めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年7月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<必ず、主のことばは成り、主の計ったとおりに成就する!>



★旧約聖書 イザヤ書 14:24
   万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計っ
   たとおりに成就する。
 
★旧約聖書 イザヤ書 46:10
   わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの
   はかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
 
★旧約聖書 詩篇 25:14
   主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
  
聖書を読んでいるうちに、神と人との契約について、改めていろいろ考えさせられた。 聖書
は「契約の書」といわれる。 「契約」というとき、世の中では双方で取り交わしが行われて双方
がそれぞれの責任を果たすという、条件を伴う契約が一般的である。  聖書のいう神と人との
契約には、2つの面がある。 世の中の契約と同様、「双方的なもの」と神からの「一方的なも
の」である。 「双方的」契約には、出エジプトの時、シナイ山でモーセを通して神とイスラエル
の間で契約が交わされた「シナイ契約」がある。 人が神の提示された条件を守ったら祝福が
与えられ、人が神の提示条件に従わなかった場合は、裁きがその人に下るという契約であ
る。 「契約」にはもう一つの面、神からの一方的な神の恵みである「契約」がある。 その契約
は無条件であり、ただただ 神の恩恵である。 「ノアの契約」、「アブラハムの契約」、「ダビデ
の契約(Uサムエル記7:11-16)」「新しい契約(ルカ22:20、ヘブル9:14,15)」などがある。
 
さて、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムと神の間にも契約があった。 契約内容は、アブラハ
ムに土地が与えられること、子孫が祝福されること、 アブラハムを通して万民が祝福されるこ
とである。 創世記12章で最初にこの約束を語られた。 創世記13章15-18節でも15章でも語
られた。 15:4では「ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければ
ならない。」と語られた。 しかし、アブラムもサライも「あなた自身から生まれ出て来る者」を自
分なりに解釈したようだ。 実際、二人とも高齢(アブラム85歳、サライ75歳)であったので、現
実を見て、サライはあれこれ考えたようである。 そしてアブラムに、まだ子どもを産むことが
できる女奴隷ハガルによって子どもを儲けることを提案した。 
 
女奴隷ハガルが産んだとしても、「アブラム自身から生まれ出ること」と判断した。 そのサライ
の提案をアブラムは受け入れた。 なんのためらいもない様子だった。 しかし、そのことは取
り返しのつかないほどの失敗となった。 アブラムとハガルの子イシュマエルが産まれたことに
よって、ただ単に家庭内のいろいろな問題が起こってきただけでなく、今日までも、アラブ人と
ユダヤ人問題として引きずっている。 確かに、神の時を「待つ」というのは、結構しんどいもの
である。 人は何かしている方が、待ちやすい。 それでも、主なる神が動かれるまで、主の時
まで、待たなければならない。 「待つ」ことは信仰が試され、鍛えられているときでもある。
 
それにしても、人祖アダムが失敗したときも、妻のエバが蛇の言うことを受け入れ、善悪の知
識の木の実をアダムにも渡して共に食べて、罪が入った。(創世記3:6)  このときもアダム
は、なんのためらいもない様子だった。 夫も妻も、現実を見て、自分たちの考え、計画を推し
進めた。 そのようなことは、この世で生きていくときには、当然のこと、常識的なこと、普通の
ことであるが、神の計画とは全く違う。 神はどのような状況、現状であっても人が、神を信頼
することを望んでおられる。 
 
アブラムの場合、本来、契約の神からみれば契約が破棄されたかのようだが、アブラムが99
歳のとき、主が彼に現われ、語られた。 大失敗をしてから13年間、主は彼らに現われていな
い。 その13年間のことについては聖書に記述はないが、主の導きに従って歩んできた彼ら
が、主なる神との交わりなしに過ごすことになったということである。 その間、推測されるの
は、彼らは決して平安な心持ちではなかったのではないだろうか。 「主に信頼する」というこ
との重大さを思い知る13年ではなかったかと思われる。 ある意味、彼らの考え、計画など肉
のものが砕かれる、試練の13年だったかもしれない。 
 
主は彼らに顕現されなくても、彼らのことをよくご存知であった。 だから、13年経ったアブラム
が99歳、サライが89歳のとき、アブラムに現われ最初に語られたことばは「わたしは全能の神
である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(創世記17:1)」だった。 「全き者」とは、
完璧であれ、というのではなく、神を信頼することにおいて完全であれ、ということである。 自
分の思い、考え、計画を捨て、主と主のことばに信頼せよ、ということである。 創世記17:2
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしく
ふやそう。」と契約のことばが語られているが、原文ではこの前に「そうすれば」という接続詞が
あるという。 
 
アブラムが神に頼らず、サライの提案、人が理解できる方法を取り入れた結果の大失敗があ
り、神の顕現、すなわち、主との交わりが絶たれた日々の苦しさ、むなしさを体験したことは、
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」という神のことばを、神の望まれるように行なえ
る、すなわち「神の御前を歩む」スタートが切れたと言えよう。 そして、このとき、アブラムとい
う名前が、「アブラハム(多くの人々の父)」、サライという名前が「サラ(王女)」と変えられた。 
多くの国民の父とする」ことは、神のみこころであり、神の目的であった。 
 

アブラハムとサラの場合は、創世記12章、15章の神からのあわれみと恵みの「一方的な契約」
と、創世記17章の「双方的契約」と二つの面の契約がある。 「信仰の父」と呼ばれるには、ア
ブラハムの自由意志によって「神の前を歩み、完全に主なる神に頼る」ことが必要であり、エノ
クやノアたちが、自ら「神とともに歩んだ」ようにアブラハム自ら、神に頼って神とともに歩んで
いき、信仰を強くしていくことが神が望まれていることであった。 
 
主から何か「ことば」をいただいている者、聖書の「ことば」を自分のものとして受け取る者が、
それらが、条件を伴う「双方的な契約」か、ただ神からの恩恵の「一方的な契約」かの判別は、
難しいかもしれないが、いずれにしても我々がすべきことは、完全に主に信頼して、主の前を
歩むことである。 とにかく、主と主のことばの前にへりくだり続けることである。 日々絶えず、
主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くして
いき、聖霊の流れに乗り続けていきたいものである。

★新約聖書 ヤコブの手紙 5:8
   あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

★旧約聖書 詩篇 89:34
   わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。 
 
★旧約聖書  エレミヤ書 39:18 
   わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕
   り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御
   告げ。――』」





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