めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年10月23日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主なる神への「信仰」についての思考>


★新約聖書 へブル人への手紙 11:1
 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(新改訳)
 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(新共同訳)
 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(口語訳)
   
★新約聖書 マタイによる福音書 7:21〜23
   わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
   れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわ
   たしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名に
   よって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。
    しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。
   不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
 
●聖書を読んでいる時、へブル人への手紙11章1節「信仰は望んでいる事がらを保証し、目
に見えないものを確信させるものです。」で立ち止まって、いろいろ思考してみた。 聖書で、特
に、ほとんどがヘブライ語で書かれている旧約聖書の中では、文学的手法の一つである「同義
的並行法」が、多く使われているという。 2行目が1行目で語ったことを異なった言葉で言い換
える型で、2行目以降が、前行の意味をさらに具体化した形で述べられていることによって著
者の感情の度をさらに増したり、そこに書かれている真理の重みを一層強めたりすることがで
きるという。 簡単にひと言で言えば、強調のために同義語を並べることであるという。 
 
へブル人への手紙11章1節をこの手法から見ると、「望んでいる事がら」=「目に見えないも
の」は同義(意味が同じ)であり、「保証するもの」=「確信させるもの」も同義である。 「望んで
いる事がら」とは、自分が望んでいること、願っていることではない。 聖書は、人を中心にして
は書かれていない。 あくまで、「主である神」、「主イエス・キリスト」が中心である。 この方に
焦点を定めさせるように書かれている。
 
「望んでいる事がら」=「目に見えないもの」とは、キリスト者が目標としている「天の御国」
なわち、「永遠のことがら」である。 現在、我々の目には見えないことである。 それらが、自
分にとって確固たるものになっているのかどうかで、「信仰がある」、「信仰がない」と言えるの
であろう。 「信仰」は、神に喜ばれる「信仰」でなくてはならない。 その条件として、へブル人
への手紙11章6節に、2つ書かれている。 @神がおられることを信じ、A神を求める者には報
いてくださる方であることを信じることである。 
 
ただ、一旦、キリストを受け入れ、キリストのあわれみと恵み体験した者であるなら、一般的
@神がおられることを信じているであろう。 また、神に祈り求めて、その通りになった体験
のある者は、一般的にA神を求める者には報いてくださる方であることを信じているであろう。 
しかし、それらが、自分にとって確固たるものになっているのかどうか、自分のものになってい
るのかどうかを問われた時、果たしてどうであろうか。 聖書が語っていることは、人の心の浅
い部分に語り問いかけているのではない。 我々の心の奥底に向かって語られている。 問い
かけられた時、我々の深いところ、人の霊で、しっかりと受け取ったうえでの返答をしているの
かどうかで「聖書のみことば」を与えられた、わかった、悟ったと言えるのである。 
 
冒頭のマタイの7章のみことばで、『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなた
の名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありません
か。』と言ったとき、主は、その言葉を否定されていない。 だから、一般的にキリスト教会で言
われている「預言」「悪霊の追い出し」「キリストの名による奇跡」は起きていたのであろう。 
「預言」「悪霊の追い出し」「奇跡」も、主が介入されなければ、現われない。 また、「主よ、
主よ。」と呼んだこの者たちは、聖霊によって「主よ。」と呼べたのだから、明らかに@神がおら
れることを信じ、A神を求める者には報いてくださる方であることを信じていたであろう。T
リント12:3)
 
しかし、主は、この者たちに、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども」と言わ
れ、その者たちを通して現われた「神のみわざ」を認めておられない。 矛盾するようでもあ
る。 しかし、思うに、主は優しい方である。 「預言」「悪霊の追い出し」「奇跡」を求めてい
る必要な人のために、主は、ご自身のみわざ現わされたのではないだろうか。 イエスは、
群衆や盲人、やもめを見て「かわいそうに」と思われて、彼らをいやされたことが書かれてい
る。(マタイ9:36、15:32、ルカ7:13) だから、苦しみ求める者を「かわいそうに」「人」を用い
て、「神のみわざ」を現わしてくださったのではないだろうか。 
 
そのように見ると、この時、主に用いられたから、主が「良し」とされるわけではないことがわか
る。 そのことを旧約のバラムからも知ることができる。 旧約のバラムも主が用いられたが、
結局、滅んでしまった。(めんどり通信/2013年5月12日。/2014年4月13日。/2015年9月13日
参照) 主に用いられることは、幸いなことではあるが、それで「良かった」主が「良し」とされ
ているわけではないことを、しっかりと知っておく必要がある。 主に喜ばれている者だけが主
に用いられるのではない。 
 
また、主から「かわいそうに」「奇跡」「悪霊の追い出し」を受けた群衆は、律法学者やパリ
サイ人たちに扇動され、激しく「(イエスを)十字架につけろ。」と叫んだ。 だから、主の「あわ
れみ」「恵み」時には、「奇跡」「悪霊の追い出し」を受ける者の皆が皆、「主が喜ばれる
者」、「主に良しとされる者」になるとは限らないということだ。 
 
主の恵みに与ったり、主のあわれみによる奇跡を体験したり、悪霊を追い出されたりして、主
に感謝することは当然のことだが、感謝すること以上に、本当に主が望まれているのは、我々
人が、口先だけでなく、浅い次元ではなく、心の底から、主なる神を愛することである。 「自分
の命をかけるほどに、主を愛している」ということである。 そういう意味で、「殉教」は、主を愛
しているのかどうかを問われた応答として、明白なものであろう。 
 
「殉教なら、自分だって、いつでも主のために死ねる」と思い、言ったとしても、いざ、その時が
来たなら、ペテロのように自分をかばうようになってしまうのが人間ではないだろうか。(マタイ2
6:72) ペテロは、その時にはまだ、自分の心の奥底にあるものを知らなかったのだ。 しか
し、その後、ペテロは主に砕きに砕かれて、最期は逆さ十字架にかけられ殉教した。 ペテロ
は、主にあわれんでいただいたから、その後、作り変えられたのである。 それは、ペテロが、
心底から主を愛していたからである。 だから、「殉教」できるまでに、主が導き変えてくださっ
たのだ。(ヨハネ福21章) 
 
今日の我々の時代、特に日本においては、今のところ、実際に体の命が失われた昔のような
「殉教」はない。 しかし、実際に体の命が失われる「殉教」はなくても、ある意味、「殉教」は、
ある。 イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字
架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)」と言われた。 「自分を捨てる」とは、
その人にとって最も大切にしているものを捨てるのである。 ほとんどの人は「自分の(からだ)
命」を一番大切にしているであろう。 また、中には「自分の名誉、財産、家族、地位など・・」
第一に考える者もいるかもしれない。 いずれにしても、「自分」である。 しかし、主は、「自
分」を最優先するのではなく、「神の国と神の義」すなわち「キリストを最優先」せよということ
である。(マタイ6:33、コロサイ2:10) 最優先できるものに対して、人は一番愛着があり、言葉
を換えれば、それに対しての「愛」があるということだ。 
 
こうして見ていくとき、@神がおられること、A神を求める者には報いてくださる方であること
は、「神への愛」が足場、土台になった上での@神がおられることを信じ、A神を求める者に
は報いてくださる方であることを信じることが重要であるということだ。 「いつまでも存続するも
のは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(口語訳
Tコリント13:13)」とパウロも言っている。 
 
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ福15:13 )」と主は言われたが、その友とはイエス・キリストのことである。 主は「 わた
しがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハ
ネ福15:14)」と言われたからだ。 結局、「神への愛」があるのかどうかが「鍵」であり「重要」
あるということだ。 
 
神が見ておられるのは、心の奥底「神への愛」を持っているのかどうか、また、持つことがで
きる者であるのかどうかである。 「神への愛」は、主なる神から与えられるものである。 い
つ、どのように与えられるのかは、人によって様々であるが、与えられる「神への愛」を受け取
り握ることができる必須条件は、「へりくだり」である。 心の奥底に、「神への愛」が据えられる
ことについては、信仰歴が長いとか聖書の知識を多く知っているとか教会での奉仕、キリスト
のための奉仕を多くしているとか奇跡を体験したとかは目安にならない。 信仰歴が短くても聖
書の知識をあまり知らなくても奇跡を体験したことがなくても心の奥底に、「神への愛」が据えら
れている者もいるからだ。 
 
彼らの特長は、一人一人に応じた神からの訓練試練、試しによって自我が砕かれ肉が切り取
られる過程を通り、それらを拒否しなかったということである。 また、中には、まだキリスト者
でない者もいるかもしれない。 いずれにしても、そのような者たちは、神から見られた時、「
分を捨て、自分の十字架を負うている」ということである。 
 
「イエス・キリストを信じる」、すなわち、キリストへの「信仰」とは、「神への愛」が足場、土台に
なった上での@神がおられることを信じ、A神を求める者には報いてくださる方であることを信
じることである。 最も大いなるものであり、最も大きいものである、「神への愛」に焦点を定め
て、自分の心を吟味していきたいものである。 そのためにも、絶えず「信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから目を離さないで」この方に尋ね求めていきたいものである。(へブル1
2:2、詩編9:10)
 
★新約聖書 マルコによる福音書 12:29、30
   イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神
   である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あ
   なたの神である主を愛せよ。』
 
 
 



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