めんどり通信/2016年6月5日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <なぜ神なる主はイエスの兄弟ヤコブとシュネムの女を用いるのか> |
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★新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分
の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている
戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り
上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって
神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
●先週のめんどり通信/2016年5月29日で、「なぜ、神は、イエスの弟ヤコブをエルサレム教会
の指導者に据えられたのだろうか?」という疑問から、いろいろ思考してみたが、更に推考して
みたいと思う。 使徒時代、ペテロはエルサレム教会を中心としたユダヤ人クリスチャンの中
心に位置しており、「ユダヤ人への使徒ペテロ」と言われ、パウロは、アンテオケ教会を基盤と
して、異邦人(ユダヤ人以外の民族)の 伝道を重視し、「異邦人への使徒パウロ」と言われて
いる。 もちろん両者ともユダヤ人であり、ユダヤ人の救いのことを願っていたし、主が、異邦
人に救いの門戸を最初に開かせたのはペテロであるが、使徒行伝に書かれている説教を見
ると、いろいろ説教の箇所はあるが、ペテロは、2章と3章はユダヤ人向けに語り、10章は異邦
人向けに語られている。 また、パウロは、13章はユダヤ人向けの説教で、14章と17章は異邦
人向けの説教である。
ユダヤ人が、ペンテコステ(五旬節)の聖霊降誕のとき、ペテロの説教で三千人ほどが弟子に
加えられ、その後も毎日救われる人々が仲間に加えられ、ペテロとヨハネの説教でも男の数
が五千人ほどがキリストを信じた。(使徒2:41,47、4:4) その後、異邦人コルネリオに聖霊が
注がれ、パウロが加わり、異邦人キリスト者が増えてきた。 そうすると、イエスをメシヤ(キリ
スト)と認めていたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に、救いに関しての考え方にズ
レが生じてきた。
最初の人間アダムとエバが罪を犯し、それ以来、人間は罪人となった。 「罪から来る報酬は
死です(ロー間6:23)」のことば通り、人間は肉体的な「死」と共に霊的にも「死」に、永遠の滅
びに入る者となった。 そのような人間を救うために、神はご計画を立てられた。 旧約時代、
偶像礼拝の地ウルに住んでいたアブラハムをご自身の民として選ばれ、アブラハムに語りか
けられた。 神はアブラハムと契約を結ばれた。 アブラハムはイスラエル(ユダヤ)民族の父
祖となり、アブラハムの子孫であるイスラエル(ユダヤ)民族によって、他の国民、民族をも祝
福すると言われたのだった。
アブラハムは、神に選ばれたが、彼は試練のときも「信仰」をもって神に従った。 だから「信仰
の父」と呼ばれている。 また高ぶらず、常にへりくだった。 失敗しても心底から悔い改め、
じっと神が語られ顕現されるのを待った。 アブラハムの子イサクも、イサクの子ヤコブもアブ
ラハム同様、へりくだり神に従った。 だから、神はモーセに「わたしは、アブラハムの神、イサ
クの神、ヤコブの神である。(出エジプト3:6)」と仰せられた。 アブラハムからイエスの時代ま
で約2千年間という長い歴史の中で、へりくだって受け入れるべき「選民」は、「選民思想」「選
民意識」などとエリート意識になってしまい、異邦人を見下げるなど驕(おご)高ぶりの要因と
なった。
また、申命記などの律法を肉の考えで解釈をして、男性優位の社会になったようにも思える。
このことは、シナゴーグにもあらわれている。 バビロン捕囚の時期に生まれたという、ユダヤ
教の人たちの集会所(シナゴーグ)では、現代でも、男性は、ラビ(教師や指導者、律法学者と
しての役割を持つ)のそばを囲むように座席が与えられ、女性、異邦人は別室送りか、シナ
ゴーグの後方(つまり入り口の横や上の二階席)に座ることが決められているという。
ペンテコステ(五旬節)の聖霊降誕当時、ユダヤ人が次々とイエス・キリストを信じ、ユダヤ人キ
リスト者となっても、人によっては長年のユダヤ社会で染みついたものが、なかなか消えるもの
ではない。 選民意識が心の奥底に根深く植えられている者もいる。 「異邦人キリスト者も割
礼を受けなければ、救われないし、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」という考え
を握っている者もいた。(使徒15章) この件に関して、エルサレム会議が開かれた。 結果的
にユダヤ主義者の要求は退けられることになった。 しかし、これで、異邦人問題は解決した
わけではなかった。 この問題は会議で決着が付いてもユダヤ人キリスト者の中で尾を引いて
いった。 ペテロやバルナバでさえ、ユダヤ主義者たちの圧力に屈して、異邦人との食事の交
わりを避けるようになってしまったという「アンテオケ事件」が起きたのである。(ガラテヤ2章)
ユダヤ人の中には異邦人を受け入れきれない「選民意識」が残っていたのかもしれない。 す
べてが克服されて、真に教会が一つになるにはもう少し時間が必要であった。 二つに分裂し
ないため、時間をかけて、エリート意識的な「選民意識」を抜いていく必要がある。 ヤコブは、
選民意識をアブラハムの時のようにへりくだったものとするため、時間をかけて両者の平和を
保ちながらも両者が歩み寄りパウロが言うところの一致をさせようとした。 ユダヤ人キリスト
者と異邦人キリスト者の間をとりなし、それぞれを平和に保つ役割を果たす その務めに適任
なのが、イエスの弟ヤコブであったと思われる。 ヤコブは、ユダヤ人にも異邦人にも評判が
よく、ユダヤ人のことをよく(知っており、人間性においても主が「良し」とされたからだ。 ヤコブ
を世界で最初に誕生したエルサレムの教会の指導者にすることは神のご計画だったと思う。
また、シナゴーグでは女性の席も異邦人と同様に扱われており、聖書を読むと男性優位となっ
ている。 旧約時代からずっとユダヤ世界だけでなく、キリスト教会においても家父長制社会の
影響で男性中心の世界観、価値観、男女観になっていると言われる。 また、パウロは「アダ
ムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。(Tテモテ2:14)」と言ってお
り、女は浅はかで愚かであると解釈している者も多い。 だから女のかしらである男「アダムに
あってすべての人が死んでいる」という表現をパウロはしているのかもしれない。
しかし当時、イエスが女に対して画期的な行動をとっている。 ラビが教えを説いているときに
「足もとにすわって聞く」というのは、弟子として学ぶことを意味していたが、そのようにイエスの
足もとですわって聞いていたマリヤをほめた。(ルカ10:41,42) また、当時ではユダヤ人の
男性がサマリヤの女性に声をかけるなど前代未聞だったが、イエスはサマリヤの女に声をか
け救いに導いた。
また、復活されたあと、最初に顕現されたのは、マグダラのマリヤであった。 神の重大なご計
画があったからではないかと思う。 ヨハネによる福音書では聖書の中では珍しく「女」が目立
つ。 @4章のサマリヤの女。 A8章では、姦淫の女の赦し。 B11章のマルタとマリヤの姉
妹。 C12章では、ベタニヤのマリヤの香油注ぎ。 D20章では、マグダラのマリヤが復活の
主にお会いした最初の証人になったこと。 これらの出会いから、ヨハネの福音書では、まるで
イエスが、「男」から「女」に目を向けられているかのようにも思えるくらいである。
「女」に関してどのような神のご計画があったのか。 @めんどり通信/2014年11月2日<最後
の女エバが主に用いられるということはあり得るか?:エリシャとシュネムの女から思考>、A
めんどり通信/2014年12月7日<推測、思考:恵みの選びによって主が真に救おうとしている人
たちをキリストにつなぐシュネムの女のような女があらわれて用いられるということが今後の神
のご計画の中にあるだろうか?>、Bめんどり通信/2014年12月14日<エルサレムから東の
ほう「日本」に注目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>でいろいろ思考して書いた通りで
ある。
厳密にはエバ(女)が最初に「罪」を犯した。 だから同じ「女」を用いて「回復」「復活」を主がな
さること。 その「女」のことを「シュネムの女」や「四人の女」、復活のイエスの最初の証人と
なった「マグダラのマリヤ(女)」のことで我々に教えておられるのではないだろうか? 「女」の
地位を回復させ、男性優位社会、女性優位社会ではなく、「本来、神が造られた通りの男(ア
ダム)と女(エバ)は、共に語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」とすることを
ユダヤにおいてもご計画されているのではないだろうか。 そのためにも今後、「最後のエバ、
すなわちシュネムの女」を登場させるのかもしれない。 主がご計画された完結を「最後の女エ
バ、すなわちシュネムの女」によって見ることができるのかもしれない。
いずれにしても、神はイスラエルも異邦人も愛しておられる。 だから、キリストの十字架で、今
まで水と油のように混ざり合わなかったユダヤ人と異邦人が、ひとつの新しい神の民として、家
族のようにひとつとなることができるようにしてくださったのである。 だから、ユダヤ人の男性
が祈る、「私が異邦人に生まれてこなかったことを感謝します。また女に生まれてこなかったこ
とを感謝します。」という祈りの終わるときが来る。 神のご計画がいよいよ進んでいかれるよう
にと心から願う。
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 12:12、13
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい
多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 なぜな
ら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるよう
に、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とさ
れたからです。
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:28
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、
あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
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