しあわせ」だと言っている。 なぜなら、世の中や周りの移りゆく様々
な環境の悪影響を、たとえ外側では受けてしまったとしても、内側(心)は悪影響を受けずに生
きていけることができれば、それは「しあわせ」なことであるからだ。 そして、何よりも自分の
味方に、神がおられ、自分には死後行くべきところが主なる神のところであることを明確に握
れている者の「しあわせ」は、何ものにも代えがたいことだからだ。
「死と死後」について、本当は年齢に関係なく人間ひとりひとりが、きちんと向き合い、考えるべ
きであるが、現実は、ほとんどの人が、わからないから、知りたいとは思うが、自分にとって悪
いことなら知らない方がいいから、と無関心を装ったり、真剣に知ろうとすることから避けてき
たように思われる。 中には死の恐怖を和らげようと宗教に入ったり、調べたりする人もいる。
しかし、「死と死後」についての問題、「死」の原因となっていた「罪」の問題は、約2千年前にす
でに解決されている。 新約聖書では、その人間の問題を解決された「イエス・キリスト」が登場
される。 イエス・キリストの十字架の死と3日目の復活によって、人間が長年持ち越してきた
「死と罪」の問題が解決されたことを聖書は記している。 「死と罪」の問題が解決されたという
ことは、「死ぬこと、死後」と「復活、(永遠に)生きる」ことの問題も解決されたということであ
る。 その解決により、人が「罪と死」から救われ、「父なる神との正しい関係に入る」ことがで
き、「キリストとともに生きる」ことができるようにしてくださった。 また、天の御国に通じる門戸
が開かれた。
ローマ人への手紙10章9節と13節に「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神
が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」、「主の御名を呼
び求める者は、だれでも救われる。」と書かれており、ヨハネによる福音書10章9節には「わた
し(イエス)は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」と書かれている。
誰でもこの福音を信じる者は救われるというのである。
しかし、一方で、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのでは
なく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」とイエスは
言われた。 このマタイ7:21の箇所の者たちは、イエス・キリストに向かって「主よ」と言ってお
り、それも口先だけではなく、心から言っていた。 彼らは、主の御名で、預言し、悪霊を追い
出し、伝道し、奇跡を行なっていたからだ。
ところが、ここでは、主の御名を呼ぶキリスト者(クリスチャン)が皆、「天の御国にはいるので
はない」、すなわち救いにあずかれない場合があると言っている。 イエスのことを「主よ」と言
い、自分では主イエスを信じるキリスト者(クリスチャン)であるつもりでいても、主イエスから
は、「あなたがたを全然知らない。」と言われてしまう者もいるということだ。 クリスチャンと言
いながら、実は、主イエス・キリストを知らなかったからである。 だから、主のみこころを行なう
ことはできない。 天の御国(神の救い)に入るには、イエスが言われたように「幼な子のように
神の国を受け入れる」ことである。(ルカ18:17) 「幼子」とは、たとえで、主に頼らなければ何
もできないと認めている者たちのことである。
このようにして見ると、クリスチャンであるなしに関わらず、この地上での「しあわせ」「救い」と
死後の「しあわせ」「救い」について考えてみることが大切なことかもしれない。 「キリストの救
い」は、この地上のことだけではない。 むしろ、死後が本番であり、死後に焦点をあわせてい
る。 今、生きているこの世は、死後への備えの時なのである。 だから、そういう意味で、この
地上で、どのように生きるのかが重要になってくる。 「死」がキリストによって解決されている
から、我々は「生きる」ということに目を向ける。 この地上で生きるだけでなく、神の賜物「永
遠のいのち」により天の御国で神とともに生きる。 このことを神ご自身が望んでおられる。
「生きる」ということに目を向けるということは、「死と死後」について、きちんと向き合うというこ
とでもある。 矛盾しているようだが、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事で、すでに
この矛盾は解決されている。 まず、我々は次のようなことを認めておくべきかもしれない。
@「死」とは肉体の死であって、肉体は朽ちても霊は生き続けること。 Aどのような人間も一
度は(肉体が)死に、裁きを受けること、すなわち、クリスチャンであるなしに関わらず、神の御
前に立つこと。 B裁きの基準は神であって、人の情や考え判断は微塵たりとも介入すること
はないこと。 C死後には必ず行くべきところがあること。(天の御国と永遠の火の池)
そして、この地上では、エノクのように「主と共に生きる」「主に留まって生きる」、パウロやペテ
ロたちのように「主のみこころに従って生きる」、ダビデのように「主を愛して生きる」ことに取り
組むことが重要であろう。 そうして、天の御国に入り、確実に与えられた「永遠のいのち」で、
「主と共に」生きたいものである。 それが、この地上においても死後、天の御国においても本
当の「しあわせ」だからである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 14:8
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生き
るにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
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