めんどり通信/2015年11月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神が立てられた霊的な権威についての思考> |
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★新約聖書 エペソ人への手紙 4:11〜13
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を
牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを
させ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神
の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身た
けにまで達するためです。
★新約聖書 エペソ人への手紙 5:21
キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
★新約聖書 ローマ人への手紙 13:1〜7
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は
すべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定
めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。・・・
●ローマ人への手紙13章1節〜7節までの箇所の「権威」の原語は「エクスーシア」といい、「何
かをする能力」という意味であるという。 それが「何かをする権利」という意味で使われるよう
になり、国家に適用され、「国家の支配権」、さらに「国家の権威ある地位、またその地位にあ
る人」のことをもさすようになったという。 要は、この箇所でパウロは、「政治的に権威ある人
たち」に従いなさい、と言っているのだという。 確かに、ペテロも「人の立てたすべての制
度に、主のゆえに従いなさい。(Tペテロ2:13)」と言っている。 当時の政治状況などから、ま
た、世で生きている以上、そういう権威に従わなくてはならないことを神はご存知の上で、我々
に与えられたことばであると思われる。 ただし、主イエス・キリストを信じる者はやみくもに従う
のではなく、「主のゆえに」を忘れてはならない。 「主のゆえに」を、「主にあって」、「主を最優
先した上で」、「主の導きによって」などと言い替えることができると思われるが、それが重要で
ある。 そうでないと、主から離れてしまう危険性があるからだ。
さて、「権威」というとき、そういう地上における権威のほかに、神が立てられた「霊的な権威」
がある。 聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるために、キリス
トご自身が使徒、預言者、伝道者、牧師、教師をお立てになったとパウロは言っている。(エペ
ソ4:11-13) このことにおいても「神が立てられた」「神によって立てられた」が重要である。
徹底的に「神が立てられた霊的な権威」に従ったダビデの場合。 イスラエルの初代王として
サウルが神によって立てられた。 しかし、サウル王は不従順により、神に退けられ、神はダ
ビデを選ばれたが、公にイスラエルの王として立つには、、ある程度、時間を要した。 その間
は、ダビデにとって神からの訓練試練、試しの時となった。 その中で、ダビデは「神が立てら
れた霊的権威」、すなわち「神の権威」に徹底的に従った。 サウル王から追われ命を狙われ
ていたとき、二度もサウル王を殺すチャンスがあるも、手を出さなかった。 すでに王としての
神から油注ぎを受けていたが、公に王となることを延期してでも、「神に立てられた霊的権威」
を尊ぶ、すなわち「神の権威に従う」ことを選んだ。(Tサムエル24章、26章) それは、立てら
れた人にへりくだるということ以上に、主の御前にへりくだることであったからだ。(Tサムエル
15:22、イザヤ66:2) ダビデのそこを神は見ておられたと思われる。
また、ダビデが徹底的に、「主の御心に聞き従うこと」「神に立てられた霊的権威」すなわち「神
の権威」に服することができたのは、神がダビデを神の祝福と恵みのご計画に組み込んでくだ
さっておられたからだと思われる。 ダビデのように生涯を終えた者は、そのようにわかるが、
まだ途上の我々においては、最期までダビデのように徹底できるかどうかは わからない。 し
かし、そのように真に取り組むことをしているかどうかを神は見ておられると思われる。 また、
神が主を信じる者に与えておられる神からの試しの中で、徹底的に「神に立てられた霊的権
威」を尊んでいるか、すなわち「神の権威に従っている」かを見ておられると思われる。
確かにダビデは公に王として立った後に、罪を犯した。(Uサムエル11章) また、客観的に人
の目から見ると、ダビデは父親として子どもをちゃんと躾(しつ)けていなかったから、子どもの
ことで、いろいろな問題が起きたのだとか、子どもに対して甘いし間違っている、理不尽なこと
が起きても何も対処しない、潔(いさぎよ)さがないなどと言われることが多いようだが、それで
も、神はそれらに対して責めておられない。 むしろ、ダビデがすることを、すべて「良し」とまで
はいかなくても、敢えて赦されて(許されて)いたように思える。(T列王記15:5 ) (ダビデの躾
(しつけ)に関しては下記のめんどり通信を参照)
ダビデと同じように、主を信じている人の過程が、他の人から見ると、「間違っている、曖昧で
ある、愚かである」と判断されるようなことがある。 しかし、もし ある人が、ダビデと同じように
徹底して「神に立てられた霊的権威」を尊び、「神の権威に従っていた」なら、そういう間違った
ことと見られるようなことも神のご計画の中にあったということである。 その場合は、間違って
いたと思われるような事がらを通して、その人が砕かれて大きく変えられている。 主は、ご自
身が選ばれた者が、傍から見て失敗、愚かと思われるようなことさえ無駄にはなさらないから
である。(めんどり通信/2010年2月21日<ダビデの生涯から学ぶ>参照)
著者の場合。 明確にキリストへの信仰に立った時から、知人や友だちが救われてほしいと福
音を伝え、その人たちを牧師に会わせていた。 そのうち、当時の教会の牧師から牧師訓練
を教会で受けるようになった。 当時、次々と人を教会に連れて行ったが、そのとき聖霊の導
きや、主のみわざと思われるようなことをいろいろ体験した。 当時の婦人牧師は、そのように
なるのは、牧師の権威の下にいるからであると釘を刺すように言われたが、その婦人牧師の
その言葉の動機には首をかしげるものがあった。 しかし、その言葉は、今でもその通りであ
ると思っている。 すべてとは言わないが、多くの霊の祝福など霊的なものは縦の流れで来る
と著者は思っている。 教会では、牧師が言われることは、主イエスが言われることと同じとい
うように教えられていたし、そのように受け取っていた。 「神が立てられた霊的権威」に従うと
いうことは重要なことであると受け取っていたが、今でもそのように受け取っている。 著者は、
とにかく主に喜ばれる者になりたかったし、それが著者の第一の願いだった。 そのことは今
も変わりない。
ところが、だんだん、キリストにあって自分の頭で考えることができなくなり、牧師の言葉を待っ
てばかりいた。 当時の牧師は、信者や指導している教役者を「マインドコントロールして支配
してやろう」などと思っておらず、何とかして彼らを変えなければと、熱心であるあまり、強制的
になっていたと思われる。 しかし、結果的に著者はマインドコントロールにかかった状態に
なってしまった。 牧師が言われることを一生懸命、聞き入れて従おうとするが、牧師から見た
ら、「従っていない」と言われ、叱られてばかりで落ち込む日々が続き、浮上できなかった。
「信者は家族を持っていいが、教役者は肉の家族を捨てて、この教会の教役者たちはキリスト
にあっての家族になる必要がある。」と言われていたが、その言葉さえも受け入れていた。 し
かし、牧師の気に入るようにはできなかったようだ。 それは、聖霊の導きと守りの中にあった
から、牧師の気に入るようにはできなかったということが今ならわかるが、当時はそのようには
考えられず、ただただ、できない自分を責め、苦しんだ。
そのような著者を、主は不思議な方法でその教会から引き出してくださった。 マインドコント
ロールにかかっていた著者だったので、役に立たない著者を教会から追い出されるという形で
引き出してくださった。 ところが、人間不信、クリスチャン不信になった。 祈りに祈っていくう
ちに、主がマインドコントロールからも完全に解放してくださり、教会を追い出されたことで、自
分のどこが間違っていたのか、正しかったことは何か、・・・など祈っていくうちに、教会を追い
出されたことは、著者にとって幸いであったこと、教会で苦しんできたことは、著者の自我が砕
かれ、肉が切り取られるために主が大いに用いてくださったこと、当時の牧師の間違っていた
ところ、・・・などを主が教えてくださった。
その後、長い年月の間に、ますます、いろいろな体験を通され変えられていき、主との深い交
わりへと入らせていただくようになった。 もし、マインドコントロールにかからなかったなら、当
時の教会から追い出されなかったなら、今日の著者はないと思う。 また、人間不信、クリス
チャン不信にならなかったなら、クリスチャンとの交わりが欲しくて人恋しさで別の教会へと
走っていったであろうと思う。 当時、所属していた教会で日本のいろいろな教会の裏事情や
実情を聞いていたし実際見てきた。 またイスラエルへ行き、聖会へ行って、有名と言われる
牧師たちをこの目で見、その集会に参加しメッセージを聞いてきた。
そして、思うこと。 それらの一つ一つの体験、経験の中には、人から見たら間違った判断を
し、曖昧な態度を取り、愚かさが前面に出ていると思われることがある。 それなのに主は、よ
くぞ憐れんでくださったと人から言われるし、自分もそのように思っていた。 しかし、その後、
尚も様々なことを体験させていただき祈っていくうち、それらの苦い経験の中で、主は著者が
表面はどうであれ、牧師が言われる言葉を行おうとし教えられる聖書のみことばを実践したり
と徹底的に「神が立てられた霊的権威」と「主のみことば」に従おうとしていたところを見ておら
れたのではないかということを思うようになった。 たとえ、牧師が間違ったことを教えていて
も、それさえ主は益にしてくださることなどをダビデの生涯を学んでいるとき、尚、確信した。
そして、今までの人生、幸いな神のご計画の中に入れてくださっておられたから、今までの過
程のいろいろな出来事(傍から見て良いと思われることも悪いと思われることも)を、何一つ無
駄にされず、益にしてくださっておられると痛感している。 だからと言って安堵してどっかり座
り込んで居眠りするのではなく、主から目を離さないことに取り組み、ますます主との交わりを
深くすることに取り組んでいる。
現在、まだ途上の主によって選ばれている一人一人には、その人に応じて、主はご計画を
持っていてくださり、その人の人生に神が介入される。 ただ、「神と神のことば」「主と主のみ
こころ」を拒否し続けたり、「神に立てられた霊的権威」、「神の権威」を軽んじたりして選びから
はずれないようにと願う。 最終的なことは、その人の人生が終わった時に明確にわかるであ
ろうが、この地上にある間に、主に喜ばれる者となって天の御国を自分にとって確かなものと
したいものである。 そのためにも、「上からの霊的な恵みと祝福」を得られるように、とにかく
「神が立てられた霊的権威」、すなわち「神の権威」にへりくだりたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、
いっさいの権威が与えられています。
★めんどり通信/2014年9月14日<ダビデの息子、四男アドニヤに対する躾(しつけ)から思考
>。めんどり通信/2014年9月21日<人に応じてその時その時にすべきことがある。じっと耐え
ることもすべきことの一つ:ダビデが罪を犯した後を思考>
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