めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年7月30日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「通らなければならないところを通る」ということについて考えてみる>


★旧約聖書 詩篇 37:23、24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れて
   も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事
   を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 
「通らなければならないところを通る」ということについて、いろいろ考えてみた。 人は、
日々生活して行く中で、したくない経験をすることがある。 通りたくないところを通ることもあ
る。 キリスト者の場合は、祈りつつ生活をしていると思われるが、それでも、そのように感じる
者も多い。 そういうときは、神からの訓練試練を受けている時である場合が多い。 それは、
言い換えれば神の子とされているからであるのだが、それは決して心地よいことではない。 
 
聖書を見ると、そのことがよくわかる登場人物がいる。 主イエス・キリストの場合。 神のひと
り子であられるイエスは、通らなければならなかったところがあった。 この地上に来られたこ
と自体がそうである。 また、当時、サマリヤ人とユダヤ人の間には深い敵対心があったの
で、ユダヤ人はサマリヤを通らなかったが、聖書は「(イエスは)サマリヤを通らねばならなかっ
た」と書かれている。 そして、イエスはサマリヤの女に会い、サマリヤに救いをもたらされた。 
 
約30歳で公にキリストとして立たれ、12弟子を選ばれた。 12弟子以外にも多くの弟子たちが
イエスに従っていた。 しかし、聖霊が下っていないから仕方がないとはいえ、弟子たちの無理
解、鈍さ、裏切り、心変わり、肉の旺盛な言動.。 また、人々の反抗とかたくなさと裏切り、・・・
などなど忍耐されなければならないようなところを通られた。
 
また、イエスは父なる神から差し出された「杯」を、本当は飲みたくなかった。 その中身は、永
遠の昔から共におられた父と御子を引き離す人類の「罪」であり、父と引き離されることなどイ
エスにとっては到底考えられないことであり、「神から見捨てられた」苦しみ、「神から引き離さ
れた」苦しみ想像を絶するものであったからだ。 しかし、「(飲まねばならないものでしたら)
わたしの思い(願い)ではなく、みこころのままになさってください。」と、その「杯」を飲まれた。 
そして、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」大きな声で絶叫
ざるをえないような苦しみを通られた。 「十字架の死と復活」、「昇天」までの、この地上での
歩みのすべては、イエスにとっては我々人のために通らねばならなかった「道」であられた。 
 
旧約のヤコブの場合。 「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの
神である。(出3:6)」と神がモーセに仰せられたが、そのヤコブである。 信仰の父と呼ばれた
アブラハムの子イサクとその妻リベカとの子ヤコブ。 リベカは自分の胎内の子たちについて
主から「兄が弟に仕える(創世記25:23)」とのことばを語られていた。 父イサクが、長子の権
利を双子で長子の権利を軽んじていたエサウに引き継がそうとしていたのを、リベカの助けと
知恵により、「長子の権利」を一般的な言い方では奪い取るというかたちで得た。 しかし、こ
れは、リベカもヤコブも「長子の権利」、「神の祝福」などの、要は「主と主のことば」にこだわっ
ていたとも言える。 だから明らかに神が采配されていたと思えるところがある。(創世記27章)
 
その後、ヤコブを殺そうとするエサウから離れて、リベカの伯父ラバンのところで20年間仕え
た。 この20年間は苦労が多かった。 しかし、エサウを騙したからバチが当たったわけではな
い。 「先祖の国に帰りなさい。(創世記31:3)」主のことばがあってラバンのところを出て、神
と格闘した所ペヌエルまでの約20年間は、神がヤコブを取り扱われ、砕かれる重要な期間と
なったからだ。 自我が砕かれ、「ヤコブ(押しのける者)」から「イスラエル(神の皇太子)」と新
しい名が与えられた。
 
エサウと平和に再会したこと。 イスラエル12部族となる12人の子どもたちにも恵まれたが、ヤ
コブには子どもたちのことなど、その後も次々と問題が浮上したこと。 130歳でパロの前に
立ったときまで、ヤコブが通ってきた人生の道の途中で起きた数々の出来事、すべて訓練、
試練だったといっても過言ではないが、その道(すべての出来事)は、ヤコブが通らなければな
らない「ヤコブの道」だった。(リベカについて参照:めんどり通信/2017年3月12日。)
 
ダビデの場合。 サムエルがエッサイとその子たちをきよめて犠牲の場に招いたとき、父エッ
サイは末息子のダビデを連れて行かなかったほど、父エッサイから見てダビデは眼中にな
かった。 ところが、その末息子の少年ダビデが預言者サムエルによって油注がれ、主の霊
がその日以来、ダビデの上に激しく下った。(Tサムエル16:13) その後、初代イスラエルの王
サウルに妬まれ、命を狙われ、苦しい逃亡の日々を過ごしたこと。 それでも、サウルを打つ
機会があっても、神のことばに忠実だったゆえに、手出ししなかったこと。
 
そのようなダビデが姦淫と殺人の罪を犯したこと。 そのことを神から遣わされてきた預言者ナ
タンに指摘されると、心からの深い深い悔い改めをして許されたこと。(Uサムエル12:13、詩
篇51編) 公にイスラエルの王として立った後も息子アブシャロムに反逆され、命を狙われ、逃
亡するようにして宮殿を追われたこと。 他、子どもたちで苦しんだこと。ダビデの息子につい
て:めんどり通信/2014年9月14日参照)
 
試練に次ぐ試練にあったこと。 しかし、それらはすべてダビデが通らなければならない道だっ
た。 ダビデは、人生の途上で、とにかく、主の御前にへりくだった。 ダビデの死ぬ日が近づ
き、ダビデの子ソロモンに言葉を言いつけるまで、ダビデが通ってきた人生の道の途中で起き
た数々の出来事、すべてが訓練、試練だったといっても過言ではないが、その道(すべての出
来事)は、ダビデが通らなければならない「ダビデの道」だった。 
 
一般的に言うなら、ヤコブもダビデも「人生波乱万丈」であった。 その他、ヨセフもヨブも、そし
て、アブラハムさえも起伏の激しい人生と言って過言ではない。 ただ、彼らの共通していると
ころは、それぞれが、通るべきところを通った後は、平穏な暮らしに入っている期間があること
だ。 いわば、通るべき神からの訓練試練を通った後の人生は、比較的穏やかなように思わ
れる。 ただ、全く問題がなくなったとは言えないが、彼ら一人一人、主なる神とのしっかりした
つながりがあるので、日々、絶えず主のもとに留まって、主と交わりながら歩んでいた。 
 
ただ、旧約時代の登場人物には、時代によって上記の考え(通るべきところを通った後は、平
穏な暮らしの期間があること)が当てはまらない人たちも多い。 新約聖書に書かれている使
徒時代の人たちは、キリストがこの地上に来られた後であり、それまでの時代とガラリと変わっ
たところがある。 キリストの十字架と復活、昇天、聖霊が注がれること。 すなわち、旧約で約
束されていたことが成就したことである。 だから、人生の道の途中で起きた数々の出来事、
すべて訓練、試練ということにおいては同じだが、それぞれが、通るべきところを通った後は
「殉教」している人も多い。 
 
現代の我々においては、神に選ばれキリストを受け入れて真に「神の子」とされた者たちに
は、やはり、人生の道の途中で起きた数々の出来事、すべて訓練、試練となることは言うま
でもない。 しかし、一人一人の途中経過も終盤も、いろいろである。 
 
いつの時代にも変わらないことは、神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召さ
れた者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さること、神が「良し」とされた「神の子」
たちは、神の訓練(懲らしめ)、試練、むち打ちを受けることになることである。(ヘブル12章) 
それらはすべて我々にとって「益」となる。 神からの「訓練、試練」は、それを受ける者にとっ
ては、神によって鍛えられ平安な義の実を結ばせるようになるからだ。
 
「人の歩みは主によって定められる」とあるが、この「人」は、誰でも彼でもではなく、神に選ば
れ召された者たちのことである。 「通らなければならないところを通る」ということは、「神のご
計画の中にあった」ということである。 神はそのことをご存知だったということである。 また、
「通らなければならないところを通る」ということは、決して心地よいことではないことも多い。 
しかし、神に選ばれ召された者たちの歩みは、神のご計画の中にあり、主が定めておられる
道へと主が導いておられる。 導いてくださるイエスから目を離さないで、主に尋ねること、いつ
も祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。
 
★新約聖書 テモテの手紙 第二 4:7
   わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 16:24
   それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分
   を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。






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