めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年7月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神のことばに返り、主のみこころを知って行動する>



★新約聖書(口語訳) コロサイ人への手紙 1:9,10
   そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈
   り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深
   く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って
   実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。
 
★新約聖書  ヘブル人への手紙 11:13-16
   これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはあり
   ませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを
   告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていること
   を示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあった
   でしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれて
   いたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神
   は彼らのために都を用意しておられました。
 
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムと神の間に契約があった。契約内容は、アブラハム(の
子孫)に土地(乳と蜜が流れるカナンの地)が与えられること、子孫が祝福されること、アブラハ
ムを通して万民が祝福されることである。(創世記12章、創世記13章15-18節、15章) 
 
神からの召命でカルデヤ人のウルを出立し、カラン(ハラン)の地へ向かったが、彼らはカラン
(ハラン)まで来て、そこに住みついた。 そこでアブラムの父テラが死に、再び神からの召命
のことばにより、アブラム75歳のとき、カナンの地へ向かった。 召命のことばの中の、「子孫」
ということばは高齢のアブラムとサライにとっては信じがたいものであったと思われる。 それ
からカナンの地に住んで十年後、アブラム86歳、サライ76歳のとき、「アブラム自身から生まれ
出ること(創世記15:4」という「神のことば」に返りつつも、生まれもった知恵を絞り、女奴隷ハ
ガルによって、イシュマエルが産まれた。 しかし、この方法は、神のご計画、みこころとは違
っていたという大失敗を起こしたが、アブラムは神からの様々な訓練試練によって、名前が
神によって、アブラムから「アブラハム(多くの人々の父)」に変えられた。
 
その後、アブラハムとサラの間に約束のひとり子イサクが与えられたが、そのイサクを神にささ
げるという信仰の試練を通った。 その試練に合格した結果、主がアブラハムに約束を果たす
ことを確約された。 また、その後、アブラハムの妻サラが死んだ。 サラは65歳の時、アブラ
ハムと共に信仰の旅路を始め、90歳の時、約束の子イサクが誕生した。 そして127歳のとき
死んだ。 このときまで、アブラハムはカナンの地に一辺の土地も所有していなかった。
 
サラの死をきっかけに、アブラハムはカナンの地に墓地を購入することにした。 墓地の購入
は、現実的に必要なことだった。 アブラハムの方からヘテ人エフロンに墓地としてマクペラの
ほら穴を含む畑地を譲ってくれるよう願い出た。 アブラハムとエフロンとの取引の様子は、
創世記23章に記されている。 ヘテ人たちもヘテ人エフロンもアブラハムに対して好意的で
あった。 創世記23:6を見ると、ヘテ人たちはアブラハムに対して「神のつかさ(新改訳)」「神の
ような主君(口語訳)」「神に選ばれた方(新共同訳)」と呼んでいるが、それらの言葉や最上の
墓地をアブラハムに無償で提供しようとしたことから伺える。 単に好意的というより、アブラハ
ムには常に神が共におられたことを見て、一目置いていたようである。
 
ある学者の説明によると、売る側が最初に「差し上げます」と言い、買う側は「いえ、代価をお
支払いします」と辞退し、そこから具体的に値切ったり値切られたりというような値段交渉が
始まるというのが、当時のヘテ人の商取引の時の通例であったという。 また、エフロンが提示
した金額、銀四百シェケルは、当時の値段としては高すぎるという学者もいるという。 しかし、
アブラハムは、一切、値切らず、エフロンが提示する金額をそのまま支払い、公正な取引に
よって墓地を手に入れた。 
 
神は、アブラハムと彼の子孫に約束のカナンの地を与えると言われた。 だから、アブラハム
は、ただ神が約束を果たしてくださることを待って、自らこの約束のカナンの地に土地を持とう
としなかった。 アブラハムの豊かな財力と武力があるなら、このカナンの地で多くの土地を自
力で得ようと思えばできたと考えられる。 しかし、彼は、「神のことば」に絶えず返った。 彼
は、自分がこの世では「寄留者」に過ぎないことを自覚していた。 彼の真の故郷は「天の御
国」であることを知っていたのである。 だから、半遊牧の天幕生活をしていた。
 
以前、子がいなかったときアブラハムとサラが人間的な方法、画策をして、女奴隷ハガルに
よってイシュマエルを産んだ、という大失敗をしたが、彼はその教訓を決して忘れたわけでは
なかった。 しかし、アブラハムはカナンの地で墓地を購入した。 神の約束があるゆえにアブ
ラハムは、カナンの地にこだわった。 アブラハムにとって墓地を購入することは、特別なこと
であった。
 
アブラハムは、「墓」は死後の行くところへの入り口である死後どこへ行くのかというその象徴
として「墓」があると考えていたからだ。 彼にとって「墓」は、一つの区切りだった。 だから、
こだわった。 もちろん、神との約束の関係で購入するかどうかを考えたと思われる。 以前の
失敗から、主のみこころかどうかを主に尋ね、考え行動したと推測される。 「サラを葬るため
の墓地が必要」という切羽詰った状況は、ある意味、約束の地が与えられるためのスタートが
切られたと言えよう。 まさに、このことは「神の摂理」であると言えよう。 アブラハムだけでなく
孫ヤコブもその子ヨセフもみな、カナンの地にある「墓」に葬られることにこだわった。 実際、
この墓には、後にアブラハムだけでなくアブラハムの子イサクと妻リベカ、ヤコブと妻レアも葬
られた。(創世記49:29-32)
 
アブラハムがしたことは、彼は絶えず、神のことばに返っていたこと。 その上で、主のみここ
ろは何かを知り、自分がすべきことを考え行動したこと。 そして、主が訓練試練によって教え
てくださった教訓を忘れなかったこと、などである。 主がアブラハムに与えられた訓練試練に
よって、彼は見事に「信仰の父」と呼ばれるにふさわしい者に変えられていった。 
 
こうしてみるとき、我々も日常生活のなかであっても「主のことば」に返ること、「主のことば」を
心に留めること、主のみこころは何であるかを知って行動すること、主の良くしてくださったこと
だけでなく主の訓練試練から得たものを忘れないこと、をしていきたいものである。 そして、
我々の目を想像もつかないかもしれないが、永遠の御国に向けて、一日一日を聖霊に導かれ
て旅人として、歩んでいきたいものである。

★新約聖書  コロサイへの手紙 3:1
   こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるも
   のを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 12:2
   この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、
   何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新
   によって自分を変えなさい。





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