めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年12月21日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<本当に「主に選ばれた者」とは?:イエスの系図、ユダ王国の王たちから思考>



★新約聖書   ルカによる福音書  13:24
        努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとして
       も、はいれなくなる人が多いのですから。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 7:13、14
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだ
   す者はまれです。
 
マタイによる福音書イエスの系図を見て、いろいろ思考してみた。 系図の中でイスラエル
の王制時代のユダ王国の王たちに注目してみた。 ユダ王国の王については、めんどり通信/
2010年6月13日2012年2月19日2014年10月12日11月23日を参照。 イエスの系図の中
に名まえがあるということは、アブラハムの直系の子孫であるということ、すなわち、血筋が父
祖から子孫へ一直線につながる系統であるということだ。 長い歴史の中で、アブラハムの血
統を受け継いでいくことは、相当、厳しかったと思われる。 特に、王制時代は多くの侵略や戦
いがあった。 そういう中で直系の子孫が継続してきたことは、神の介入なしにはできなかった
ことである。 神が介入された理由は、アブラハムとの約束ダビデとの約束があったからだ。
(Uサムエル記7:16、T歴代誌17:1-14、めんどり通信/2012年7月1日7月15日参照 
 
実際、南ユダ国の王制時代、何度か血統が途切れる、すなわちイエスの系図が途絶えそうに
なったことがある。 7代目アタルヤという女王は、ダビデの直系ではなく、北イスラエル国のア
ハブ王とイゼベルの間に生まれた娘で、ヨラムの王妃だった。 彼女は、夫ヨラム王と息子ア
ハズヤに、バアルを崇拝するように仕向けさせた。 アタルヤは、息子アハズヤ王が死んだと
知ると、ただちに王の一族をことごとく滅ぼした(U列王記11:1) 自分が王位に座ることで、
ダビデの王位を奪おうとした。 しかし、神はアハズヤの姉であるエホシェバを用いて、幼い王
子、ヨアシュを主の宮で6年間も隠して養育するようにさせ、ヨアシュは王となった。 ダビデの
直系は守られた。 
 
2度目は、16代ヨシヤ王の死後、長子エホアハズが王となった。 ところがエジプトの王ネコ
が、その弟(ヨシヤ王の次男)エホヤキムを王とした。 そして、エホアハズはエジプトに連れて
行かれ、そこで死んだ(U列王記23:34、U歴代誌36:4) すると今度は、バビロンの王ネブカ
デネザルが攻めてきて、 エホヤキムをバビロンに連れて行ってしまった。 (U列王記24:1、U
歴代誌36:6、ダニエル書1:1,2)  このエホヤキムが死ぬと、 その子エホヤキンが第19代の王
になるも、わずか3ヶ月と10日間の治世で終わってしまう。 再びネブカデネザルの家来たちが
やってきて、 エホヤキンをバビロンに連れて行ってしまう。 (U列王記24:10〜15、U歴代誌3
6:9,10) そして、ネブカデネザルが、 エホヤキンのおじ、 すなわち第16代ヨシヤ王の3男であ
り、 第17代エホアハズ王の弟、 また第18代エホヤキム王の弟の ゼデキヤを第20代の王とし
(U列王記24:17、 U歴代誌36:10) その11年後、またしても バビロンの王ネブカデネザ
ルの攻撃にあい、 ゼデキヤ王の子どもたちは虐殺され、 ゼデキヤ自身も両目をえぐられ、
バビロンに連れて行かれ、最後の王ゼデキヤの家系は絶えてしまった(U列王記25:1〜7) 
 
ところが、先にバビロンに連れて行かれた第19代の王 エホヤキンは、捕え移され幽閉されて
から37年経って、 バビロンでエビル・メロダクが王位につくと牢獄から釈放され、 王とともに食
卓につくようになった。(U列王記25:27〜30)  ユダ王国の歴代の王のうち、アタルヤはもちろ
んのこと、アハズヤ(6代)、 ヨアシュ(8代)、 アマツヤ(9代)、エホヤキム(18代)は、イエスの
系図から抜けている。 このあたりは、イエスの系図が途絶える危機のあったときでもある。 
とても、ややこしいが、いずれにしてもダビデの王位、イエスの系図は守られた。 
 
このように見ると、どのような窮地にあっても神は神ご自身の方法で解決をなさっておられる。 
我々人から見ればハラハラドキドキもののような事がらも、神はご自身のご計画を遂行される
ために、我々が思いつかないような最善のことをなさる。 血筋が途絶えてしまうという絶体絶
命のときには、絶妙なタイミングで介入なさって解決しておられる。 我々人には推測、想像で
きないような方法でされておられる。 それは、神ご自身が「ことば」に対して忠実であられるか
らだ。 だからアブラハム、ダビデに与えた契約、神からの一方的な「契約のことば」「約束のこ
とば」に神ご自身がこだわられた。 
 
さて、イエスの系図の中に名まえが入っているということは、ある意味、「神に選ばれている」
言えよう。 ただ「神に選ばれている」からといって、皆が皆、主が「良し」とされているわけでは
ない。 ユダ王国の王たちの歴史を見れば一目瞭然である。 それに、イエスの系図では、ヤ
コブの息子のユダ以外は記されておらず、旧約にも新約にも欠かせないモーセもヨシュアもサ
ムエルの名まえも書かれていない。 しかしイスラエルの王制時代のユダ王国の王たちの名
まえは、ほとんど書かれており、ダビデだけは「ダビデ王」と書かれている。(マタイ1:6) ダビ
デは、イエスの予表と言われているが、この系図は、イエス・キリストの誕生、それも「王なるイ
エス」の誕生を強調しているようである。 そのために、ユダ王国の歴代の王たちのほとんどの
名まえが書かれたのであろうと推測する。 だから、神に「良し」とされたから「選ばれた」という
わけではないし、「選び」基準が、「神の目的の遂行」が第一になっていることを見るべきだと
思われる。 
 
主イエス・キリストを信じた者は「神に選ばれている」ということをよく聞く。 しかし、「神に選ば
れている」ということは、我々人が考えるようなレベルで、神が言われているのではないと思わ
れる。 イエスの系図からもわかるように、「イエス・キリストを信じた、だから選びの中にある」
と安堵する受け取り方は、軽はずみで安易な受け取り方である。 我々が思っている「選び」
レベルと神が言われる「選び」のレベルに大きな違いがある。 「神のご計画を遂行する」という
神の目的実行が第一のために選ばれる「選び」と、我々の「救い」を第一にする「選び」がある
ようだ。 
 
イエス・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教え(山上の垂訓)の中に、「狭い門からは
いりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者
が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあ
る。(マタイ7:13,14) 「狭い門」「広い門」か。 「狭い道」「広い道」か二つに一つを選択す
ることが我々人に課せられていることである。 「私は選ばない」と言っても、「狭い門」「狭い
道」を選んでいなければ、いわば自動的に「広い門」「広い道」を選んでいることになる。 神の
御前には、中間はないからだ。 ここに人の感想、考え、思いが入る余地はない。 神から見
られると、二つに一つしかないからだ。 
 
また、十字架へと向かって進まれるイエスに、ある人物が「救われる者は少ないのですか」との
質問をしたが、主は「努力して狭い門からはいりなさい。・・・はいろうとしても、はいれなくなる
人が多いのですから。」と答えられた。(ルカ13:24) ここの「努力して」ということばの原語(ギ
リシャ語)での意味には、「苦悩する」「困難や危険と格闘する」があるという。 一般的に言う
肉の努力とは違う。 我々は何に格闘すべきか。 それは、「罪」であり、「自我」「肉」である。
(へブル12:4) イエスは仰せられた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と。マタイ16:24、マルコ8:34) 
自分を捨てること、自我が砕かれること、肉が切り取られることは、痛みがあり、痛みは苦悩を
伴うものである。 
 
また、この「努力して」ということばをヘブル語で訳した場合、「雄々しくあれ」という励ましの意
味があるという。 「狭い門」「狭い道」それを見いだす者が少ない多くの人が入ってい
「広い門」「広い道」に背を向けて進んで行くことは、恐れが来るかもしれない。 それでも、正
しい道であるから雄々しく行きなさいと励ましている。 「狭い門」に入る者が少なくても「雄々し
くあれ」苦悩があったとしても「雄々しくあれ」とイエスは励ましておられる。 また、「狭い」とい
うことばの原語には「苦難が多い、まっすぐ」という意味があるという。 結局永遠のいのち
に至る」には、困難、苦難が伴い、苦闘するが、まっすぐな道を歩む必要があるということだ。
 
とにかく、この「狭い門」から入り、「狭い道」を歩んで行くことこそ、まことの「天の御国への入り
口」である。 そして、努力して「狭い門」から入り、「狭い道」を歩む者が、神が言われる神に
「選ばれた者」なのである。 主は我々を確実に「狭い門」から入り「狭い道」を通って「永遠の
いのち」に入らせたいと望んで下さっている。 我々は、この主イエス・キリストを真に受け入れ
て、キリストの十字架を心底から体験し、安易に「自分は選ばれた者だ」と安堵せず、目を覚ま
して、絶えず祈り求めてまっすぐにゴールに向かって歩みを進めていきたいものである。 そし
て、神から見られて「選ばれた者」と呼ばれたいものである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 1:1-17
   アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生ま
   れ、・・ヤコブ・・ヤコブにユダとその兄弟たち・・ユダに、タマルによってパレスとザラ・・パ
   レス・・エスロン・・アラム・・アミナダブ・・ナアソン・・サルモン・・サルモンに、ラハブによっ
   てボアズ・・ルツによってオベデ・・エッサイ・・ダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻
   によってソロモンが生まれ、・・レハベアム・・アビヤ・・アサ・・ヨサパテ・・ヨラム・・ウジヤ・・
   ヨタム・・アハズ・・ヒゼキヤ・・マナセ・・アモン・・ヨシヤ・・エコニヤとその兄弟たち・・エコニ
   ヤ・・サラテル・・ゾロバベル・・アビウデ・・エリヤキム・・アゾル・・サドク・・アキム・・エリウ
   デ・・エレアザル・・マタン・・ヤコブ・・ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼
   ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの
   代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストま
   でが十四代になる。





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