めんどり通信/2017年6月11日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <『天路歴程』から「狭い門」「狭い道」を思考する>2018年3月25日付修正文。 |
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★新約聖書 マタイによる福音書 7:13、14 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行 く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
★新約聖書 ルカによる福音書 13:24 「狭い戸口(狭い門:新改訳)からはいるように努めなさい(努力して:新改訳)。事実、は いろうとしても、はいれない人が多いのだから。
●ジョン・バンヤンという17世紀、イギリスのクリスチャンの作品である『天路歴程』という本か ら冒頭のみことばの「狭い門」「狭い道」というのを考えてみた。 『天路歴程』の内容について は、めんどり通信/2008年10月19日で書いたが、簡単に整理してみる。
1人のクリスチャンが救いに至る道を探しに出かける。→伝道者が現れ「まっすぐに進み、見つ けにくいが小さい狭い門に入れ」→(頑固)と(軽率)という名の2人の人が引き返すことを勧め る→クリスチャンは一緒に行こうと勧める→(軽率)は一緒に出掛けた→途中、2人は『落胆と いう泥沼』に落ちた。 (軽率)はこんなことは嫌だと引き返した。 クリスチャンを御使いが引き 上げてくれた→(世渡り上手)という人が「伝道者の言うことを聞くな。『道徳の町』へ行け。」と 勧めた。→『道徳の町』へと歩き出した。 前方に激しい火。 火の中から「神のことばに最後 まで従え。」という声。 そこに伝道者が「途中で道を引き返すような者をわたし(神)は悲しむ。 先の二人は偽教師である。」と言った。 恥ずかしく思いまっすぐ進みだした。→
→☆門にたどり着いた。 門番に助けられ中に入ると「途中災いがあるが狭いまっすぐな道を 進め」と(大切)という名の人が真理を教えてくれた。 道の両側には『救い』という文字が書か れていた。→しばらくするとイエス・キリストが小高い丘に現われた。 このクリスチャンは十字 架は自分の罪の身代りであったという本当の意味を悟り、心から悔い改めた。 この世から背 負ってきた背中の重荷が取り除かれ、罪の赦しの宣言を受け、巻物(聖書)を持って再び出 発。→道端で(軽薄)(怠惰)(傲慢)という名の3人が眠っていた。 3人は起こそうとしても起き なかった。(1ペテロ 5:8)→(形式ばかり)と(見せjかけ)という名の2人が道の両側の塀の外か ら乗り越えてきた。→(形式ばかり)は左の『破滅への道』へ、(見せかけ)は右の『危険への 道』へ行き滅んでしまった。→
→真ん中の狭くて厳しいがまっすぐな道へと進んだクリスチャン。 『いのちの泉』で水を飲み 元気を回復して『困難の丘』を苦労しながら進んで行った。→前方に2頭の獣。 2人が引き返 してきた。 案内人が現われ「2頭の獣は、信仰があるかどうかを見るためだけにつながれて いる。」と言った。→(聡明)(慎み)(畏敬)(愛)という名の女性と出会い、交わり、神の武具を まとい、再び出発。(エペソ 6:11,14~18)→谷から滑り落ちた。 獣と戦う。→多くの人が引き返 してきた。 今まで以上に激しい火、爆発、暗やみが次々と襲いかかってきた。 クリスチャン は祈りに祈った。(詩篇 23:4)→
→(献身)という名の道連れ。→『虚栄の町』で捕まって裁判。 (献身)は殉教。 このクリス チャンは釈放。→狭いまっすぐな道を進み出した。→(希望)という名の新たな道連れ。 足が 疲れてきた。→同じ方向に2本の道。 (盲信)が来て、楽な方へ行こうと進みだした。→怪人 「絶望」に捕まり深い穴に閉じ込められた。 (希望)とクリスチャンは穴の中で悔い改めた。 (希望)が持っていた約束の鍵で牢の扉を開け、必死に祈りながら追いかけてくる怪人を振り 切った。 後から来る人たちのために立て札を作った。 【この道を進んではいけない。神をあ ざける者がいる。要注意!】→
→☆『歓喜の山』に到着。 ここは、まだ目的地ではなかった。 現われた羊飼いが、まだ進む よう導いた。→「白い衣を着た人」が現れ「一緒に行こう。」と言った。 すぐに現われた御使い に「聖書を読め。 惑わされてはならない。」と戒められた。→(無神論)という名の人が来て天 国などない、引き返せと言い寄ってきた。→『惑わしの国』を急いで通り抜けた→『ベウラの地 (やすらぎの地)』に着いた→最後の試練の川を導き手がともに渡ってくださった→永遠の御 国に到着、以上である。
聖書のみことばやこれらをもって、いろいろ思考してみた。 『天路歴程』の内容は、クリスチャン が主が定められた道を歩んで行くにおいて、一人一人個人差はあるが、たいてい経験すること が書かれていると思われる。
著者の場合。 約21年前まで所属していた教会で、この『天路歴程』の内容を自分に当てはめ て教会の夜の集会でメッセージをしたことがある。 当時、牧師から牧師訓練を集中的に教会 に泊まり込んで受けていた。 牧師の言われることを受け留めようと努力するのだが、心の奥 まで入って来なかった。 必死に祈って祈って聞くのだが、心の奥に入って来なかった。
当時、何故だか分らなかったが、気分が落ち込んだ。 牧師からすると著者の心を引き上げよ うと指導され、厳しく叱ったのだと思うが、著者の気持ちは沈むばかりだった。 ベニー・ヒンの 性質や考え方を自分に取り入れるように、ベニー・ヒンの「聖霊様おはようございます」の本を 読むように言われ、本に線を引き、何度も何度も言われた通り読んだが、内容が心の奥に 入ってこなかった。
あるとき、教会の夜の集会でメッセージをするように牧師から言われ、『天路歴程』からするこ とにした。 どのようなことをメッセージするのかを牧師に話したと思う。 自分はまだ抜けてい ない、自分の状態が解決していないから、怪人「絶望」に捕まり深い穴に閉じ込められたところ かまでしか、できないことを話したと思う。 牧師は、「わたしのようになってはいけません」と言 えばいい、それを教えたらいいと言われたのを、はっきり覚えている。 それが嫌なら、その状 態から抜けよという指導だったのかもしれない。 しかし、当時は、この教会を離れたら地獄に 墜ちるとまで思い込んでいたので、牧師に突き放されたらどうしよう、牧師に良しとされるように ならなければならない、と牧師の顔色を気にするような何ともいえないくらいの心持ちだった。 マインドコントロールにかかっていたのである。
そして、教会の夜の集会でメッセージをした。 『天路歴程』の内容を自分の体験に当てはめな がらだったので、リアリティーなメッセージとなった。 ところが、怪人「絶望」に捕まり深い穴に 閉じ込められたところに来るとメッセージを続けられなくなった。 それで、牧師が言われた通り 「(今の)わたしのようになってはいけません。・・・」と締めくくった。 集会の後、牧師からメッ セージはよくできた、とほめられた。 しかし、うれしくもなく、何故ほめられるのか、・・・いろい ろ疑問が出てきたが、牧師に対して、そのような思いを持ってはいけないと、そのような疑問を 振り払っていた。
その後、教会を追い出されるというかたちで、その教会を出たが、祈りに祈って、マインドコント ロールから解き放たれるのに1年半かかった。 その教会を出てわかったことは、当時、聖霊 が著者の心、それも心の奥、霊を守ってくださっていたということだ。 ベニー・ヒンの教えも主 が「否」とされる指導も著者の心の奥に入って来ないように主が守っていてくださったということ である。 そして、そのような苦しみの時を過ごしながら、著者の自我が砕かれ、肉が切り取ら れていったということだ。 祈りに祈って、それらがわかるまでには、数年かかった。 そして、 言えることは、以前、所属していた教会での体験、教会を出てから後の様々な体験を主が無 駄にされなかったこと、むしろ益にしてくださったからこそ、今日の著者があるのだと思う。 そ れで、今までのすべての過程を主に感謝している。
狭い門とは、「わたしは門である(ヨハネ福10:9)」と言われたイエス・キリストであり、キリストを 受け入れて悔い改め、キリストの十字架の死が、自分のためであることを信じることが「狭い 門」を通ることであるという解釈も多いが、一応「クリスチャン(キリスト者)」と呼ばれる人は、レ ベルの違いこそあれ、キリストの十字架の死が、自分のためであることを信じているのではな いだろうか。 世界のキリスト教人口は、1位で世界人口の約32%。(生活便利図鑑2015年) もちろん、この数字の中には、キリストの十字架の死が、自分のためであることを信じていない 人の数も含まれているとは思うが、それを考慮したとしても決して「狭い門」とは言えない。 ま た、「狭い門」「狭い道」をたとえとして解釈していることも多い。 、
それぞれ学べるところもあるが、著者は、あえて今までのそういう経験などから、祈りつつ「狭い 門」について考えた時、☆『歓喜の山』に到着。 ここが「狭い門」ではないかと思った。 というこ とは、「狭い門」に到着するまでの「道も狭く」、「狭い門」をくぐってからも「狭い道」を歩むのかも しれない。 「狭い門」の「狭い」は、字義の通りであるが、「道が狭い」というときの「狭い」の原 語は、「狭い門」の「狭い」とは違う語が使われているという。 その原語には「苦難が多い」「苦 労する」という意味合いがあるという。
「狭い門」に入るまで、原語の意味あいの通り、「苦難、苦労」が多いのであろうと推測できる。 しかし、「狭い門」に入ってからは、1人ではなくキリスト(白い衣を着た人、御使いか聖霊)が一 緒に歩んでくださる。 そうであっても、「狭い門」に入るまでは、「苦難や苦労」が多く、厳しいよ うである。 そのように見ると、「狭い門=命にいたる門」に入るのは簡単なことではないというこ とだ。 自分はキリストを信じているから「狭い門」に入っていると安穏としていられないというこ とだ。 しっかりキリストにつながり続けて、確実に「狭い門」から入り、確実に、天の御国に通じ る「狭い道」を進んで行きたいものである。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエス から目を離さないでいきたいものである。(へブル12:2)
★旧約聖書 詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
参照:めんどり通信/2008年10月19日。<天路歴程(てんろれきてい)>/2015年5月24日。 <いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれである、について思考> /2016年5月15日。<終末について:聖書、祈り、霊的感覚によって推考> |
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