めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年3月12日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<アブラハムの子イサクの妻リべカについての思考>


★旧約聖書 詩篇 9:10
   み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨て
   られたことがないからです。
 
★旧約聖書 イザヤ書 28:23
   あなたがたは耳を傾けて、わが声を聞くがよい。心してわが言葉を聞くがよい。
 
●アブラハムの子イサクの妻リベカについて、いろいろ思考してみる。 リベカについては、お
もに創世記24章〜27章に書かれている。 アブラハムがイサクの嫁を探すよう、所有のすべて
を管理させていた家の年長のしもべに申し付け、誓わせた。 イサクの嫁の条件は、@アブラ
ハムの故郷ナホルの町の住人(親戚)であること。(ヘブライ人の血統を持つ) Aカナンに連
れてくること。(カナンは神との約束の地であるから)ということだった。
 
アブラハムのしもべは、リベカに会ったのは、「主なる神の導き」によることであるという事実を
述べ、その上で、この縁談を受け入れるかどうかをリベカと家族に問うた。 リベカの兄ラバン
と父ベトエルは、主が言われたとおりにしてください答えた。 彼らは、神の導きを信じたので
ある。 しかし、翌朝、 すぐに帰ろうとしたしもべに、リベカの兄と母は、少なくとも10日ほど、リ
ベカと共にいたいので、しもべに居てくれるよう頼んだ。 一般的にも家族の心情から考えるな
ら当然の申し出である。 ただ、この縁談は、「神のご計画のゆえに神の導きによって決まった
の」だから、「神の導きに従うべき」というのが、しもべの見解だった。 そして、リベカはその
ことに同意した。 それで、リベカは、すぐさま、しもべの後ろに従い、イサクのところへと長い
旅に出かけた。 そして、イサクと結婚した。 
 
これらのことから、リベカの家族も神を信じていたから、アブラハムのしもべの縁談話に同意し
たと思われるが、「信仰」の面では、リベカの神への「信仰」は家族以上に深かったのではない
かと推測できる。 リベカは、アブラハムの弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルの娘で、アブラ
ハムの親族であるが、リベカの祖母「ミルカ」の名まえが、創世記で何ヶ所かに書かれている。 
リベカもアブラハムのしもべに「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。(創世記2
4:24)」と自己紹介している。 リベカの「信仰」は、祖母「ミルカ」の影響が強かったのかもしれ
ない。 もしくは、リベカは、祖母「ミルカ」「信仰」を受け継いでいたのかもしれない。
 
リベカの神への「信仰」が強く表れているのが、ヤコブが長子の祝福を横取りしたと言われる
出来事である。 創世記27章に書かれている。 イサクは年をとり、視力が衰えて死期が近づ
いたと思い、エサウを呼んで、鹿の肉を獲ってきて料理し、自分に食べさせるように言った。 
エサウに長子の権利と祝福を与えようとしたのである。 これを聞いたリベカは、このままでは
主のことば「兄が弟に仕える」とは違ってしまうと思ったのか、急いでそれを阻止するための行
動を取った。 
 
主のことば「兄が弟に仕える」については、リベカが出産前、胎児たちがリベカの胎内でぶつか
りあっていたので、「どうなるのでしょう。」と主に尋ねた。 この箇所のへブル語から、リベカ自
身がどうなるのかというのではなく、胎内で子供たちがぶつかり合うことに、どのような意味が
あるのかと思い、主を強く求めるために出かけた、ということである。 「主を強く求めるために
出かける」「出かける(行く)」は、ヘブル語では、動作の継続を表わす語だということで、リベ
カは、神の答えが得られるまで尋ね続けたということである。 そして、主からの答えが「兄が
弟に仕える」であった。(創世記25章)
 
出産の時、最初に胎内から出て来たのはエサウ。 後からエサウのかかとをつかんで出て来
たのがヤコブだった。 その後、赤くて、全身毛衣のようであったエサウは巧みな漁師、野の人
となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。 ふたりは対照的な性格であったよう
だ。 ちなみに「ヤコブ」の名まえの意味を「かかとをつかむ者」と言われ、ヤコブがエサウを出
し抜いて祝福を奪い取ったと言われているようだが、そうとも言えない。 胎内でぶつかり合っ
ていた兄弟が、どちらが先に出てくるのかわからない状態の時、神はすでに「兄が弟に仕え
る」と語られていたのだから、神が決められていた「長子」は、「ヤコブ」だった。 むしろエサウ
の方が長子であったヤコブを出し抜いて出てきたと言えるのではないかと思われるからだ。 
また、ヤコブは「穏やかな人」となったが、「穏やか」という言葉は、へブル語では「潔白である
がゆえに穏やか」という意味らしい。 ヤコブは、神から見られて「全き人(潔白な人)」であると
いうことだ。 また、神がご自身のご責任において、そうするということだ。
 
さて、イサクがエサウに話していた言葉を聞いたリベカは、ヤコブに兄エサウの晴着を取り出し
て、弟ヤコブに着せ、子やぎの毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいし
い料理とパンを息子ヤコブに渡した。 それを、ためらうヤコブに「あなたが受けるのろいはわ
たしが受けます」と、ヤコブの背中を押した。 見事に、イサクは、弟ヤコブを兄エサウと思い、
祝福した。(創世記27章) イサクが、祝福するとき、「エサウ」と名まえは言わないで、「わが
子」とか「あなた」と言っているのは、イサクのことばに神の支配と采配を感じる。(創世記27:2
7-29) 
 
当時、口頭による祝福は重要なものと見なされ、一度口にしたことが、たとえ自分の意図に反
していたとしても、それは法的な効力を持つと考えられていたという。 だから、エサウは、ヤコ
ブが父イサクから祝福を受けたことを聞いたとき、狼狽し声をあげて泣き、ヤコブを殺そうとす
るほど怒った。 しかし、このエサウの態度で、イサクは目を覚ましたようである。 むしろ、こ
れが主の計画であることを感じて恐れたようである。 エサウに毅然として(預言を)語り、ヤコ
ブを祝福し、命じのことばを言って、ヤコブを守るためリベカと共に送り出した。(創世記27:39-
40、28:1-5)
 
リベカとヤコブが行なったことは、神の祝福を横取りしたとか、蒔いた種を刈り取らなければな
らないことだとか、二人とも間違った方法で行なうから家族が崩壊したのだとか、間違った愛
(偏愛)を貫けば、人間関係がおかしくなるというような意見がほとんどである。 しかし、そうと
も言えないと思われるのだが・・。 
 
神がアブラハムと契約した子々孫々にわたる祝福を受け継ぐ「長子相続権」だが、それを受け
継いだ者には、子々孫々に至るまで正しく継承する責任がある。 単に財産を受け継ぐという
だけではなく、神がアブラハムに託された使命を継承する役割が伴っているからだ。 それを、
エサウは一杯の野菜スープと引き換えに売り渡していたのである。 エサウにとっては、一族
を率いる責任感もなく、長子相続権などどれほどのものか、と思っていた。(創世記25:31,34、
へブル2:16) そのことを、リベカはヤコブから聞いて知っていただろう。 
 
エサウは、「長子相続権」について、神がアブラハムに託された使命を継承する役割こそを軽く
見ていたのではないだろうか。 物質的には、エサウは父イサクのものを受け継いでいる。 
後に、弟ヤコブが家族と共に、父の家に戻ろうとした際に、兄のエサウは、400人のしもべを連
れてこれを迎えるまでに、豊かな暮らしをしていた。(創世記33:1) ヤコブは、物質的には父
イサクからの財産を受け継いでいない。 すべて、主なる神がヤコブに与えられたものである。 
エサウにとって「富」が一番だったが、そのような性質であることをリベカはよくわかっていたと
思われる。 ただ時間がエサウとヤコブを和解させたのでもない。 エサウにはイサクから受け
継いだ「財産」があった。 その「富」が和解の大きな要因になったとも考えられる。 
 
イサクは、神のみこころを尋ね求めてから後継者を定めるのが、父親として、約束の後継者と
して必要な責任だった。 しかし、イサクはその重大なことを見えなくなっていたようである。 た
だ、単に年老いていたからという理由ではないかもしれない。 いずれにしても、リベカは、そ
の重大なことが崩されそうになったと危機感を覚えて、咄嗟に行動をとったとも考えられる。 
その方法が、通常は人から非難されるべきことであろう。 しかし、主なる神は、リベカとヤコブ
を責めるどころか、その方法が成功することを「良し」とされている。 「あなたが受けるのろい
はわたしが受けます。」とリベカは命がけだった。 ことばを反せば、「主と主のことば」に対して
命がけだったとも言えるのではないだろうか。 
 
リベカは、エサウとヤコブのことを「兄が弟に仕える」主からことば頂いた後、日々の生活
で彼らを育てるにおいて、特にヤコブを正しく育てたと推測できる。 もしかしたら、どのように
育てるべきかを神に尋ねて求めながら育てたのかもしれない。 「その子らは成長し、エサウ
は巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人(全き人、潔癖な人)で、天幕
に住んでいた。」ということばから窺い知ることができる。(創世記25:27) 「兄が弟に仕える」
をイサクに話したのか話さなかったのかは、わからないが、いずれにしてもイサクが主のこと
違う者に「長子相続権」を渡そうとしていた事実が目の前に迫っていた。 もし、リベカが、
家族関係を第一に考えていたり、一般的(世的)な考え方であったなら、危ない橋を渡るような
ことはしなかったであろう。 「主と主のことば」を何よりも最優先した結果の行動だったのでは
ないだろうか。
 
リベカにとって、エサウも失いたくなかったと思われる。 アダムとエバが、いわば、カインとア
ベルの二人の息子を(カインがアベルを殺し、カインは追放された:創世記4章)失ったが、リベ
カは「信仰」「(神への愛、子どもたちへの愛)愛」によって、二人を救ったことになる。 また、
リベカが救ったのは、エサウとヤコブだけでなく、すべての人を救ったことになる。 ヤコブの子
孫から「イエス」がお生まれになるからだ。 「女」に、このように重要な働きをさせるために、
神はリベカを選んでおられたのではないかと思う。
 
リベカの兄ラバンの所へとヤコブを送り出した後、ヤコブとの再会の記述がないので、この時
が、この地上での永久の別れとなったが、そのこともリベカにとっては、決して不幸せなことで
はなかったと推測できる。 「主なる神のご計画」が進んでいくこと、成就されていくことをリベカ
は望んでいたからだと思われる。 ヤコブとこの地上で再会できなかったことやヤコブの長い
間の苦難と悲哀は、イサクを欺いた刈り取りだと多くの教会、キリスト者が結論づけているよう
だが、このように見てくると、そうではないとつくづく思う。 
 
このようにして見ると、リベカはいかに「神のことば」を最優先させた生き方をしてきたかがわか
る。 リベカの聡明感じる。 日々の生活の中で絶えず、「神と神のことば」に立ち返り、世
の常識や基準、習慣などに流されず、絶えず、「神のみこころ」を尋ね求めていた思われる。 
とにかく、神が「良し」とされたことが「良い」のである。 神は、リベカを「良し」とされていた。 
われわれも、「主と主のことば」を最優先する生き方をしていき、神に「良し」とされたいもので
ある。
 
★旧約聖書 哀歌 3:25
   主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
 
聖書の著作権問題があるようなので、今後、基本的には「口語訳聖書」を引用します。




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