めんどり通信/2015年11月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神が選ばれた者の中には、悪霊の影響を受けて苦しむことが砕かれることになっている者がいる:墓場に住んでいた悪霊につかれた男とマグダラのマリヤから思考> |
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★旧約聖書 詩篇 34:18
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
●今まで「めんどり通信」の中でも、自我が砕かれること、肉(生れながらの性質)が切り取ら
れることの必要性を書いてきたが、砕かれようにも悪霊の影響によって自分の意思(意志)を
正しく用いることが出来づらい人はどうなるのかを思考してみた。 たとえば、悪霊の影響に
よって精神を患っており、自分の意思(意志)を正しくコントロールできない人、その中には、完
全に悪霊に主導権を取られている人もいる。 そのような人たちの中にも神に選ばれている人
たちがいる可能性は大いにある。 そのような人たちの自我などの砕きはどうなのか、というこ
とを思考してみる。
通常「病」というと、身体の病や精神的な病があるが、神は、人がどのような「病」でもいやさ
れ、解放されて平安になり、正しく主に従って歩むことを望んでおられる。 特に、主に従って
行くのに妨げる「病」を神はいやしたいと願ってくださっておられる。 「病」には、個人の罪から
くるもの、生理的なことからくるもの、不節制(暴飲暴食)など欲からくるもの・・・と様々ある。
ただ、「病」の中には、悪しき霊の影響によるものも結構ある。 神が選ばれている者の中で、
悪霊の影響や悪霊からの攻撃を受けての「病」で苦しむ者もいる。 その苦しむ期間の短い
人、長い人と、これまた様々である。 その一人一人に神のご計画があるからだと思われる。
新約聖書の登場人物のゲラサ人の地で墓場に住んでいた悪霊につかれた男の場合。(マルコ
5章、ルカ8章、マタイ8章) この男の詳細については<めんどり通信/2013年1月27日。墓場
に住んでいた悪霊につかれた男からの学びの中の一つ「願い」><めんどり通信/2015年5月
17日。なぜ、心の奥底にあるものが砕かれ、清められなければならないのかについての思考
>も参照してほしい。
この悪霊につかれた男は、自分から悪霊を追い出してくれるようイエスに願ったのではなかっ
た。 イエスに出会ったとき、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというので
すか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」と言ったが、それは
男を支配していた悪霊レギオンの言葉だった。 男は自ら助けを求めることができないほど悪
霊にがんじがらめにされていた。 ルカ8章29節に「汚れた霊が何回となくこの人を捕えたの
で、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊に
よって荒野に追いやられていた。 彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のから
だを傷つけていた。」と書かれている。 このところから、彼は無理矢理、悪霊に捕えられ、悪
霊によって叫ばざるを得ない状態だった。 しかし、その叫びの奥には、助けを求めた彼の真
の叫びが聞こえてくるようで、悲哀さが伝わってくる。 また、「石で自分のからだを傷つけて」
平安なわけはない。 地獄のような苦しみを表わしているかのようだ。
ゲラサ人の地は、異邦人が住んでいた地域だったので、この男も異邦人だったと思われる
が、もしかしたらイエスは、この男を救うためにゲラサ人の地に行かれたのかもしれない。(ル
カ19:10) イエスは、その男から悪霊レギオン(大ぜい)を追い出された。 この男が、どれほ
どの期間、悪霊につかれていたのかは わからないが、悪霊から解放されるや否や、まず最
初に願ったこと、しかも しきりに願ったことは、イエスのお供をしたいということだった。
しかし、イエスは男に「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大
きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。(マルコ5:19)」
と言われた。 男は、自分の願いを却下し、イエスの語られた「ことば」に従い、イエスが自分に
どんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。 彼が主のこ
とを話す時、聖霊が存分に働かれたと思われる。 これほど素直に「主のことば」を最優先して
従うことができたのは、彼が苦しんでいた間、彼の自我が砕かれ、肉が切り取られていたから
ではないだろうか。 だから、悪霊から解放されたときに、主が与えてくださった「信仰」を心の
奥にしっかりと受け留めて、主を最優先して主に従うことができたのであろう。
当時、イエスに病をいやされた者、悪霊から解放された者は大ぜいいた。 しかし、ほとんど皆
が皆、イエスを裏切り十字架につけることに賛成した。 彼らも病で苦しみ、悪霊に縛られて苦
しんだはずだが、自我が砕かれておらず、肉が切り取られていなかったので、癒された時、解
放された時、主に感謝こそすれど、「主のことば」「主への信仰」を心の奥に受け留めることが
できなかったのだろう。 彼らにとっては、癒されたこと、解放されたことが最優先事だったの
で、いやしてくださった方、解放してくださった主に注目せず、主を最優先しなかった。 だか
ら、祭司長や律法学者たちの扇動に乗ったのだと思われる。
さて、マグダラのマリヤの場合。 マグダラのマリヤについて聖書からの情報は少ない。 七つ
の悪霊を追い出してもらったこと、十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを最後まで見守った
こと、週の初めの日の早朝、墓に行ったこと、イエスの復活のことを他の弟子たちに伝えるよう
に御使いから言われたこと、復活の主の顕現を一番最初に受けたことである。(マタイ27、28
章、マルコ15、16章、ルカ8:2,24:10、ヨハネ福19,20章) マグダラのマリヤは、どれほどの期
間、悪霊に支配されていたのか、どのような悪霊の影響を受けていたのか(身体の病なのか
精神を患わすような病なのかなど)わからないが、苦しんだことは確かであろう。 その苦しみ
は、悪霊につかれて墓場に住んでいた男と同じように想像を絶するものであったと思われる。
しかし、その期間を経過する過程で、主に従うことができるよう整えられていたと推測できる。
整えられるというのは、いわば自我が砕かれ、肉が切り取られることである。 そうして「信仰」
と「霊」が成長していく。 マリヤは、悪霊にやられていたとき、相当な苦しみであったと思われ
るが、その苦しんだことが結果的には、自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取ら
れることになったと思われる。 だから、七つの悪霊を追い出してもらってからのマグダラのマ
リヤは、主が与えてくださった「信仰」を心の奥にしっかりと受け留めて、常に主を最優先し、主
を心底、愛することができ、主の喜ばれる従いができたのであろう。 マグダラのマリヤは、主
がよみがえられた時、一番最初にイエスの顕現を体験したが、砕かれていたからこそ、今後、
肉眼でイエスを見ることができなくても、イエスを信じる者はだれでも、常にイエスと親しく交わ
り、つながることができるという復活の福音を一番最初に託されたのではないだろうか。(ヨハ
ネ福20:1-18)
マグダラのマリヤは7つの悪霊、墓場の男はレギオン(大ぜい)という悪霊の影響を受けてい
たが、イエスによっていやされ、解放されて、主のことを伝える者にしてくださった。 マリヤと墓
場の男の共通点は、推測ではあるが、@言葉で表現し辛いくらいの苦しみであったこと、A彼
らは心の奥では助けを求めていたのではないかということ、B苦しむことが砕かれることに
なっていたであろうということ、C主から愛されていることを腹の底から実感していたから、腹
の底から、主を愛したということである。
最後の晩餐で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨ
ハネ福13:34,15:12)」とイエスは仰せられたが、イエスと共にいた弟子たちは、十分愛されて
いることを実感していたであろう。 「わたしがあなたがたを愛したように」とイエスから愛されて
いることを本当に知っている者が、互いに愛し合うことができるということである。 主から愛さ
れた、また愛されていることを知っている者が、主が喜ばれるように主を愛し、人を愛すること
ができるということである。 「知っている」ということは、頭(知識、知恵)で知るのではなく、実
際的な知り方、すなわち「実感すること」「実感し続けること」である。
この男の場合、外側は人と意思の疎通ができなかったが、マリヤもその恐れがあったかもしれ
ない。 だから、たとえ、「信仰」を働かせるのが難しい病の者であったとしても、墓場の男のよ
うに人とまともに意思の疎通ができないような病の者であったとしても、そのような者が心の
奥、霊で叫んでいるかもしれないということを覚えておきたい。 そして、そのような者の中に
も、神が選ばれている者がいるということも知っておきたいものである。 神は、そのような者
の苦しみを、決して無駄には なさらない。 もし、我々の近しい者たちの中に、そのように悪し
き霊の影響を受けていたり、悪霊の攻撃による病で苦しんでいる者がいるならば、我々は希
望をもって祈っていくべきであろう。
結局、どのような人であっても、真に主に従って行こうとするなら、主に喜ばれる者となるには、
自我が砕かれ、肉が切り取られながら、「信仰」と「霊」が成長していかなければならないという
ことである。 主は、人の心の奥底にある本音、本心を見られているということである。 人は、
自分の心の奥に、どんな「思い」「考え」が潜んでいるのか、案外、気づいていない人が多いこ
とも事実である。 また、それを、意識するしないにかかわらず、主が喜ばれない「思い」「考
え」をしっかり自分で握り、悪しき霊がそれに加担して、その握る力が強くなっているということ
もあり得ることだ。 いずれにしても、
日々、真に心から主の御前にへりくだり、主イエス・キリ
ストから目を離さず、キリストとの交わりを深くしていきたいものである。 そして心の奥底にあ
る主の喜ばれないものを教えていただき、変えていただきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
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