めんどり通信/2017年8月20日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「じっと待つ」ことについて、ぶどう園の主人に雇われた労働者から思考> |
|
★旧約聖書 イザヤ書 30:18
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、
あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさ
いわいである。
●「待つ」ことは、何事においても、わくわくすることもあるが、どちらかと言うと忍耐を要し、あ
る意味、しんどいということが多いものである。 神は人に語られ、人を導き、預言者を指名さ
れ、人々に「神のことば」を伝えられる。 「預言」は、神からの啓示であって、未来に関するこ
とが多く含まれる。 聖書の人物の中で、ノア、アブラハム、アブラハムの子イサク、イサクの
子ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデなどは皆「待つこと」を体験した。 彼らは、神からの約束の
ことばを受け、その約束を信じぬいた。 しかし、彼らは「じっと待つ」ことにおいて、相当な苦し
みを通った。 それでも、彼らの最期は、神に喜ばれ、神が「良し」とされた。 彼らは、いのち
の書に名が記されていた者たちである。
先週のめんどり通信/2017年8月13日で「ぶどう園の主人と労働者のたとえ」を少し書いたが、
この箇所の午後5時に雇われた人のことを考えてみた。 「ぶどう園の主人と労働者のたとえ」
からは、いろいろなことを学ぶことができる。 あらすじは先週書いたが、更に簡単に書けば、
労働者が必要となったぶどう園の主人が、市場に5回にわたって出て行き、労働者を雇い、労
働者は、夕方、働きの報酬をもらった。 しかし、報酬をもらう順番や働いた時間の割には一
律に1デナリであったことに腹を立てた最初の人々が主人に文句を言うと、「わたしはあなたに
対して不正をしてはいない。・・・。」と答えて言ったというたとえである。
ちなみに、当時の労働者は、奴隷よりもその日の暮らしに困っていたという。 奴隷たちには
主人がいたので、最低限、食べることには困らなかったが、労働者は誰かに雇われて賃金を
もらわなければ自分も家族も食べることができず、雇われるかどうかは死活問題だった。 だ
から、必死に雇ってくれる人を探した。 また、1日1デナリというのは、当時、1日の労働に対す
る標準的な賃金だという。
このたとえで、「待つ」こと、その中でも「じっと待つ」ということについて考てみた。 この市場に
来ていた人たちは、仕事を求めていた人たちである。 これは、市場に来るということが、ある
意味、主を求めている者たちにたとえているとも受け取れる。 主人は1日に5回も労働者を雇
うため、市場へ自ら足を運んだ。 早朝(朝6時ころ)に雇われた人たちは、その日、家族を食
べさせることができると安心したにちがいない。 労苦と暑さも賃金をもらえることを考えれば、
歯を食いしばらなければ我慢できないというほどの苦しみではなかったはずだ。 「雇われない
不安」と「労苦と暑さ」を秤(はかり)にかけるなら、明らかに「雇われない不安」の方が苦しいと
思われる。 体の不安と心の不安、いずれも苦しいものであるが、言葉で表現するのが難しい
心の不安は、人に解ってもらうことが難しく、人を傷つけ人に大きなダメージをもたらす。
午前9時、午後12時、3時頃に雇われた人たちも「相当な賃銀を払うから」との約束をもらい、
安心したことであろう。 彼らも、それぞれ雇われるまで「待った」者たちである。 明確に1デナ
リを提示されていなかったが、「相当な賃銀」の額は主人が決めて当然と思い、働けることを喜
びと感じたであろう。 仕事が終わる夕方までには、ある程度の時間がある。 彼らにとって、
雇ってもらって、幾らかの賃金を得ることは、恵みと感じたに違いない。
そして、午後5時頃の人たちは、早朝から、主人に次々と雇われていく人々を見て、どれほど
心が苦しかったことであろうか。 主人は4回も来たのに、自分に目を留めてもらえなかった。
彼らも雇ってくれる主人を必死になって市場で待っていたのである。 主人に目を留められて
いない苦しさは、どれほどのものであっただろうか。 絶望が目の前に押し寄せていたことであ
ろう。 だから「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言われた時の喜びは、最初の人々と比
べようがないくらい深かったものと思われる。 大の男が泣かんばかりに深く感動したに違いな
い。 いくらもらえるかは知らされていなくても、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」のことば
だけで、十分であった。
ここで思うこと。 @なぜ、主人は自ら1日に5回も労働者を雇いに市場に出かけたのだろう
か。 仕事にありつきたいと願っている労働者が多かっただろうから、朝に必要な人員を確保
できたはずである。 それなのに、なぜ、そうしなかったのだろうか。 A朝早く雇った最初の
人たちには「1日1デナリの約束」をし、午前9時、午後12時、3時頃に雇った人たちには「相当な
賃銀を払うから」という言い方をし、午後5時の人たちには、報酬のことは何も言わずに雇い、
報酬は皆一律に「1デナリ」を与えたが、これは最初から決めていたことなのか。
主人でたとえられる神は、労働者、すなわち主人を求めてくる一人一人のことを知っておられ
たはずである。 それで、一人一人に応じての「その時」が来たから、「その時」に雇ったのであ
ろう。 それが@の答えかもしれない。 「待つ」ことについては、午後5時頃に雇われた人々が
一番待った。 神の見方、目の付け所と人の見方、目の付け所は違う。 人の見方で言うな
ら、朝6時(早朝)から働いた人から賃金を与え、9時、12時、3時、5時から働いた人たちの時
間に応じて賃金を渡すべきであり、早朝の人々の賃金「1日1デナリ」が基準でしかるべきであ
る。 しかし、神の見方、基準は、損得勘定で割り切れるものではない。 「神の愛」、「神の恵
み」、「神のあわれみ」は、ただただ一方的な神からの御業によるものである。 神の人に対す
る一方的な好意である。 神は人を分け隔てなさらない方である。 本来、神は、すべての人
が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。(Tテモテ2:4) それがAの答えであ
ろう。
さて、朝早く、主人と「1日1デナリ」で約束した人は、主人のぶどう園の中で 彼らが言う労苦と
暑さが彼らを砕く機会になったと思うが、彼らは、主人と主人から頂いた恵みを見るのではな
く、自分がどうかというように、自分を最優先していたと思われる。 自分自身を最優先してい
ると、与えられた恵みを忘れ、むしろ、その主人から不公平な扱いをされていると利己的な見
方をしてしまうものである。 そして、自分を最優先する者は、主人と自分という一対一の関係
が浅くなるから、おのずと主人に対する感謝も浅くなる。 結局、浅い次元の結びつきは、崩れ
てしまうものであるということだ。
一方、終業間際の5時に雇われた人は、主人に雇われるまでの時間、まるで神に見捨てられ
たかのような苦しみを通った可能性がある。 彼らも必死に雇ってもらおうと願っていたはずで
ある。 もしかしたら、目を留めてもらうために、プライドも恥も捨てて何かアピールをしたかもし
れない。 しかし、できることなど限られているだろう。 どちらかと言えば、「じっと待つ」という
状態だったと推測できる。 それでも雇われなかった。 彼らの心は深く傷ついたかもしれな
い。 心につく傷が、砕かれた証拠となりうる場合がある。 傷も、ついてはならない傷があり、
また、いやしに関係なく、むしろ傷つく必要のある傷がある。 「主は心の打ち砕かれた者をい
やし、その傷を包まれる」と詩編147:3に書かれている。
「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」というぶどう園の主人の言葉は、彼らが
長い時間待っている間に砕かれて、もはや自分では何もできない状態であったことを物語って
いるのかもしれない。 「だれも雇ってくれないのです」との答えが更に、そのことを裏付けてい
るように思う。 だから、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」と言われたときの彼らの驚き
と喜びの表情が目に浮かぶようである。 ぶどう園の主人にことばを掛けられた時、それは、
主が動かれた時のたとえとも受け取れる。
このようにして見ると、主が動かれる時を「じっと待つ」ということは、苦しみが伴うことも多い。
そして、主が動かれる時を「じっと待つ」ことには、相当な忍耐が必要である。 しかし、それに
は必ず、神の祝福の報いがある。 主は決して、「じっと待つ」者を見放されないからだ。 主人
は、夕方、賃金を払う時には管理人に任せたが、労働者を雇うためには、主人自らが市場に
出て行った。 それも5回も出て行った。 終業間際の5時に、わざわざ労働者を雇う必要など
なかったかもしれない。 もしかしたら、ぶどう園の主人でたとえられている神は、誰々と朝6時
(早朝)に、誰々と朝9時に、12時に、午後3時に、夕方5時に、神と人との一対一の関わりを
もって、神の祝福を与えようと決めておられたのかもしれない。
とにかく、神は我々人に対するあわれみのご計画を立ててくださっている。 だから、我々は、
何事においても、自分の感情や人の言葉に振り回されることなく、主なる神を一心に見つめ、
何事においても「神の時」を「じっと待つ」者でありたいものだ。 また、「じっと待ち」ながらも、
「神の時」が速やかに来るようにと祈っていきたいものだ。(めんどり通信/2016年9月25日:主
のことばの完了の時を、「じっと待つ」ことについての思考も参照)
★旧約聖書 伝道の書 7:8
事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。
|
|