めんどり通信/2016年4月3日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <先駆者バプテスマのヨハネについて思考> |
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★旧約聖書 箴言 3:5,6
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主
を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
●先駆者バプテスマのヨハネの記事は四福音書すべてに書かれている。 バプテスマのヨハ
ネは、御使いのことば通り、父ザカリヤ、母エリサベツの間に生まれた。 名まえの「ヨハネ」
は、神が決められた名であった。(ルカ1:13,57,63) バプテスマのヨハネとイエスは親戚関係で
あり、年齢も半年くらいしか離れていない。 ヨハネは、イスラエルの民の前に公に出現する日
まで荒野にいた。(ルカ1:80) ヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その
食べ物はいなごと野蜜であった。(マタイ3:4)
ヨハネは神が、「水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた」と言っている。(ヨハネ福
1:33) 神のことばが、荒野でヨハネに下ると、ヨハネは、ユダヤの荒野で罪のゆるしを得させ
る悔改めのバプテスマを宣べ伝え、人々にヨルダン川でバプテスマを授けた。(ルカ3:2、マタ
イ3章、マルコ1章、ルカ3章、ヨハネ福1章) ちなみに「バプテスマ」はギリシャ語で、その意味
は、「沈める、浸す」である。 バプテスマを受けるということは、一言でいうなら、罪の中で生き
てきた自分を水の中で葬り、水からあがることによって新しい命に生きるということである。
(ローマ6:4)
ただし、イエスもヨハネからバプテスマを受けられたがイエスの場合は、悔い改めは必要がな
いので、我々とは違って、罪人と一体となるために受けられた。 我々のために受けられた。
ピリピ人への手紙2章6節7節には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨
てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じように
なられた」と書かれている。
さて、ヨハネにキリストの先駆者という務めがあることは、ヨハネが生まれる前、御使いが父ザ
カリヤに語られていた。(ルカ1:17) ヨハネ自身も、ユダヤ人たちから「あなたはどなたです
か」と尋ねられた時、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野
で叫んでいる者の声です。」と答え、「メシヤ(キリスト)」の先駆者としての役割を認識してい
る。(ヨハネ福1:23)
ヨハネが「キリスト(メシヤ)」に関して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」、「見よ、神の小
羊。」と言い、神から聞いていたことば「聖霊がその上にとどまられる方がメシヤである」の通り
に、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見たから、このイエ
スこそ世に来ると預言されていた神の御子である。」と証言した。(ヨハネ福1章) また、「私な
どは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」と言い、「あの方は栄え、わたしは衰え
ねばならない。(ヨハネ福3:30)」とも言っている。
イエスが公にキリストとして活動を始められたのは、ヨハネが投獄されてからというのを3つの
福音書では語っている。 実際、イエスがヨハネからバプテスマを受けてガリラヤに戻って宣教
を開始するまでの期間はわからないが、「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神
の福音を宣べて言われた。(マルコ1:14、マタイ4:12--17)」と記されている。 ヨハネの福音書
3章を見ると、ヨハネがまだ投獄されていないときは、イエス(実際はイエスの弟子たち)が、水
で人々にバプテスマをお授けになっていたようである。(ヨハネ福4:2)
バプテスマのヨハネは、旧約聖書の最後の預言者であり、ヨハネの働きの終わる時が、旧約
時代の終わりである。 だから、ヨハネが活動している間は、イエスは本来の働き、すなわち
「神の国の福音」を述べ伝えることを控えられ、イエスの方が活動されるのを待っておられたか
のように思える。 イエスは、無理にヨハネの働きをやめさせなかった。 ヨハネが、捕えられ
たことで、ヨハネの先駆者としての働きが終わった。 それで、イエスは宣教を開始されたのだ
と思われる。 もし、ヨハネが投獄されなかったなら、ヨハネはまだ活動したのだろうか? ちな
みに、ヨハネが捕えられた理由は、当時のユダヤの領主ヘロデが自分の兄弟ピリポの妻ヘロ
デヤを横取りして、無理やり自分の妻にしたことを、果敢に真正面から責めたことによって、ヘ
ロデの怒りを買ったことによる。
そんな偉大で勇敢なヨハネがイエスに疑問を持ったことが記されている。(マタイ11章、ルカ7
章) ヘロデに投獄されたヨハネは、自由に活動はできなかったものの、獄中で弟子たちの話
しを聞くことができるくらい、その幽閉は緩やかだったようだ。 ヨハネの弟子たちは、イエス
が、行なわれていた奇跡やいやし、解放、それらを見た人々が恐れを抱き、神をあがめている
ことをすべてヨハネに報告した。
すると、ヨハネは弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り「おいでになるはずの方
は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。 そのと
きのイエスはなんとも言えない悲しさがあったのではないだろうか。 イエスの答えは「あなたが
たは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるように
なり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者
に福音が宣べ伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」であった。
また、ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言した後、ヨハネの弟子であったペ
テロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエルなど数名の者たちはイエスに従って行った。 しかし、多く
のヨハネの弟子たちは、ヨハネのもとで、「みな あなたが証言なさったあの方のほうへ行きま
す。」とヨハネよりもイエスがより多くバプテスマを授けているのを見て妬んだ。 また、ヨハネの
弟子たちは断食などきちんと律法を守っているとの自負があり、イエスの弟子が断食しないの
をいぶかっていた。(マタイ9:14) バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後もかなり
の期間にわたって洗礼活動をしていたという。
さて、以上、バプテスマのヨハネについて聖書に記されているところを見てきたが、著者はいろ
いろ思考してみた。 イエスはバプテスマのヨハネを「預言者よりもすぐれた者」とほめられた。
確かにバプテスマのヨハネは、「メシヤ(キリスト)」の先駆者として、権力にもひるまず勇敢で
自分に与えられた先駆者という働きを忠実に行ない、雄々しく偉大な人であった。 神が直接
語られたことばの実際を目撃し、証言した。 それなのに、なぜイエスが待ち望んでいたメシヤ
であると言う確信がゆらいだのか? なぜ疑ったのか? 原因は何だろうか?
ヨハネが持っていたメシヤ像とイエスの言動があまりにも違いすぎていたからだろうか。 当
時、イスラエルはローマの属国だったので、ユダヤ人たちは、旧約の預言者たちを通して約束
された「メシヤ(キリスト)」を神は送って下さり、民を解放してくださることを熱心に待ち望んでい
たが、ヨハネも同じ期待をしていたのだろうか。 それとも、ヨハネが人々に「その方は、、手に
箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消え
ない火で焼き尽くされます。」と語った言葉から、メシヤが来たら、すぐに裁きが行われ悪が取
り除かれて、神の国が到来すると思っていたのだろうか。
いずれにしてもイエスは、ヨハネの期待していたメシヤ像ではなかったようだ。 自分の期待、
願いが強すぎた場合、直接語られた「神のことば」でさえ、自分(肉)の基準、世の基準で理解
して、それを「神のことば」と思い込み、「神のことば」を曲げてしまう恐れがある。 聖書を読ん
で理解しようとするときにも、同じことが言える。 「神のことば」、「聖書のことば」は、聖霊に
よって理解させていただくものであることを重々知っておく必要がある。
ヨハネは、預言者だったが、弟子たちから聞いたイエスがなさっていた事実を知っても、旧約
聖書のイザヤ書35章5,6節、61章1節などのメシヤ預言の箇所と結びつけることができなかっ
た。 ヨハネの強い期待や思い込みが、正しく知ることを妨げていたと思われる。 ただ、イエ
スからの答えのメシヤ預言を聞いた後のヨハネについては何も書かれていないが、ヨハネは、
神が自分に語られたことばや聖書のことばを思い出したのではないかと思う。
また、このこと以外にもヨハネがイエスのことを疑った原因は、ヨハネの立ち位置の問題があ
る。 ヨハネの働きが終わって、その後にキリストが訪れることになる。 ということは、先駆者
バプテスマのヨハネの役割、働きは、イエスがヨハネからバプテスマを受けられ、御霊が鳩の
ように天から下ってイエスの上にとどまられるのをヨハネが見て、そのことを証言したときに終
わったのではないだろうか。 そのとき、ヨハネは、先駆者としての位置からキリストの弟子とし
ての位置に移るべきではなかっただろうか。 旧約と新約の橋渡しの先駆者はキリストの弟子
の位置に立つことはできないのだろうか? もし、ヨハネがキリストの弟子の位置に立ったな
ら、ヨハネの弟子たちもキリストの弟子の位置に立った可能性はある。
しかし、バプテスマのヨハネは、キリストが登場してからも自分の弟子を持ち続けた。 確か
に、ヨハネは自分の役割について弟子たちに説明したが、弟子たちの方がヨハネから離れな
かったとの見解が多い。 ヨハネには何の問題もないが、弟子たちに問題があったという見方
が大方を占める。 果たしてそうだろうか。 ヘロデに対して毅然と不法を許さず、勇敢に指摘
するほどの熱心さが、自分の弟子たちを、「メシヤ(キリスト)」の方へ行かせることに関して
は、それほど感じられないのは著者だけだろうか。 ヨハネは、イエスにバプテスマを授けた後
も、人々にバプテスマを授けている。 人々の心をキリストに向けさせるためであったとはい
え、2つのグループが競い合っているような感じさえ受ける。 もちろん、ヨハネではなくヨハネ
の弟子たちではあるが。 そして、投獄されると「ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せ
て、主のもとに送り」と、師弟の関係は何も変わっていないように思われる。
イエスは、先駆者として務めたヨハネをほめたが、その後続いて「しかし、神の国で一番小さい
者でも、彼よりすぐれています。」と言われた。 この一言で、ヨハネは優れているのかそうでな
いのかというようになり、ヨハネを高くあげるだけに終わるのではなく、イエスのことばに焦点が
向くようでもある。
とにかく、我々が立つべき立ち位置は、「キリストのもと」「主である神のもと」である。 それを
基本、基準として、人には 様々なときに その人が立つべき立ち位置というのがある。 いず
れにしても神が一人一人に定められた立ち位置にとどまることが大切である。(めんどり通信
/2015年10月11日。神が定められた立ち位置について参照) そして、自分の願いや期待を
持ったとしても、それらに執着せず、「主と主のことば」「主のみこころ」を最優先することがで
きるような心に準備しておくことが必要である。 そのためにも、、日々、信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから目を離さないで、十字架のもとに自分を置き、神に依り頼むことをして
いきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 27:4
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
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