めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年6月19日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「ねたみ」の思いを見逃すな!そのため絶えず主に頼れ!>


★旧約聖書 詩篇 139:23,24
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
   私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
 
★旧約聖書 詩篇(口語訳) 19:14
   わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
   の前に喜ばれますように。
 
●聖書の中に書かれている神の国を相続するのを妨げる感情、思いの中の一つに「ねたみ」
がある。(ガラテヤ5:21) この「ねたみ」を捨て去ることを使徒たちは勧めている。(Tペテロ
2:1、ローマ13:13) 「妬む」「妬み」の意味は、goo辞書によると「他人が自分よりすぐれている
状態をうらやましく思って憎む。 ねたましく思う。 男女間のことで嫉妬(しっと)する。 やきもち
をやく。 腹を立てる。 恨み嘆く。」とある。 
 
また、日本語表現辞典Weblio 辞書では、「妬み嫉み」は、読み方:ねたみそねみ。 他人を羨
ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。 「嫉妬」と同義。 「妬み」と「嫉み」はいずれも羨
望と憎しみの入り混じった感情を表す。 「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意味
合いが若干強い。 「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い、というこ
とである。
 
要は、相手が羨(うらや)ましくて、その幸せを嫌だと感じ、相手への悪意があるということだ。 
「他人への悪意」は、巧妙に隠され、他人には気づかれないようにしている者もいる。 また、
自分の「ねたみ」心の奥底に潜ませていることに気づいていない者も多い。 いずれの者も、
言動するとき、この「ねたみ」が足場になっているときがある。 そのようなとき、「ねたみ」の対
象となっている者には、その言動が不快に感じるだろう。 
 
独立行政法人 放射線医学総合研究所の高橋英彦主任研究員らは、東京医科歯科大学保健
衛生学科 (松浦雅人教授)、日本医科大学精神神経科 (大久保善朗 教授)、慶應義塾大学精
神神経科 (加藤元一郎准教授) との共同で、MRIを用いた 研究により、人が妬みを持つ感情
と他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムを明らかにしたという。 妬みに関する脳
活動が強い人ほど「他人の不幸は蜜の味」と感じやすいことが脳科学的に証明されたという。
 
さて、確かに「ねたみ」「ねたむ」ことは「罪」であり、醜い人間の感情、思いの中の一つである
が、腫瘍には「良性」「悪性」があるように、「ねたみ」にも「良性」「悪性」があるという。 著
者は観ていないが、NHK「ねたみ特集」が放送されたらしい。 良性のねたみは、相手の幸
せを認めることができ、悪性のねたみは、相手の幸せを納得できない(なんであいつがっ!と
思ってしまう)というように分けることができるという。 そして、悪性のねたみを良性のねたみ
に変えるには、自分がねたみを持っていることを自覚し、自分の集中力や向上心、継続力に
変えて、自分の目標にしてしまえば良い、という発想の転換であるという。
 
確かに「ねたみ」には、「罪」に数えられないものもある。 なぜなら、神ご自身が「主であるわ
たしは、ねたむ神である」と仰せられているからである。(出20:5) 神は、アブラハムと契約を
結ばれ、イスラエルの民は神の民とされた。 そのアブラハムの子孫であるイスラエルの民に
モーセの十戒を与えられた。 その中で「ほかの神々があってはならない」「偶像を造ってはな
らない」「それらを拝んではならない」と言われた。 
 
聖書は、神とイスラエルの関係を夫婦の愛、親子の愛にたとえているが、「ねたむ神」とご自身
のことを言われたのは、ご自身の人間に対する愛の深さを表わしていると思われる。 イスラ
エルの民が偶像礼拝をするということは、夫婦の愛、親子の愛が破綻されることに匹敵され
る。 神に属しているものに対して神はねたまれる。 だから神のねたみは、神がご自身の所
有権を主張されていることであり、当然の神の権利でもあると言えるのではないだろうか。 神
は、我々を愛しておられる。 それゆえ、「ねたむ神」であるということだ。 神の情熱のこもった
人への愛の大きさをあらわしているということだ。(ヨエル2:18)
 
このように見ていくと、「神のねたみ」と、「人のねたみ」は違う。 NHKで放送された内容は、正
論とは思うが、実際、人が自分の力で、悪性のねたみを良性のねたみに変えることは難しい
し、そもそも、悪性のねたみ良性のねたみ分けることすら正しくできるかという問題があ
る。 また「ねたみ」を持っていると自分の考え、思いの正当性を主張し高ぶりを引き起こす危
険性があり、どのような方法を使ってでも対象の人を排除しようとする危険性も出てくる。 要
は、「ねたみ」を持つ者を滅びへと誘導する危険性がある。 だから、神のねたみ以外は、悪
性であろうと良性であろうと「罪」に数えられる。 「ねたみ」「ねたむ」という「思い」を人の内か
ら取り除くことが必要であろう。 
 
人は、自分の「思い」(ねたみの思いも含めて)をすべて自分が知っているわけではない。 他
人から見た方が、その人の心の奥に潜んでいる「ねたみ」や「見下す」などの悪意的な「思い」
を感じることも結構多い。 意外と人は、自分の心の奥にある「思い(ねたみの思い)」「感情」
に気づいていないことがあるということだ。 だから、人の努力である程度、変えることができて
も、本当の意味で、自分を変えるということは、神である主が介入されなければ難しいものであ
るということだ。 
 
このことについて、使徒行伝13章のユダヤ人で見てみる。 パウロの一行がピシデヤのアンテ
オケに行ったときのこと。 安息日に会堂に入り、パウロは、説教をした。 この説教で多くの
ユダヤ人もユダヤ教に改宗した者たちも感激し、次の安息日にも同じことについて話してくれ
るように頼んだという。 彼らの心に、パウロの「福音の説教、神のことば」は届いたのだ。 と
ころが、次の安息日に、ほとんど町中の人が、「神のことば」を聞きに集まって来るのを見たと
き、ユダヤ人たちは、態度を翻し、「ねたみ」に燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくのの
しったという。 すばらしい「神のことば」が心に届いていたとしても、「ねたみ」が、「神のことば」
を拒ませた。 
 
「選民」であるとの誇りを持っていたユダヤ人たちは、いつも自分たちを中心に考えており、こ
こに異邦人が一緒にいるということが許せなかったからだ。 自分たちよりも劣っている異邦人
が、割礼も受けず、モーセの律法も守らずして信仰に入っていく(神の恵みに預かる)のを見
て、快く思わなかったからだ。 
 
ユダヤ人たちは、「選民」すなわち、ユダヤ人は神から選ばれた民で尊く、ユダヤ人こそ世界
の諸々の民族の中心に立つことのできる存在であると自負していた。  尊い者が神に選ばれ
ていない異邦人と、神の導きの歴史や神の特別な恵み、救いを分かち合うことなどできないと
いう「思い」「考え」が基底にあり、彼らの心は「ねたみ」で充満していたと思われる。 このよう
に、「ねたみ」が取り除かれていないと、自分たちを変えることのできる「神のことば」「神の
恵み」さえ拒んでしまうようになる。 「ねたみ」だけでなく、肉から出てくる「思い」も同様である。 
ユダヤ人ほどではなくても、「ねたみ」は根深いものであるということだ。 
 
サタンが神をねたんで、神の座を奪おうと企てた。 それを見破られ、天から追い出され、最終
的な裁きである永遠の火の池に投げ込まれるその日まで待っているという状態である。 た
だ、じっと大人しく待っていないのがサタンである。 やがての日、永遠の火の池に投げ込まれ
るとわかっているサタンは、神が創造された人間の一人でも多くを、道ずれにしようと躍起に
なっている。(Tペテロ5:8) そういう意味では、我々人は、誰もが持っている「ねたみ」を、人
間の感情だから仕方ない、人様に多大な迷惑をかけているのではないから・・などと放置する
のは、ある意味危険である。 
 
なぜなら、「ねたみ」の思いの度合いによっては、当人が気づきやすく、悔い改めたり、思い直
したりしやすいものもあるだろうが、たとえそのようなものであっても、悪しき霊が加担すると
当人が気づかず、むしろ、その「ねたみの思い」を正当化するという間違った方向へ進む危険
性があるからだ。 イエスを十字架につけた祭司長、民の長老たちは、自分たちは神に従って
いると思い込んで、殺人さえ肯定した。
 
「ねたみ」はサタンの性質である。 だから我々すべての人間は、アダムとエバ以来の性質(罪
の性質)を受け継いでいるので、人の心の中には、この「ねたみ」が多かれ少なかれ、持って
いる可能性がある。 また、潜在しているかもしれない。 しかし、主は、主イエス・キリストを信
じ受け入れた者を成長させようと一人一人に応じて過程(訓練試練)や内容、その期間(時間)
を定めておられる。 その与えられた過程(訓練試練)を拒否せず、主により頼みながら通って
行く者の心の底に潜んでいる「ねたみ」や神の喜ばれない「思い」を主は取り除いてくださる。 
すなわち、自我が砕かれ、肉が切り取られていく。  
 
ただ、主イエス・キリストを信じ受け入れた者が皆、その過程を無事通りきれるものではないよ
うだ。 現実に起きている事がらが、主が与えておられる過程の一つであるとは思わず、自分
「思い」「考え」を押し通して、何とかして、崩されること、すなわち砕かれること、切り取られる
ことを拒む者も多いからだ。 そこには悪しき霊が加担している場合も結構あるが、それでも、
自分の「思い」「考え」を捨て、主なる神に拠り頼むのかどうかは、その人が決めることである。 
それは、その人の責任であり、その人の意志(意思)の問題である。 
 
とにかく、日々、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の
御前にへりくだって、真剣に自分の内側のことに取り組んでいくためにも、絶えず主に拠り頼
んでいきたいものである。
 
★新約聖書  ヘブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
   り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:1、2
   ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、
   すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕
   い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
 
 



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