めんどり通信/2015年4月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <再臨についての思考>2018年3月20日付修正文 |
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★新約聖書 へブル人への手紙 9:26〜28
・・・キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くため
に、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定
まっているように、キリストも、・・・二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる
人々の救いのために来られるのです。
●クリスチャンなら、主の再臨を待ちわびていることだろう。 「再臨」は主イエス・キリストを信
じる者にとって希望であるからだ。 神はすべてのことをご計画され、そのことを聖書に様々な
表現で預言されている。 今までの歴史の中で、神は、ご自身の「ことば」に忠実な方であるこ
とを示されてきたが、今後も尚々、示されるであろう。(詩編33:11) その多くのご計画の中で
もキリストが来られたこと、今後来られることは、我々人類にとって、とてつもなく尊いことであ
り、甚だしく大きなことである。 キリストが最初に来られたのは、約2千年前。 この地上に来
られて、聖書に書かれている「預言」の多くを成就なさった。 そして、人を救うために十字架に
かかられ死なれたが、3日目によみがえられて昇天なさった。 キリストは天におられるが、神
の霊「聖霊」が、「助け主」としてキリストを信じる者のうちに来てくださった。 それは、御父と御
子もともにキリストを信じる者の内におられることである。
そして キリストはもう一度 来られる、再び来られると聖書に預言されている。 これを「再臨」
という。 キリスト教会で言われていることで共通していることは、終末に7年間の艱難時代が
あるということ。 その艱難時代は、「試練の時」(黙示録3:10)と言われていること。 この艱
難時代は7年であり、後半の3年半は大艱難時代と言われていること。(ダニエル書9:24、27、
黙示録11:1,2、11:7-12、12:14-18、13:5-8) 主の「再臨」があることである。
ただ、この「再臨」に関して、キリスト教会では、再臨の時がいつであるか三つの説に分かれて
いる。 @艱難前携挙説。 A2段階携挙説(艱難中携挙説)。 B艱難後携挙説である。 三
つの説があるが、主張や内容から、おおよそ@Aと、Bというように二つに分かれるようであ
る。 特に、艱難前携挙説は多くの日本の教会が受け入れており、あたかも定まった教理のよ
うに扱われているという。 @は、Tテサロニケ4:15-18がこの教理の元になっているという。
マタイによる福音書24:37-42もこの教理の聖書の裏付け箇所とされているという。 他にもいろ
いろ解釈があるようだ。 「艱難前、2段階携挙説」「反キリストはヨーロッパから出る」「第三神
殿がイスラエルに建つ」・・・・などの教理を受け入れている教会は圧倒的に多いと聞く。
著者も約19年前まで所属していた教会は、Aの2段階携挙説を受け入れていた。 教会で教
えられていたこと。 それは、クリスチャンがみな携挙されるわけではない。 キリストのごとくに
変えられなければ、空中再臨のとき、携挙の恵みに預かることはできない。 携挙された後、
この地上は、とてもではないが耐えることなどできないほどの大艱難だから、とにかく、地上に
取り残されないようにしなければならない。 だから、清められ、変えられるために、悔い改め
たり、祈ったりをすべきである。 また、家族や親族など人々にキリストの福音を伝えていくべ
きである、などと教えられていた。 教えられる言葉の中には、正しいことも多かったが、正しい
ことでも、その根底に「信者は、牧師の言うことはイエスの言われることと同じだから従うべき」
というのがあり、神から与えられている自由意志が正常に機能していないことが結構あった。
著者も、牧師の言われることは、どのようなことであっても(たとえ聖書に関することでなくても)
イエスの言われているのと同じだからと、深く考えず、吟味もせず、そのまま受け入れていた。
正しい教えや導きも多く、実際、キリストを体験するというようなことも多かったが、正しい中に
も少しでも間違ったものが入ってくると、道を逸らさせる場合があり得る。 単なる間違いであ
るなら いいのだが、悪しき霊が関わっているようなものであると、取り返しがつかないことも多
い。 著者の場合、ますます、神の権威に従うためと、ただただ受け身になり、祈りつつ自分で
考えることをせず、牧師の言葉に反対や疑問の思いが出てきても、自分がそう思うことが間
違っていると決めつけて、マインドコントロールにかかったような状態になってしまった。 そし
て、2段階携挙説は正しいと思い込んでいた。
しかし、牧師の言われることに従わないから(牧師の意に沿わない)と、その教会を追い出され
るという形で教会を離れてから後、祈りつつ調べ学び、考えていくうちに、@艱難前携挙説A2
段階携挙説は間違っていると思った。 これらの説の教えの一番元になったのは、1830年に
チャネラーまたは霊媒であったマーガレット・マク ドナルドが見た幻だったからだ。(ゴードン・メ
一人にとっての「時が近づいた」に注目する>、めんどり通信/2013年3月31日<終わりの時
に どうあるべきかの思考>を参照してほしい。
結局のところ、この再臨から、改めて「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定ま
っている」とのみことばは真実で実際、そのときが、どのような人にも必ず来ること、一人一人の
行ないに応じて報いがあること(行ないの基準は神が見て決められる、神の視点がある)がわ
かる。(黙示録
20:12) 人は死後、終わりというのではなく、聖書に記されているとおり、「永遠
がある」ことをも示している。 そのことは、キリスト教会に聖書の解釈の違いがあったとしても
一致している部分であり、仏教やイスラム教など他の宗教でも死後、行き先があることを認めて
いる点では一致しているところである。
ただ、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録20章12節、15節の「また私は、死んだ人々
が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、数々の書物が開かれ
た。 また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。 死んだ人々は、こ
れらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 ・・・い
のちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」という この「神の
みことば」を、信じ受け入れるかどうかは、一人一人の自由意志に任されている。 また、もう
一方で「御子を信じる者はさばかれない。 信じない者は神のひとり子の御名を信じなかった
ので、すでにさばかれている。(ヨハネ福3:18)」と主は語られた。
いずれにしても、すべての人の永遠の運命はこの地上で決まる。 死後では遅い。 変更もで
きない。 しかし、御子の血によって贖われ、真にキリストつながり続ける者は裁かれない。
「主の再臨」がいつであるかはだれも知らないが、そのときには、神のご計画の完結、救いの
完成、あがなわれた者たちが神との永遠の交わりに入るときである。 また、裁きの完成の時
でもある。 素直になって、主の御前にへりくだり、真に「主につながること」、「主にとどまるこ
と」に取り組み、更に「主につながり続ける」、「主にとどまり続ける」ことに取り組んでいきたい
ものである。 そうしながら「主の再臨」の時を待ち望んでいたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 24:37〜42
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 洪水前の日々は、ノアが箱舟
にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の
子が来るのも、そのとおりです。・・・だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の
主がいつ来られるか、知らないからです。
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