めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年9月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書   マルコによる福音書 13:5
   そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

●「再臨」とは天の御座において父の右に座しておられるイエスが再びこの地上に復活の肉体
において降りて来られることであるが、主に付き従うクリスチャンにとっては希望に満ちた望み
である。 しかし主を知らない者たちや主の御心を行わないクリスチャン、教会にとっては裁き
の時となる。(そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々
に報復されます。 Uテサロニケ 1:8 )

「再臨」の時期については、艱難前携挙(かんなんまえけいきょ)説、段階携挙説、艱難後携挙
説が教会の中で語られてきた。  長年の間、終末に関する聖書のみことばを堅く守っていた
キリスト教会に1830年頃、イギリスのマーガレットマグドナルドという霊媒の見た「艱難時代の前
に再臨するキリスト」なる幻を契機に「艱難前携挙説、2段階携挙説」なる偽りの教えが入って
きた。 霊媒(れいばい)とは、「死人と語る者」であり、聖書では、厳しく禁止されている事柄で
あるが、以来この説が広がり、大勢を占めるようになってきた。 それ以来、クリスチャンは大
艱難にあわないから、終末の備えをする必要がないという見方が多くなってきた。 

著者が以前所属していた教会で教えられていたことは、2段階携挙説という言葉こそ使わな
かったが、終末に7年の艱難時代があり、前半の3年半が過ぎたとき、キリストが空中まで来ら
れ(空中再臨)、主が良しとされたクリスチャンたちを携え挙げ、後半の大艱難時代を逃れるこ
とができるということであった。 終末の備えはしなくとも、携挙されず、取り残されては大変だ
から作り変えられなければならないと必死だった。  しかし、結局は”大艱難にあわない”が
前提だから、ポイントがずれていた。

その後大艱難時代の3年半が終われば、再び主と共に、地上に降りてきて(地上再臨)、千年
王国を経てから最後の審判があるというように教えられていた。 愚かなことであるが、当時、
見破ることのできなかった著者は牧師の言われることばを信じ、そのとおり皆に伝えていた。 

艱難前携挙説、段階携挙説も共通することは、”大艱難にあわない、大艱難時代を通りたくな
い”ということである。 しかし、心情としてはそうかもしれないが、「艱難に備えよ」とのイエスの
ことばとは正反対であり、主イエスの心を無視し、主のことばと真っ向から対立する冷たい惑わ
しの教えである。 

聖書が我々に教えている携挙の時期については、”終わりのラッパ”(1コリ15:51〜54)の時と
記されている。 KJV訳聖書では”最後のラッパ”と書かれているようである。 これは黙示録
の7つ目のラッパと思われる。 そうすると携挙は大艱難の後と思われる。 

@聖書の中にはキリストが2度に渡って再臨することをはっきりと支持する箇所はない。 この
説の根拠とされる1テサロニケ4章、マタイ24:36〜42のことばからも”2度にわたる”再臨は導
き出されない。
A艱難後(末期)携挙説は昔から、普通に聖書を読むクリスチャンにより支持されてきた考えで
 あり、特別な幻に頼らなくても成り立つ説である。 艱難前携挙説、段階携挙説はイギリスの女
性霊媒の幻を通して教 会に入ってきたものである。再考の余地あり。
B ”第一の復活、最初の復活”が艱難時代の終りにあると黙20:4に書いてある。第一と書い
て ある以上これが終末における最初の復活である。しかし、艱難前携挙説、段階携挙説はそ
の前に聖徒を”復活”させないとなりたたない。教理や説のために、みことばを曲げなければな
らない。
C艱難前携挙説、段階携挙説に立つと聖書に「最後のラッパ、第7のラッパ」と書かれている
ラッ パが2回鳴るという不自然な解釈をしないと説が成り立たない。
D艱難前携挙説、段階携挙説は「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」
(黙 示三・一○)
とのことばの原意と矛盾する。 「試練の時には」の原語のギリシャ語はエク
(ek)であり、「試練のただなかで守る」と訳すのが忠 実な訳である。
E艱難前携挙説、段階携挙説は、「これらのことのすべて・・・(マタ24:33)」を見たら、ご自身
が再臨の「戸口まで近づいている」と知りなさい、と言われた。この記述と「これらのことすべ
て」を地上で経験せず、その前に挙げられると語る艱難前携挙説、段階携挙説とは矛盾す
る。
F艱難前携挙説、段階携挙説は福音書の中にもその根拠を見い出せない。
Gパウロは「不法の人、すなわち減びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」(2テサ
2:2〜3)
と書いた。問題は、携挙がもし艱難時代前ならば、なぜ使徒パウロはここで、「まず教
会の携挙が起こらなけれぱ、主の日は来ない」と書かなかったのか、ということである。。教会
の携挙は、誰にでも識別できるサインなので、もし艱難時代に先立って携挙があるのなら、そ
う書いたはずである。(エレミヤさんのメッセージ「No.143  怪しい患難前携挙説」からの引用)

2千年を過ぎた今、聖書のみことばにかかっていたベールがはずされる黙示録の時代に入った
ようである。 (黙示録ということばは、「ベールをはずす」という意味合いがある) 今までわか
らなかったこと知らなかったことが真剣に純粋に主イエスに求めれば、知ることができる時代に
入った。 「再臨」は夢物語でも空想でもない。 事実あることであり、そんなに遠い先のことで
はないようである。 

終末に関してキリストは、目をさまし、備えているように語っている。 また、ダニエル書、黙示
録を始めとする多くの書は、その日における神の民、クリスチャンの苦難を語っている。 これ
が、聖書の「健全な教え」である。

多くのクリスチャンが、この再臨について惑わされている。 著者もかつては惑わされていた。 
しかし神のあわれみによって、以前所属していた教会から召し出され、人(牧師や教師など)の
影響を受けず、真剣に主イエス・キリスト様にだけ祈り求めてきたとき、その惑わしからもマイン
ドコントロールからも解放され、真理を見る、知る、体験することができるようになった。 知って
おかなければならないことは、これらの惑わしは神のゆるしがあって起きているということであ
る。 (2テサ 2:11 ) 神は クリスチャンを試しておられる。 本当に主イエス・キリストと神のこ
とばを第一にし、従うのかどうかということを。

我々はクリスチャンでも未信者でも目を覚まし、聖書を通して神が語っておられる福音のことば
だけでなく警告のことばにも耳を傾けて、永遠の命へと入れるようにならなければならない。 
なぜなら、神は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでお
られる(2ペテロ 3:9)」
からである。 

★新約聖書  第一テサロニケ人への手紙  5:6
   ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

★新約聖書   ルカによる福音書   11:9
   わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そ
    うすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。



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