めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年10月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<一人一人にとっての「時が近づいた」に注目する>



★新約聖書  ヨハネの手紙 第一  2:28
   そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われると
   き、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
 
★旧約聖書 ヨエル書 2:1
   シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべて
   の者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
  ・・人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・
 
●キリストを信じた者は、世の終わりに主が再び来られる日(再臨)を待ち望んでいる。  再臨
がいつあるのかについてイエスは、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らな
くてもよいのです。(使徒行伝1:7)」と言われた。 また、「その日、その時がいつであるかは、
だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタ
イ24:36)」とも言われた。 
 
しかし、人は、いつ「再臨」があるのかを知りたがるものである。 そして、予測を立てたがる。 
なぜなら、「再臨」は、罪を悔い改めないままの人にとっては裁きの時となるが、キリストを信
じ、神の完全な支配を待ち望む人にとっては、救いの完成の時となるからである。 だから人
の知恵を駆使して予測を立てて知ろうとする衝動に駆られるようである。 実際、予測を立て、
はずれたということが、今までの歴史の中で何回かあったようである。 明確なその日を知る
必要はないが、その日はどのようなものか、またその日に向ってどう生きるべきかを聖書に書
かれている過去の出来事から知ることはできるし、知っておくことは大切なことだと思われる。 
 
旧約時代、バビロン捕囚の前、イスラエルでは偽預言者たちが「勝利の日はすぐだ。 イスラ
エルは動かされることはない。 繁栄がすぐそこに来ている。 イスラエルは祝福されている。」
などと偽の預言をしていたが、イスラエルの民は彼らの預言を支持し従っていた。 そのような
中で、エレミヤなどは正反対のメッセージ、警告を伝えていた。  歴史は繰り返されるというこ
とだけでなく、聖書に記されている過去の出来事は、未来に起こる出来事の予表でもある。 
バビロン捕囚の時のユダヤの地に起こった同じことが紀元70年にも起った。 イエスが語られ
「石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。(ルカ21:6)」の通りに
なった。  すなわち、ローマ軍はエルサレムの神殿に火をつけ、神殿に使われていた金を採
取するために、一つ一つの石を取り除き、文字通り、一つも積まれたまま残ることがなく、石が
くずされた。 そして、エルサレム神殿は崩壊した。 エルサレムは神がおられるところだから、
陥落し滅びることなどないとエルサレムに留まった多くのユダヤ人は殺された。 生き残ったユ
ダヤ人たちも捕囚となった。 初期のクリスチャンたち(多くはユダヤ人)は、イエスの言われた
ことば「荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのを見たならば、山へ逃げよ(マタイ24:15,1
6)」を思い出してそこから逃れ救われた。(ルカ 21:20,21)
 
終末も同じような状態になると言われている。  「終わりの時代」「終末」に入ると、ほとんど
のキリスト教会が、バビロン捕囚前のイスラエルの民と同じように、また紀元70年のとき、エル
サレムから去らずに滅ぼされた者たちと同じように、惑わされる可能性があるということであ
る。 すでに世界的に有名なキリスト教メッセンジャーたちが、「艱難前にクリスチャンは挙げら
れるから大丈夫。 クリスチャンは大艱難にあうことはない。 安心せよ。」という艱難前携挙
説、二段階携挙説(空中再臨、地上再臨)という、ヨエル書と正反対のメッセージを伝えてい
る。 バビロン捕囚の前の偽預言者たちと同じである。 その教えは、聖書から出たものでは
なく、1830年イギリスの霊媒であるマーガレット・マクドナルドが見た幻から始まって、今や多く
のキリスト教会に行き渡っている。 著者が以前、所属していた教会も受け入れており、特に
「空中再臨」を強調していた。 「空中再臨」までにキリストのごとく変えられていなければ、携
挙されずに取り残されて大艱難にあってしまうと教えられていた。 
 
いつの時代でも、「主の再臨」が近いと備えをしておくことは必要なことであると思われる。 イエ
スは言われた。 「だから、目をさましていなさい。(マタイ24:36,42)」と。 また、パウロは、自分
が生きている時代に「主の再臨」があるかもしれないという思いで生活をしていたことが、「次
に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、・・・」
いう言葉から伺える。(Tテサロニケ4:17) ヨハネも自分が生きていた時、「今は終わりの時で
す」と言っている。(Tヨハネ2:18) それは彼らが常に「主の再臨」に焦点を定めていたことで
あり、キリストを見続けていたことであり、霊的な目を覚ました生き方をしていたことである。
 
しかし、常に「主の再臨」に焦点を定めると言っても、「終わりの日」がすぐにでも来ると決めつ
けて、自分なりに準備をするのは、いささか早とちりであり、肉の考え丸出しである。 実際、初
期のキリスト教会のクリスチャンたちの中には、仕事を辞めたりした者もいるという。  また、
そういうことは、いままでの歴史の中で何度かあった。 昔、日本ホーリネス教団では「再臨信
仰」に燃え上がったことがあり、信者の中には、「再臨はもうすぐだ」と、仕事を辞めたり、資産
を売ったりして、待っていたということを聞いたことがある。 アメリカでもバプテスト教会の宣教
師ウィリアム・ミラーが、1843年にイエス・ キリストが再臨すると予言し、その予言を10万人もの
アメリカ人が信じたという。 当然、「再臨」などなく、多くの者が教会を去り、キリストから離れて
行ったという。 結局、「空想話」に翻弄されたのである。(Uテモテ4:4) 
 
このようなことは、パウロの時代からあった。 テサロニケの信者たちにパウロは「落ち着きを
失ったり、心を騒がせたりしないでください。(Uテサロニケ2:2)」と警告、注意を促している。 
「主の再臨」すなわち「終わりのとき」「終末」は、世界的なものとだけ見据えるのではなく、個
人的について見ることも大切なのではないだろうか。 人間には寿命がある。 人は順番に死
ぬわけではない。 我々人には、あすのことはわからないのだ。(ヤコブ4:14) どのような形
で、最期を迎えるのか誰にもわからない。 多くの人たちは、「死んだら終わり。眠っているよう
に何もわからなくなるだけ。」とか「死んだら無、何もない」とか「死んだら、先祖もみな行ってい
る極楽(天国)へ行く」とか言うのをよく聞く。 しかし、そうではない。 肉体の死がゴールでもな
く、終わりでもない。 肉体の死後、どのような人もみな、霊魂は神の前に立たなければならな
い。 そのことを信じる信じないは関係ない。 事実、その通りになる!
 
ヘブル人への手紙4章13節「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神
の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。 私たちはこの神に対して弁明をするの
です。」と書かれている。 結局、この地上での生き様が問われることになる。 ただ、この地上
での生き様の良し悪し、その規準(基準)は主なる神、主イエス・キリスト」、「主のみこころ」
であり、決して、人の基準の善悪ではない。 たとえキリスト教会といえども規準にはなり得な
い。 パウロは、このことをよく悟った上で、常に「主の再臨」に焦点を定めた歩みをしていた。 
バビロン捕囚の前の偽預言者たちにだまされたイスラエル人たち、紀元70年にエルサレムか
ら出なかったユダヤ人たち、「空想話」に翻弄されてキリストから離れて行った人たちの共通点
は、一人一人が、主なる神としっかりつながっていなかったということである。 
 
イスラエル国全体、世界全体を見ることも大切だが、それ以上に、「神と自分」、「キリストと自
分」という関係を強化することが重要であると思われる。 若い者も年寄りも、一人一人にとっ
ての「時が近づいた」「終わりのとき」に注目すべきである。 それは、パウロが歩んだ生き
方、常に「主の再臨」に焦点を定めた生き方であり、キリストを見続けている生き方であり、 霊
的な目を覚ました生き方である。 「再臨」は明日か、1年先か、10年先かはわからない。 また
自分の寿命も今日か明日か、1年先か10年先か、30年40年先かわからない。 「再臨」の方が
早いのか「寿命」が尽きる方が早いのか、誰にもわからない。 神のみぞ知るである。
 
いずれにしても、自分の寿命が尽きる時、すなわち神が定めておられる時まで、霊的な見方を
もって「主の再臨」を待ち望みつつ、キリストにしっかりつながることに注目していきたいもので
ある。 そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって
祈り、真剣に主のみこころを求めていきたいものである。 ますますキリストとの交わりを深く
しっかりとしていき、どのような「空想話」や「うわさ」にもだまされず、新しい聖霊の流れに乗っ
て、悪霊の風に翻弄されない歩みをしていきたいものである。 
 
★新約聖書  テモテの手紙 第一 1:4
   果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなも
   のは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすもので
   はありません。
 
★旧約聖書 詩篇 139:16
   あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のた
   めに作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
 
 



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