めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年9月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ダビデの息子、四男アドニヤに対する躾(しつけ)から思考>


★旧約聖書 詩編 32:8
   わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留
   めて、助言を与えよう。
 
★旧約聖書 箴言 28:25
   欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主に拠り頼む人は豊かになる。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩編 25:9
   へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
 
●ダビデに関しては、思考すべきところ、学ぶべきところが多くある。 ダビデの生涯や聖書
体を見て思考し、学ぶべきところを把握していくことが一番望ましいが、今回は、それらを足場
に置いたところでダビデと彼の息子で四男アドニヤからいろいろ思考してみる。 アドニヤが登
場するのは、第一列王記1章、2章である。 アドニヤについて、先週9月7日の「めんどり通信」
でも少し書いた。
 
ダビデの妻は聖書に名前が出てくるだけで8人いる。 アブシャロムの母親とアドニヤの母親
は違うが、アドニヤは、三男アブシャロム同様、非常な美男子だった。 野心を抱くという点も、
アブシャロムに似ていたようである。 ダビデの晩年、ダビデの長男アムノンは、腹違いの妹タ
マル(アブシャロムとは両親が同じ)をはずかしめたことでアブシャロムに殺されていた。(Uサ
ムエル13章) アブシャロムは父親であり王であるダビデに謀反を起こしたが、それが失敗し
た。 ダビデは家来たちに「アブシャロムを殺さないでくれ」と頼んでいたが、将軍ヨアブはダビ
デの意向を無視してアブシャロムを殺した。 また、母親がアビガイルの二男のキルアデもダ
ビデの晩年にはすでに死んでいたようである。
 
四男アドニヤは、順番からすると、王の後継者は自分であると思い主張した。 そして、人々に
印象付けるため戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。(Uサムエル1
5:1、T列王記1:5) このことは、アブシャロムと全く同じことをしている。 また、ヨアブや祭司
エブヤタルも見方に付けた。 しかし、後継者はソロモンであるという「主のことば」をダビデは
前もっていただいていた。(T歴代誌22:7-10) アドニヤがそのことを前もって知っていたかど
うかはわからないが、ダビデ王が知らないうちに王としての即位宣言をした。 ところがダビデ
の妻バテ・シェバや預言者ナタンが、ダビデ王にそのことを話し、すぐにソロモンの即位式を行
い、ソロモンはダビデの王座に着いた。 ソロモンが王座に着いたことで人々の反応を聖書
「民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。」と書かれて
いる。 ここが、アブシャロムのときとは違っていた。 アブシャロムは謀反を起こす前、イスラ
エル人の心を盗んでいたが、アドニヤはそこまでの用意周到な実施計画をしていなかった。
(Uサムエル15:6)
 
その角笛の音を聞き、ダビデ王がソロモンを王とし、ソロモンはすでに王の座に着いたことを
聞いたアドニヤはソロモンを恐れて立ち上がり、行って、祭壇の角をつかみ命乞いをした。 ソ
ロモンの「彼がりっぱな人物であれば、彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。 しかし、
彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない。(T列王記1:52)」という言葉で、本来す
ぐにでも殺されるはずだったアドニヤは、助けられた。
 
その後、ダビデ王も死に、ソロモンの王位が確立した頃、アドニヤはソロモンの母バテ・シェバ
のところに願い事を言いに来た。 その願いとは、ダビデが老齢のため、体を温め、仕えるた
めに召されていた美しい女性のシュネム人アビシャグを妻にほしいということだった。 アドニ
ヤはバテ・シェバにその願いを言う前にこんな言葉を言っている。 「ご存じのように、王位は
私のものであるはずですし、すべてのイスラエルは私が王となるのを期待していました。それな
のに、王位は転じて、私の弟のものとなりました。主によって彼のものとなったからです。(T列
王記2:15)」 アビシャグを妻として与えてほしいということは、ソロモンが王となったことに主の
御手を認めていると言いながらもダビデの王座をあきらめていないという野望があることを示
唆していた。 結果、アドニヤのうちに「悪」あり、すなわち反逆者として殺された。 アドニヤに
ついて聖書に書かれていることは以上のようなことである。
 
さて、アドニヤの一連の言動は、父親としてダビデが躾(しつけ)を怠っていたから起きたという
ことをよく聞く。 アドニヤのことが書かれている第一列王記1章6節で、次のように挿入のよう
なかたちで書かれている。 「 ――彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたの
か。」と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブ
シャロムの次に生まれた子であった。――」 このところから、ダビデはアドニヤを甘やかして
いたという意見が多い。 ある面はそうかもしれない。 しかし、子どもたちが幼少の頃、ダビデ
は王国確立のため奮闘していたので、躾に注力することは難しかったと思われる。 その分、
躾は母親に委ねられていたところがあったのかもしれない。 もちろん常に躾ができなくても要
所要所、父親として躾はすべきではあるが、この躾も家々や一人一人の子どもによって躾の
仕方に微妙な違いがある。 一人一人のことについて一番よくご存知なのは、人を造られた神
であられる。 言うなれば、躾は父なる神に尋ねるのが一番良い。 
 
聖書に書かれているのは一部分ではあるが、ダビデの子どもたちの聖書に記されている言動
から見ると、ある程度の父親としての責任が問われるのは仕方がないところであると思われ
る。 しかし、ただ、ダビデのこの躾についても神は、あからさまにダビデを責めておられないと
ころを見るべきだ。 ダビデの良きところ悪しきところ、強いところ弱いところなど、すべてを含
めて神は、ダビデを「神の御心にかなった者」と見なされていることに注目すべきであろう。(使
徒13:22) また、ダビデという名まえの意味(愛される者)の通り、彼の生涯は神に「愛される
者」として生きたことも注目すべきであろう。 「神に愛された者」だったから、次から次へと厳し
い出来事、課題が与えられて磨かれ、鍛えられて、「神に愛された者」としてふさわしく整えられ
ていったと思われる。(へブル12:6) 次から次へと起こる不幸な出来事は、決して罪の刈り取
り、罪(姦淫、殺人)に対する神の罰であるとは言い切れない。 
 
このように見るとき、ダビデ側の問題というよりも子ども側にも大きな問題があったと考えられ
る。 人は躾だけで人の性格や人格が作り上げられるわけではない。 成長段階において、置
かれた環境、状況、様々な出来事などを通して、その人自身が意識的無意識的に作り上げて
いく部分がある。 アドニヤの場合、腹違いの兄アブシャロムが用意周到に準備をし、謀反を
起こしたが、結局、失敗して殺されてしまったことをよく知っていたはずである。 それでも、ア
ブシャロムと全く同じように行動した。 アブシャロムの失敗を目の当たりに見ても、そのことを
活かせるかどうかは、その人の力量的なもの、才能的なものによるところが多い。 性格的な
ものも影響するが、いずれにしても躾がきちんとされていたかどうかだけで決まるわけではな
い。 またアドニヤの場合、ヨアブと祭司エブヤタルの支持を得たことで、気が大きくなったの
か、彼の軽率さが目立つ。 この軽率さも、きちんと躾がされていなかったからということで決
めつけられないところがある。
 
また、謀反を起こした時、ソロモンに助けられたのに、ダビデのそばめのアビシャグを妻に欲し
いとソロモンの母親に願いに行ったことが、通常なら考えられないことである。 謀反を起こし
たくらいだから、思慮分別を弁(わきま)えない年齢ではなかったと思われる。 おまけに「王位
は私のものであるはずですし、すべてのイスラエルは私が王となるのを期待していました。そ
れなのに、・・・」と言った後、「あなたからなら断わらないでしょうから。」とアビシャグを妻にくれ
るようソロモン王に頼んでほしいと、王の母親バテ・シェバに、いけしゃあしゃあと言ったこと
は、怖いもの知らずなのか無鉄砲なのか、いずれにしても浅はかにも程がある。 これらの言
動は、親から甘やかされて育ったということだけが原因ではないようにも思える。 そうではな
く、アドニヤは主なる神に真に頼った生き方をして来なかったし、していなかった、そこが大きな
問題であったということである。 アドニヤ自身にも少なからず責任があるっということだ。
 
ダビデが、それまで「あなたはどうしてこんなことをしたのか。」と言って、彼(アドニヤ)のことで
心を痛めたことがなかった、ということは、アドニヤが謀反を起こすまでは、取り立てて問題を
起こすようなことがない比較的「いい子」だったからだと受け取れる。 だから、ダビデが甘や
かしていたというより、むしろアドニヤのことで心を痛めたことがなかった、ということであろう。 
優等生だった子がある日突然、非行に走ったり、素直で物静かだった子どもが、中学生、高校
生になって、突然親に暴力を奮うようになったというのを聞いたことがあるが、アドニヤの場合
もそれらと似たところがある。 いい子と思われていても、生まれながらの性質は変わらず、年
とともに硬くなってきた自我、肉、自ら作り上げてきた性格などが何かをきっかけに浮彫にされ
たと思われる。 親に対しては「子をその行くべき道に従って教えよ(口語訳 箴言22:6)」、子
に対しては「あなたの父と母を敬え。(出20:12)」という聖書のことばがあるが、主の御心通り
に日々の具体的な生活において実行していこうと思うなら、なかなか難しいものである。
 
結局、親も子も大人も子どもも一人一人に責任があるということではないだろうか。 親にきち
んと躾けてもらわなかったから、道を外した。 正しい教育をしてもらえなかったから、こういう
悪い性格になった。 などと親を責めるのは、アダムとエバが「神のことば」に従わなかったか
ら、「罪」が入って来たではないかとアダムとエバを責めるのと同じである。 確かに聖書によ
れば、人はすべて「アダムの子孫」であって、そのアダムとエバが犯した「罪」とその「罪の性
質」が我々人のうちに深く浸み込んでいるが、だからと言って、アダムとエバを責めたところ
で、どうにもならない。 しかし、人にはどうにもできなかったことをイエス・キリストは成してくだ
さった。 我々の「罪」が赦され、解放されるために十字架にかかってくださり、我々の「罪の性
質」が変えられて主とともに生きるために、主は3日目によみがえられた。 「罪」からの解放
「罪の性質」が変えられるのは、「イエス・キリストの救い」にある。
 
いずれにしても結局のところ、一人一人が、どう神に頼って生きるかが問われる。   一人一人
がどう生きるか、それは一人一人が決めることであり、一人一人に責任がある。 主なる神を
信じて神に頼った生き方をするのか、主なる神を信じても自分や世にある素晴らしい教訓や常
識などに頼った生き方をするのか、主なる神を拒み自分自身の力で生きていくのか、・・一人
一人が決めることである。 ダビデは最期まで主が伴走して走ってくださった。 我々も同様、
主なる神イエス・キリストに本当に心から頼って生きていく者は、キリストがゴールまで伴走して
走ってくださる。 我々は主イエス・キリストを真に信じた者としての歩みを進めていきたいもの
である。
 
★旧約聖書 詩編  44:21
   神はこれを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるからです。
 



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