めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年2月28日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
いやしや悪霊の解放などの神の恵みを受けた後の信仰の継続について:中風の人のいやしなどから思考


★新約聖書 コリント人への手紙 第一 13:13
   こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれている
   のは愛です。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:21
   だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
 
★新約聖書  第一テモテの手紙 6:12
    信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。
 
●3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されている中風の人のいやしについて、いろいろ推
考してみた。 マタイ9章2節〜8節、マルコ2章3節〜12節、ルカ5章17節〜26節、あらすじはこう
である。 イエスがカペナウムの家で集まってきた人々に、みことばを話しておられたとき、ひと
りの中風わずらっている人が床のまま四人の人にかつがれて来た。 群衆のためにイエスに
近づくことができなかったので、かついできた四人はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、
穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 イエスは彼らの信仰を見て、
中風の人に、「あなたの罪は赦されました。」と言われた。 
 
ところが、その場にいた律法学者たちは「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神
のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と心の中で言った。 イエスは彼らの心の思いを
知って「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしい
か。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」
言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言
われた。 すると、彼は起きて家に帰った。 それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうこと
は、かつて見たことがない。」と言って神をあがめたということである。 
 
この箇所は教会へ通っている人なら幾度となくメッセージを聞いたことがあるだろう。 中風の
人をイエスの御前まで連れて行った四人の信仰、中風の人が「起きなさい」というイエスのこと
ばに従った信仰の大切さ。 そして、それ以上に、イエスに「罪を赦す権威がある」ことに注目
することが大事などとメッセージを聞いたことのある人が多いのではないだろうか。 その通り
である。 
 
しかし、最近、この箇所のことが気になり、いろいろ推考していた。 確かに四人の信仰はすば
らしい。 ただ、人というものは「あそこの・・で拝んでもらったら病巣が消えるらしい」とか、「・・・
で御祈祷をしてもらったら病気が治った」とか聞くと、治りたいという願いが強ければ、そこへ
行ってみる人もいるであろう。 この四人のように病などで苦しんでいる家族や友だちを連れて
行く人も少なくないだろう。 この箇所の彼らも「切なる願いがある」ということとイエスの噂を聞
いていたであろうから、「イエス様のところへ行けば治る」と思っていたであろうということは、あ
る意味、我々人の側からするなら「信仰」のハードルが低くされているように思われる。 それ
ほど、主のみこころは、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が救われることを望んでく
ださっているからだ。(Uペテロ3:9、Tテモテ2:4) ただ、他へ行ったのではなく、中風の人も
四人の人もイエスのところに来たということでイエスへの「信仰」があったということである。 
 
「罪の赦し」については、ユダヤ人たちは、年に一度、大祭司が動物をほふって自分とイスラエ
ルの民の罪の贖いをした。(レビ記16章) それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前
に出ることができた。 その「罪の赦し」をイエスが宣言されたのだが、中風の人は、どう思った
だろうか? イエスが、神と同じく「罪を赦す権威」を持っておられると認識していただろうか? 
主は、あわれみ深いお方だから、律法学者たちが心の中で理屈を言わなかったとしても、中
風をいやしてくださったと思われるが、それでも もし、律法学者たちのような理屈を言う者が
いなくて、「罪の赦し」から、若干でも時間をおいてから、「起きなさい」であったなら、その間、
四人の人と中風の人のイエスへの「信仰」は、揺るがなかっただろうか? 人は、「奇跡を起こ
す(いやす)」ことは、「罪が赦された」と宣言するより難しいと考えがちだが、神の側から見れ
ば、逆である。 
 
この四人の人といやされた中風の人は、主イエスが十字架にかけられたとき、どちらの側に
立っていただろうか? 十字架につけられる前、イエスの弟子であった者たちさえ多くが、イエ
スから離れて行ったし、イエスが、ろぱの子に乗ってエルサレムに入場されたとき、「ホサナ
(今救いたまえ)」と大勢の群衆は迎え入れたが、その数日後には「十字架につけろ」と叫ぶよ
うになった。 イエスは、かわいそうにと多くの民の病をいやされ、悪霊を追い出された。 イエ
スにいやされ解放された者たちの中にも、この叫びに参加していた人たちがいたのではないだ
ろうか? 四人の人と中風の人は、十字架のとき、どちら側に立っていただろうか? 
 
こうして、いろいろ推考してみた。 この四人の人といやされた中風の人だけでなく、福音書に
書かれているイエスにいやされた人たち、悪霊から解放された人たちのことを見直してみて思
うことは、人というものは、「救い主」「真の神」に出会うことより、自分の事情、問題が解決する
ことが最優先になることの方が断然多いということである。 「罪の赦し」より「いやし」、すなわ
ち、神から見られてどうかというより、人(自分も含めて)から見てどうかの方が優先になる傾向
が強いということである。(マルコ1:32-34、1:40-45、3:7-12、5:1-20、7:31-37、8:22-26、
ルカ8:40-56、18:35-43、11:14,15、5:2-47、6:22-26、マタイ20:29-34他) 
 
その中でマタイ20章29-34節に書かれているイエスに目をあけてもらった二人の盲人は、見え
るようになってイエスに従って行った。(マルコ10:46-52と同じ記事。盲人バルテマイ) 墓場に
住んでいた悪霊につかれた男は、悪霊から解放された後、主に目を留めて「お供をしたい」
しきりに願ったが、主のことば従い、イエスのことを町中に言い広めた。(めんどり通信/2013
年1月27日。/2015年5月17日。参照) 彼らは、イエスの十字架のとき、律法学者や祭司長、
パリサイ人たちの側に立たなかったのではないだろうかと思うのだが、どうだろうか。 
 
目をあけてもらった盲人バルテマイや悪霊を追い出してもらった墓場に住んでいた男と、いや
されても解放されても律法学者たちに扇動された多くの弟子や群衆たちとの違いは、主なる神
のあわれみを受けたとき、いわば同時にイエスへの「信仰」もいただいたのではあるが、盲人
バルテマイや墓場に住んでいた男は、そのイエスへの「信仰」をもち続けたことであるのではな
いだろうか。 なぜ、イエスへの「信仰」を持ち続けることができたのか。 それは、彼らの心の
奥底には「神への愛」があった、持っていたからである。 
 
病や悪霊からの攻撃で苦しんでいたり、様々な問題で悩まされていたりしている人は、「いやさ
れたい」、「 苦しみから解放されたい」、「楽になりたい」という願いは当然、持つであろう。 し
かし、本当の解決には、心の奥底に「神への愛」「主に対する愛」が植えられているかどうかが
重要な鍵となる。 主イエス・キリストを信じて、主に寄りすがっている者、主に頼ろうと試みて
的(まと)を得た祈りをしている者にとって、病や悪霊からの攻撃で苦しんでいる期間のことを、
主は決して無駄にはなさらない。 苦しみの間、様々な人、いろいろな事がら、出来事などを通
して、主に求めている その人の自我を砕いたり肉(神に逆らう生まれながらの性質)を切り
取ったりしながら整えておられるからである。 ただ、その期間、意識してか無意識かはわから
ないが、砕かれること清められることを拒否して、矛先を自分ではない人や環境、状況に向け
る者もいる。 
 
そういう者は、整えられるどころか、ますます悪くなる恐れがある。 すなわち、神から遠ざか
る。 キリストから遠ざかる。 人が、自分であれ自分以外の人であれ、人に焦点を定めること
は、その人の幸いのために神が定められた幸いな道から逸れる危険性がある。 イエスにい
やされ、救われた人々も自分に焦点を定めていた者たちは、律法学者たちに煽動され、「十字
架につけろ」と叫ぶ側についたであろうと思う。 せっかく与えられたイエスへの「信仰」が、ご
利益信仰で終わってしまったということになる。 
 
人が、人(自分も含めて)に焦点を定めているときは、神を愛することはできないし、主が、「神
への愛」をその人の心の奥底に据えようとしても据えることができない。 聖霊が、働かれよう
にも働くことができないのである。 聖霊が働かれないということは、自分の心の奥底に隠れて
いるものを知ることができないということである。 もし、自分では、わかっている、知っていると
思っている者も、実は、本当の意味では知っていない、わかっていないことの方がほとんどで
ある。 心の奥底に隠れているものが、その人を苦しめているのだが、本当に知っていたなら
自分の力では どうしようもできないことも知るはずである。 そして、そのままでおられないは
ずである。 また、心の奥底に隠れているもの気づくことができないということは、恐ろしいこ
とである。 神の御前に、罪を積み上げているのと同じようなものであるからだ。 
 
いずれにしても、真剣に自分の内側のことに取り組んでいくべきであるということだ。 そして
の奥底に主の喜ばれないもの、自分を苦しめる隠されたものがないか主に教えてくださるよ
う求めていきたいものである。 心の奥底に「神への愛」を据えていただき、ますます焦点を
「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」に向け、留めていきたいものである。 聖霊が存
分に働かれるようにと心から願う。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4:10
   私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え
   物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 




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