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2017年10月15日地域の秋祭りに参加することについての思考


著者の場合は、以前(めんどり通信HP http://mendoritusin12.sakura.ne.jp/ 証しによるプロ
事、秋祭りにどう対応するか>参照)で書いた。 それに少し付け足す。 著者は、幼少期の頃
から秋の太鼓台の音が聞こえると心がわくわくした。 著者が産まれ5,6歳まで過ごした家は、
昔商売をしていたとのことで広かった。 それで秋になると、太鼓台を組み立てるまで、解体し
ていた布団締め、とんぼ、四つ房、八つ房、掛け布団などを置いていた。 それらを見て幼心
にも「すごいなあ、きれいだなあ。でも、ちょっと刺繍の龍の目が恐いなあ。」と思ったのを覚え
ている。 
 
そういう著者が思春期になると、「人は死んだらどうなるのだろう」「なんだか空しい」「自分は将
来、どういう生き方をするのか、どう生きたらよいのか」などと考えるようになった。 そうして、
占いや霊媒師に走り、行き着いた先は「先祖供養」であった。 写経、八十八か所巡り、高野
山での参拝、・・などなど、ありとあらゆる聖書に書かれている偶像崇拝を熱心に行なってき
た。 そんな著者が、知人に連れられて初めて教会へ行った。 教会の牧師が話されたこと
は、一言も覚えていない。 しかし、腹の底に熱い何かを感じた。 涙がとめどもなく流れたこと
だけは覚えている。 そして、帰りに得体の知れない不安感が襲ってきたのもはっきり覚えて
いる。 後に、その教会を出ることになった時、その不安感は的中したと思った。 
 
当時、独身だった著者は、たまに教会へ行ったものの、熱心でなかった。 ただ、当時から「祈
り」だけは絶えずしていた。 そうしてクリスチャンとしてではなく、普通に結婚したが、結婚して
3年経った時、あることを機に、毎週教会へ行くようになった。 そこから俄然、主イエス・キリス
トに対して心が向くようになった。 教会の教えは聖書通り「偶像礼拝を避けなさい」だったが、
著者の場合は、主から直接、偶像崇拝を避けることを迫られ、主から直接、偶像礼拝から解
放された。 ある日、神社の前を通ると鳥肌が立った。 その時、主が著者に偶像崇拝(偶像
礼拝)は否と教えておられると感じた。 その後、主の御旨と導きにより、偶像崇拝に対して毅
然と立った。 あれほど好きだった太鼓台に魅力を感じなくなったのもこの頃である。 
 
そういう中で、著者の子どもたちに対しては(めんどり通信/2015年10月18日参照)。 21年前
まで所属していた単立の教会時代、著者が関わった人たちに「偶像礼拝」を避けることの勧め
をした。 しかし、「・・・さんに言われたから そうしなければならない」になってはいけないの
で、特に「祈ること」を強調して勧めた。 「偶像礼拝」を避けることの強要はしなかったが、著
者の心の中には、「この人が 自分でしっかりと信仰に立てたらいいのに」という思いがあっ
た。 言葉で強要しなくても、著者が勧めをすれば強要されたと思った人もいたであろう。 しか
し、それは、強要されたと受け取った人は、祈りながらも何かしら恐れ抱いて「主を見ず」、周
りの人の目を優先的に見ていた可能性がある。 しかし、実際、多くの者が最初はそうである。 
そのところから、どれほど真剣に主に頼るかが始まる。 与えられた状況、主のことば、聖書
のことばを、どれほど自分のものとするのか真剣に求めることが始まる。 ただ、傷つくのを恐
れて、浅い次元で祈って終わる者も多い。 
 
さて、著者が交わっている人が、ご主人のことで「主からのことば」を数年前に頂いたという。 
「今後二度と・・・を祭りに行かせない」ということばだったという。 そのことばが与えられた次
の年の祭りで太鼓台をかついでいたご主人を見ると、白いベールがかかっていたという。 そ
の人は主から霊的感覚を与えられているようで、はっきり見えたという。 ただ、主のことば
地に落ちることはないので、そのときは、与えられたことばが宙に浮いていたような感じだった
という。 しかし、それから何年か経ったとき、今のところ、太鼓台をかつぐことに参加すること
は、主が「良し」とされている。 しかし、今後は主がどうなさるかわからない。 主が直接、ご
主人に教えなさるとわかったという。 
 
また、その人は、自分の子どもに、主なる神のことを「本物の神様」、本物の神様以外のもの、
悪しき霊どものことを「偽物の神様」と教えているという。 そして、祈る形にこだわらず、単に
「自分のことばで祈る」ことだけ教えているという。 その子も太鼓台に参加するという。 地域
で子どもたちが皆、子ども太鼓台をかつぐからだ。 親は、子どもについて一緒に歩く。 子ど
もたちだけでは危ないからだ。 子どもたちはお昼に出される食事や時々に出されるおやつな
どを食べることも楽しみであるようだ。 その人は、もちろん自分だけなら参加しないという。 
しかし、今のところ、主が彼らが参加することを「良し」とされているので、子どもに付き添うた
めに参加するだけと言っていた。 必ず、主がご主人や子どもさんに直接、何らかのかたち
で、主の御心を教えられるはずだから、その時を待つと言っておられた。 
 
その人は、今も尚、主からの試練訓練を受けておられるが、今までも、「主のみことば」に忠実
に従おうとして、結構、厳しい「過程」を通って来られた。 そのことで教えられたことは、「主の
みことば」に忠実に従おうと今までの厳しい「過程」を通っているからこそ、上記のことがわかっ
たのだと思う。 一番苦しく信仰も自分自身を失いそうになったとき、「自分は本当に主を愛し
ているんだ」ということだけあることに気づいたと言っておられた。 今までの通ってきた厳しい
「過程」があったからこそ、心の奥底に「主への愛」が植えられたと思う。 そして、「主への
愛」が根底にあるからこそ、主が教えようとされることを理解できるのだと思う。
 
 
 
 



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