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2011年5月1日<神の領域というものがある> | |
筆者が20年ほど前、伝道していたとき、よく質問された内容がある。 「福音を聞かずして 亡くなった人たち、福音を聞いても理解も判断も決断もできない幼い子どもたち、流産した子ども たちはどうなるのか?」と。 当時、牧師から、「基本は主イエス・キリストを信じることであるが、 そのような子どもたちについては、みな天の御国へ行っている。」と教えられていたので、 そのように答えた。 しかし、福音を聞かずに亡くなった方々のことについては、神はご自身を自然の中で現してお られ(ローマ1:20)、人には良心があるから、何らかの形で神を知ることは出来るはずだか ら、・・・しかし、様々なケースもあるから・・・、死後どうなるのか、それは神にしか分からない ところがある。」などと答えていた記憶がある。 ともすると逃げの体勢とも言われた。 確かに そうだったかもしれない。 自分の中ではっきりしていなかったからだ。 ただその後、主からの様々な経験、体験による訓練、試練を通ってきた今、以前に比べるとも う少し明確に「基本は変わらないが、主の取り扱いに様々なケースがあり・・・、死後どうなるのか、 それは神にしか分からない部分がある。 神の領域というものがある。」と答えられる。 逃げではなく、本当にそう思う。 我々は、主が示された道を歩み、祈り求めていくうちに、 神の領域だったと思われることも一つ一つ開かれ、教えられてくることがある。 それには決して、 人の考え、願望、推測、想像は入っていないし、もし入っていたなら、それはもはや神の示しで はない。 そして、それでも まだまだ神の領域というのがあると思われる。 どこまでが神の領域で あって、どこまでが人が知ることを許されているのか、という境目はなかなか難しく、わからない 場合が多いが、確かに、神の領域というのはある。 その部分については、我々は祈りつつ、 確実に教えられるまで待つ必要があろう。 決して人の願望、想像、推測を入れてはいけな い。 人のものを入れることは神の御前に高ぶることになる。 めんどり通信/2011年5月1日号へ |
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