めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年10月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ねたみについての思考>


★新約聖書 ローマ人への手紙 13:11〜14
   あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。 
   あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころ
   よりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 夜はふけて、昼が近づきまし
   た。 ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませ
   んか。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き
   方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いて
   はいけません。
 
●聖書に記されている いろいろな罪の中の「ねたみ」について思考してみる。 「ねたみ」につ
いて、日本語表現辞典Weblio 辞書によると、「妬み嫉み」は、読み方:ねたみそねみ。 他人を
羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。 「嫉妬」と同義。 「妬み」「嫉み」はいずれも
羨望と憎しみの入り混じった感情を表す。 「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意
味合いが若干強い。 「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い、とい
うことである。 「ねたみ」に関連した新約聖書の箇所を幾つか列挙してみる。
 
★ヤコブの手紙 1:19 愛する兄弟たち。 あなたがたはそのことを知っているのです。 しか
し、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
 
★ヤコブの手紙 3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるなら
ば、誇ってはいけません。 真理に逆らって偽ることになります。
 
★ガラテヤ人への手紙 5:19-21 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、
汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩
酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあ
らかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
 
★ペテロの手紙 第一 2:1,2 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、い
ろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋
な、みことばの乳を慕い求めなさい。 それによって成長し、救いを得るためです。
 
このように、聖書では、怒りは、コントロールの必要性はあるが、怒ることを否定していない。 
しかし、「ねたみ」は、真理に逆らうものであり、神の国を相続すること、成長することを妨げ、
「ねたむ」ことは、肉の行ないであり、我々が捨てるべき「罪」である、と書かれている。(ローマ
1:29、エペソ4:22) ローマ人への手紙6章23節「罪から来る報酬は死です」と書かれている
が、「ねたみ」の根を放っておくと、殺意へと高じていく。 人に対する殺意だけでなく、自分に対
する殺意、すなわち滅びへと向かわす。 
 
旧約聖書 箴言27:4には「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。 しかし、ねたみの前にはだれ
が立ちはだかることができよう。」と書かれている。 また、箴言29:22には「怒る者は争いを引
き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。」と書かれている。 みことば通り、確かに怒りも
憤りも争いや背きの罪を犯すという深刻な問題を引き起こす恐れがある。 しかし、「ねたみ」
は、それら以上に人(自分も含めて)の心の奥にまで害を及ぼす。 自分の思う、考える基準よ
り、他の人が上だという「思い」が湧きあがってきて、自分と人を比較し始める。そして、他の人
に不快感を与えるだけでなく、自分も他の人も苦しめる。 それでも、一旦、「ねたみ」の渦に入
り込むと、理性で、その「ねたみ」をコントロールしようとしても、その対象の人の存在が消えな
い限り、「ねたみ」の火は消えづらい。 悪しき霊が加担することも多いからだ。
 
聖書の中には、さまざまな人が「ねたみ」から殺意へと高じて、殺人を犯したり、争ったりしたこ
と、また、「ねたみ」から殺されたこと、苦しんだことなどが記されている。 主イエス・キリスト
場合。 イエスが、我々の罪のあがないのため十字架につけられたのは、神のご計画であっ
たことは もちろんだが、聖書(マタイ27:18、マルコ15:10)によると、祭司長、民の長老たちの
イエスに対する「ねたみ」からであったことが記されている。 祭司長、民の長老たち、自分た
ちは神に従っていると思い込んでいた。 「ねたみ」は殺人さえ肯定しようとする。
 
カインの場合。 人類最初の殺人者は、アダムとエバの長子カインである。(創世記4章) 弟ア
ベルの捧げ物は、「世の罪を取り除く神の小羊」を象徴するものであり、神に受け入れられた
が、カインの捧げ物は、罪のために呪われたものとなっていた地からの物を奉げたので神に
受け入れられなかった。(創世記3:17) このことで、カインはアベルをねたみ、殺した。 彼ら
は、両親であるアダムとエバから、堕落後に彼らが神によって皮の衣を着せられたこと、すな
わち罪の赦しについて教えられたことを聞いていたと思われる。 両親アダムとエバの話しを
へりくだって聞いていたアベルが、神の望まれる捧げ物をしたが、カインは神の望まれる物と
いうより、自分の考えで捧げ物をした。 「ねたみ」は、自分の考え、思いの正当性を主張し高
ぶりを引き起こす。
 
ヨセフの兄弟たちの場合。 アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブに12人の息子がいた。 
ヤコブは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛したので、兄妹たちは、ヨセフをねたみ、エジ
プトへ下って行くところであったイシュマエル人の隊商にヨセフを奴隷として売りとばした。 (創
世記37章) 後になってヨセフは、兄妹たちを助け、彼らが生き永らえることができるようにし
た。 ヨセフはエジプトに売られたことも神のご計画であったと認識していたからである。 「ね
たみ」は、どのような方法を使ってでも対象の人を排除しようとする。
 
初代イスラエルの王サウルの場合。 サウルは、王である自分よりダビデが称賛されたとき、
ダビデをねたみの目で見るようになった。(Tサムエル18:6-9) ダビデは、サウルに対しての
競争心さえなく、サウルのために戦った。 自分が殺されそうになっても、神が立てられた権威
を尊重し、サウルを殺すチャンスが2度もあったが殺さなかった。 しかし、サウルは惨めな死
に方をした。(Tサムエル31章) 「ねたみ」は、ねたみを持つ者を滅びへと誘導する。
 
そもそも「ねたみ」は、いつから始まったのだろうか。 傲慢、高ぶりは「罪」であり、最初、サタ
ンから始まった。(めんどり通信/2015年10月11日。神が定められた立ち位置から離れると傲
慢、高慢になることについての思考:イザヤ書14章から思考を参照) 傲慢、高ぶりと同じく、
「ねたみ」も、やはりサタンから始まった。 サタンは、神によって創造された者の中で最も知恵
に満ち、美の極みであった。(エゼキエル28:12) そのようなサタンは、創造主の神を「ねた
み」、「神の星々のはるか上に自分の王座をおき、いと高き方のようになろう」という「思い」
持った。 サタンは、自分が一番でなくてはならないと考え、一番になることを望んだのである。 
そういうところは、負けず嫌いプライドが高いということも「ねたみ」と似ている部分がある。 
いずれにしても、「ねたみ」は、罪の源と言えるほど厄介なものである。
 
「ねたみ」が人間の内に入ってきたのは、アダムとエバが、「善悪を知る木からは取って食べて
はならない」という神のことば退けて、「食べても死ぬことはない。むしろ、目が開け、神のよ
うに賢くなる」という蛇(サタン)のことばを受け入れたときである。 そのとき、「罪」が人間に
入ってきたが、「ねたみ」も同様である。 「ねたみ」はサタンの性質である。 だから我々すべ
ての人間は、アダムとエバ以来の性質(罪の性質)を受け継いでいるのである。 人の心の奥
には、この「ねたみ」が多かれ少なかれ、潜在している恐れがある。 主イエス・キリストを信
じて、罪が赦されたと言っても、人の性質がすぐにパッと完全に変わるわけではなく、自我が一
度にすべて砕かれ、肉が一瞬に全部切り取られるわけでもない。 変えられるには時間を要す
る。 神が、一人一人に応じて定めておられる期間(時間)があり、過程がある。 主は、主イエ
ス・キリストを信じ受け入れて「神の子」とされた者を成長させてくださるために、一人一人に応
じての訓練試練を与えられる。 
 
その与えられた過程(訓練試練)を通る時、心の奥底から真に主に従って行こうとする者、自
分を捨てようとする者は、様々なかたちで「ねたみ」が、神によって崩されていく。 すなわち、
自我が砕かれ、肉が切り取られていく。 その過程は、内容も期間もかたちも一人一人皆違う
ものである。 ただ、主が与えておられるその過程に気づかず、まさか、その時、そのことが、
神から与えられている訓練の時、試しとは思わず、自分の「思い」「考え」を押し通す者も多い。 
もしくは、自分を「痛み」から守ろうとして、崩されること、すなわち砕かれること、切り取られる
ことを拒む者もいる。 自分のプライド、自分の考え、自分の思いなどを捨てられないからだ。 
そこには悪しき霊が加担している場合も結構ある。 それでも、本当に捨てる意思があるのか
どうかは、その人が決めること、その人の責任であり、その人の意志(意思)の問題である。 
 
崩されること、切り取られることには、「痛み」が伴うものである。 しかし、神は我々が耐えられ
ない「痛み」「訓練試練」にあわせることはなさらない。(Tコリント10:13) 主が定めておられる
道を歩んでいる者で、主に心から寄りすがっている者が全く打ち伏せられることはない。(詩編
37:23,24) だから、必死に、深みから取り組もうとするなら、主は必ずその人を顧みてくださ
る。 主が顧みてくださるときには、素直になるべきである。
 
そして、そのような過程を聖霊の導きで進んで行くうちに、主を愛し主に愛されていること
感するようになる。 主が定め、与えられた過程を進めば進むほど、浅いところから深みへと
導かれるものである。 日々の生活の中で、たとえ忙しい日々であったとしても 主から愛され
ていることを心の奥底から実感できるようになってくる。 心の奥、心の深みで主に愛されてい
ることを経験し実感する者こそが、本当に、主を愛し、主に喜ばれるように人を愛することがで
きるのである。 主を愛し、主に愛されていることについて、腹の底、心の奥から実際、知り、
経験し続けて行くこと主の方が望んでくださっておられる。
 
ちなみに、出エジプト34章14節には「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その
名がねたみである主は、ねたむ神であるから。」と書かれているが、ことばとしては同じ「ねた
み」であっても、人の「ねたみ」とは違う。 神は人をねたむほど愛しているという、神の情熱の
こもった人への愛の大きさをあらわしている。(ヨエル2:18) 人の「ねたみ」とは明らかに違う。
とにかく、日々、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の
御前にへりくだって、真剣に自分の内側のことに取り組んでいきたいものである。
 
★新約聖書 マルコによる福音書 7:20〜23
   また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の
   心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好
   色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
   のです。」



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