めんどり通信/2016年7月17日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <パウロの「私の同国人にねたみを引き起こさせて」という表現について思考> |
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★旧約聖書 詩篇(口語訳) 19:14
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
の前に喜ばれますように。
★新約聖書 マルコによる福音書 7:20〜23
また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の
心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好
色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
のです。」
★旧約聖書 エレミヤ書 12:3
主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。
●肉の行ない、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、
党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものを行なっている者たちは神の
国を相続することはないとパウロは語っている。(ガラテヤ5:19-21) その中の「ねたみ」につ
いては、今まで「めんどり通信」で思考してみた。(参照:めんどり通信/2015年10月25日<ねた
みについての思考>/2016年6月19日<「ねたみ」の思いを見逃すな!そのため絶えず主に頼
れ!>) 「ねたみ」について、神が、神とイスラエルの関係を夫婦の愛、親子の愛にたとえて、
「ねたむ神」と神に属している人間やイスラエルに対する愛の深さを表わされていることは別と
して、「ねたみ」「ねたむ」ことは「罪」であり、醜い人間の感情、思いの中の一つである。
ところが、ローマ人への手紙でパウロは、異邦人が救われることで、ユダヤ人に「ねたみ」を引
き起こさせて、ユダヤ人たちが福音に耳を傾けるようになり、彼らの幾人かが救われるであろ
うことを願っていると書かれている。(ローマ11:11-14) 『ユダヤ人に「ねたみ」を引き起こさせ
る』、というのが気になった。 「ねたみ」は罪であり、「ねたみ」について、パウロは、「このよう
なことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできない」と断言しているのに、パウロはなぜ、「私
の同国人(ユダヤ人)にねたみを引き起こさせて」という表現をしたのだろうかと推考してみた。
(ガラテヤ5:21、ローマ11:14) もちろん、聖書に書いている通り、ユダヤ人が主と主の福音を
拒絶することによって、救いは異邦人に及んだことは事実である。 いわば、それが神のご計
画でもあった。 それでも、『罪であるねたみをユダヤ人に引き起こさせる』いうのは気になる。
当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配の中にあり、パウロ(ユダヤ名は、サウロ)はイスラエ
ルの民、すなわちユダヤ人だった。 ユダヤ人だったが、ローマの市民権を持っていた。 そ
れは、当時の社会では、特別な階級であり、裕福な家庭に生まれたということである。 律法に
熱心でキリスト者を迫害していたパウロは、劇的な形で主イエス・キリストと出会って回心した。
パウロは初めは、ユダヤ人の会堂でユダヤ人伝道をしていた。 しかし、ユダヤ人の心はかた
くなで、パウロは、そこから追い出されてしまった。 それで異邦人の所に行った。 異邦人は
飢え渇いていたのか、大勢の異邦人が集まってきた。 パウロが伝えている福音を聞いた異
邦人たちはメシヤ(キリスト)を信じた。
パウロが異邦人に伝道し多くの異邦人がキリストを信じて、神のみわざが彼らの中にあらわれ
たのを見たとき、ユダヤ人は、それがイザヤ書やエゼキエル書に記されている預言のことば
の成就であると気づいたと思われる。 しかし、それを素直に認めるか認めないかで道が分か
れる。 残念ながら、多くのユダヤ人はそれを認めず、むしろ、ねたみと憎しみを持った。 同
様に、我々人の内には、アダムとエバ以来の罪が入っているゆえ、「思い」の中に神が喜ばれ
ない罪に直結するようなものが、何らかの出来事や人を通して出てくることが有り得る。 その
時に、どうするかで道が分かれる。 自分の内から出てきた「思い」が、主に喜ばれないものだ
と認めて、主に祈るかまたは、そういうふうには、つゆほども思わないで、自分の感情の赴くま
ま言動するかである。
ユダヤ人であるなら、ほとんどの者が皆、「選民意識」を持っているが、「ねたみ」が引き起こさ
れることで「選民思想」「選民意識」が浮きぼりになる。 「選民思想」とは、この世の終わりに他
民族の不義が裁かれ、メシヤの統率のもとにユダヤ人が世界を征服し、地上に神の国が実現
すると考える思想のことである。 「選民意識」とは、自分たちは選ばれた特別な存在であり、
他者を卑しい存在として見下したり排除したりしようとする考え方のことである。 このユダヤ人
(イスラエル人)の持つ「選民意識」「選民思想」には、異邦人に対する異常な優越感がある。
他民族、すなわち異邦人は神に忌み嫌われている堕落した人々であると見ている。 ユダヤ
人の「選民思想」「選民意識」は強烈である。
しかし、この「選民意識」は、最初から高ぶっていたわけではない。 神は、人間を救うために、
ご計画を立てられ、アブラハムを選ばれた。 最初の「選民」である。 アブラハムは、神に選
ばれたが、高ぶらず、人を見下さず、失敗しても心底から悔い改め、じっと神が語られ顕現さ
れるのを待ち、へりくだった。 ところが、アブラハムからイエスの時代まで約2千年間という長
い歴史の中で、へりくだって受け入れるべき「選民」は、「選民思想」「選民意識」などとエリート
意識になってしまい、異邦人を見下げるなど驕(おご)高ぶりの要因となった。 だから、この
「選民思想」を捨てられるかどうかである。 この「選民思想」「選民意識」が、ユダヤ人がキリ
ストを受け入れるのを大いに妨げていると思われるからだ。
パウロもユダヤ人であるから「選民意識」を持っていた。 しかし、キリストを受け入れてから、
パウロは、自分が持っていたもの「選民意識」をはじめ、誇りある自分のこれまでの人生の
諸々のものは、すべて、「塵あくた」「ふん土」のように思い、「わたしを母の胎内にあるときから
選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と選ばれたことに対してへりくだっている。(ピ
リピ3:8、ガラテヤ1:15) だから、キリストの心を心としていたから、「実際、わたしの兄弟、肉
による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」と
まで言えたのであろうと思う。(ローマ9:3)
また、これほどまでに同胞の民、イスラエル人(ユダヤ人)を愛していたから、「私の同国人に
ねたみを引き起こさせて」とまで言えたのだと思う。 それほど、パウロは同胞ユダヤ人を愛し
ていたから、どのようなことをしてでも救われてほしいと思ったのであろう。 パウロは、同胞ユ
ダヤ人がキリストを受け入れるのに「選民思想」「選民意識」が妨げることを知っていた。 パウ
ロ自身が、そうだったからだ。 劇的な救いを体験し、キリストに出会い、キリストを知ったゆえ
に、そのことを痛いほどわかっていたのだろう。 ちなみに、パウロが持った、へりくだった正し
い「選民」としての意識は、いろいろな苦難や様々な迫害の中でも主から与えられた使命を忠
実に果たすことができる基盤となったと思われる。
このように、「神に選ばれていること(選民)」を正しく受け入れているときには、「へりくだり」が
伴っているものだ。 しかし、ユダヤ人の場合、「選民意識」を正しく受け入れていなかった。
だから、傲慢、高ぶり、見下げるという神の忌み嫌われる心の状態であり、そのことが言動に
表れていた。 特に「ねたみ」というかたちで表われていたと思われる。 結局、「ねたみ」だけ
の問題ではなく、「ねたみ」の奥にあった「選民思想」「選民意識」が大いに問題であることがわ
かる。 ただ、このことは、ユダヤ人だけの問題ではない。 主イエス・キリストを信じているクリ
スチャンも ある意味、神から選ばれた者である。 だから、いつの間にかユダヤ人のように 高
ぶった「選民意識」を持ってしまう危険性がないわけではない。 高ぶった「選民意識」は、様々
な「罪」を引き出すことになる。 重々、気をつけなければならない。
このようにして見ると、「主と主のことば」「福音」を受け入れるのに、妨げるものは人の心の奥
底にあることが結構、多いということである。 そして、それは、一人一人皆、違う。 ユダヤ人
の場合は、「選民意識」だったが、人によっては、お金だったりプライドだったり、名誉、地位、
人からの評判だったり、いろいろである。 そこを認めて、それと向き合うことが重要である。
それを認めないのは、本当の自分から逃げていることであるとも言える。 また、自分の思い
考えを押し通すことで自我をますます強くし、神のことばに背を向けて、主が導こうとされる道と
正反対の道を歩むことになる。 自分では正しいと思ってしまうその道は、この世でも麗しい、
正しい道だと見えるのかもしれない。 しかし、主が導いておられない道は、主に背を向けた道
は、たとえ人の目にはまっすぐに見えても、死に至る道となるものがある。(箴言14:12)
いずれにしても、「心の奥底」に隠れているかもしれないもの、すなわち、サタンが働き、悪しき
霊に使われるような「思い」「願い」「考え」・・・などが浮き彫りにされるようにと願う。 主が「自
我」を砕き、主に従うことができない肉(生まれながらの性質)を切り取ってくださることを願う。
そして、心の奥底に、神への愛をいただいて、パウロのように、キリストの心を心として歩んで
いきたいものである。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだっ
て祈り、キリストにとどまり続けていきたいものである。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 7:37、38
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いて
いるなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとお
りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:16、5:25
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
なことはありません。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もう
ではありませんか。
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