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2013年3月31日<終わりの時に どうあるべきかの思考> | |
著者も17年前まで所属していた教会で二段階携挙説を教えられ信じていた。 当時、「空中再臨」 に間に合わなければ、大艱難に巻き込まれてしまうと思い込んでいた。 だから一人でも多くの人が 救われてほしいと必死で伝道したし、「携挙」されるには、キリストのごとく作り変えられていなければ ならないと清めに関しても必死で祈っていた。 今、思うに、そのような心持ちは主が「良し」とされて いたのではないだろうか。 ただ、思い出してみると、当時、「キリストとつながる」ということよりも「再臨」 の方が優先されていたように思う。 クリスチャンが「再臨」信仰を持つことに問題はないが、間違った 「教え」は、人によっては、微妙に道を逸らさせられる危険性があるように思う。 著者は、教会を出てからも 数年の間は、教会で用いていたW・ニーなどの本をよく読んでいたので、二段階携挙説に疑いを持たなかった。 しかし、その後、何度も何度も聖書を通読して祈るうち、クリスチャンは大艱難を通ることにより、試され、 振るわれて鍛えられ、取り除かれるべきものは取り除かれる(人のうちにある不純物、時にはその人自身)、 と思うようになった。 そして、艱難時代を通る前から、一人一人に応じて、主は試練や苦難を通して訓練なさり、 それぞれに応じて真のキリストの体の器官としてふさわしい者に整えてくださると思うようになった。 実際、著者は、今も訓練を受け続けている。 その中で「忍耐」を身につけさせていただいているように思う。 めんどり通信/2013年3月31日号へ |
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