めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年9月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<すべてをゆだね切った祈りについて:バラムから思考>


★旧約聖書 箴言 16:13
   正しいことばは王たちの喜び。まっすぐ(正しい、正直)に語る者は愛される。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 8:17
   隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また
   現われないものはありません。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
   り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
●主イエス・キリストを信じた者たちが することは「祈り」である。 通常、祈る時、ほとんどの
人は心から祈っているであろう。 祈りの内容も、主への感謝があり、ほめたたえがあり、願い
があり、尋ねがある。 ここで、我々がしっかり知っておかなければならないことは、祈る者の
心の態度、すなわち、心の底から絞り出すような、いわば、正直に、真実に祈ることが重要で
あるということだ。 また、祈った結果が、自分の願ったこと、思っていること、考えていることと
違っていても、主の答えを受け入れ従う決心と意思を持って祈るということである。 
 
そのようなことは重々わかっているという者がほとんどかもしれないが、案外、口では「正直
に、真実に祈っている、結果を主にゆだね切って祈っている。」と言いながら、自分の期待通り
の祈りの答えがないと、信仰が萎(な)えたり、祈ることがおろそかになったり、祈りに期待しな
くなったり、中には主から離れたりする者もいる。 このように、口で言っていることと実際が違
うということがあり得ることだ。 なぜ、違ってくるのか? その原因の一つに自分の心の奥深く
にある「願い」「思い」「考え」が、でんと居座っていることがあげられる。 そのことを聖書から
見てみる。
 
旧約聖書 民数記22章〜24章に登場してくるバラムから思考してみる。 バラムはイスラエル
人ではない。 異教の国アラムの預言者であり占い師であるが、信仰は別として、神と交わり
を持てていたようである。 しかし、結論から言うと、バラムはイスラエルをつまずかせ、不品行
を行わせた結果、殺された。 だから、本当に主なる神を信じていたとは言えない。(黙示録
2:14、ヨシュア13:22) <バラムに関して参照:めんどり通信/2014年4月13日
 
バラムは、当時、モアブの王バラクからイスラエルをのろうようにとの依頼を受けた。 占いに
通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちがバラムのところに来たと書かれている
が、当時、占いやのろいのことばには魔術的な働きがあると信じられていたという。 その使
者たちが来て、イスラエルの民を呪ってほしいとの依頼を聞いて、彼らを泊まらせ、主に伺って
みると言ったことは、問題ありと思われる。 
 
当然、主は「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。
(民数記22:12)」と命じられた。 よく聖書を見てみると、バラムは、主なる神に対して「主」と言
い、あたかも自分は、主なる神の「しもべ」であって、主と自分の交わり、個人的な交わりのあ
る者のように呼んでいる。 しかし、民数記22章〜24章で主はバラムに語られるとき、「神はバ
ラムに言われた」などと、ただ単に「神」として語っておられる。 それは、神の側からすれば、
一対一の個人的、人格的な交わりを持つ親しい関係ではないということを示しておられるの
かもしれない。
 
ただ、民数記23章5節、16節では「主はバラムの口にことばを置き」と、「主」と語られている。 
それは、バラクの要望に応えて出かけたバラムに、イスラエルをのろうことばではなく、祝福
することばを言わせるためであると思われる。 申命記23章5節「あなたの神、主はバラムに
耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられ
た。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」と書かれている。
 
さて、バラムは、バラクの使者たちに一度は断ったが、前回より大人数で、しかも位の高いつ
かさ達であるうえ、多くの銀や金を提供すると申し出があると、再び、主に伺いを立てている。 
明らかに、バラムの心の奥には、バラクの要求に応えて金銀を手に入れたいという「思い」「願
い」があったことが伺える。 バラムの「思い」「願い」は、自分で気づいていたのか気づいてい
なかったのかは、わからないが、バラムの心の奥底に、でんと居座っていたようである。 い
や、居座らせていたという方が正確かもしれない。 
 
なぜなら、ろばに乗ってバラクのところへ出かける途中、主の使いに行く手を阻まれ、ものを言
うことのないろばが、人間の声でものを言い、主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふ
さがっているのを見ても、最初に命じられた主のみこころのことば「一緒に行ってはならない」
を思い出して、悔い改めて へりくだるわけでもなかったからだ。 明らかに、神はあわれみを
もってバラムが自分の本心に気づくように示してくださっている。 そのことの現われが、ろば
はバラムに不当に打たれながらでもバラムを振り落とさなかったことである。このロバは神が
支配されていたと思われるからだ。 ロバは、バラムを乗せたままうずくまった。 
 
バラムを背に乗せたロバは、主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているの
を見て避けて、バラムが殺されることから回避させたが、そのバラムから打たれたので、ロバ
はものを言った。 主の使いもバラムに「あなたの道がわたしとは反対に向いていた」と言った
が、バラムが言った言葉は、「私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを
知りませんでした。」と認めながらも、「今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返し
ます。」であった。 これらのことからも、バラムは、自分の深層部にあった「願い」「思い」を、
神が「否」とされていることに気づいたはずである。 
 
主なる神は、人の心の中、それも心の奥底にある「願い」「思い」「考え」を見ておられる。 ま
た、人が、それらを捨てる決意、意思があるのかどうかを見ておられる。 バラムが、二度目
に伺いを立てたとき、たとえ、一度目と同じように、「一緒に行ってはいけない。」と神が命じら
れたとしても、バラムは心の奥底にある「願い」「思い」「考え」を握ったまま、表面上だけ主に
従ったであろう。 主なる神は、どのような者であっても人が、心からご自身の御言葉、みここ
ろに従うことを望んでおられる。 だから、バラムが、心の奥底にある肉の「願い」「思い」「考
え」を離す機会を与えて下さるために、二度目はバラクのところへ行くことを許されたのではな
いだろうか。 心の奥に居座った「願い」「思い」を、本当に離す決意、意思があるのかどうかと
問われたときは、ある意味、神の試しであるが、それはまた、砕かれるチャンスの時でもある。 
 
バラムの場合は、「今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」という言葉か
ら、そのチャンスの時に正しく応えなかったと言えよう。 主なる神が、バラムの肉からの「願
い」「思い」を捨てることを迫ってくださっても、離さなかった。 神は、このような形でバラムに働
いてくださったのであるが、バラムは、その神のあわれみを、無下にした。 結果、イスラエル
人を罪に陥らせ、殺されてしまった。(民数記25:1-18、Tペテロ5:8、民数記31:8-16) バラ
ムのように捨てない、離さない神が否とされる肉の「願い」「思い」は、ほえたけるししのように、
食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔、悪しき霊が働くための窓口となる
危険性がある。
 
このように心の奥底にあるもの表面に言動として現れる。 そして、その言動は、心の奥底
にあるものの影響を受けている。 結局、心の深層部にある肉のもの取り除かれ、清められ
る必要があるということだ。 このことは、「祈る」ことにおいても同様である。 祈る(願う、尋ね
る)時、主が答えてくださることを無条件で受け入れる決意と意思をもって祈るのである。 ま
た、祈った後、主が答えてくださり、内容によっては、主の答えを実行(実践)しなければならな
いときがある。 そのときに、心の奥底にある肉からの「願い」「思い」「考え」を捨てる、離す
意、意思が必要である。 そして、主によりすがりながら、実行するのである。 そのとき聖霊
が助けてくださる。 それが、イエスが仰せられた、「自分を捨てる」ことであり、「自分の十字架
を負う」ことである。(マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23) 
 
そして、そのようにする者は、自我が砕かれ、肉が切り取られるのである。 もちろん、一度に 
すべて全部が変わるわけではない。 主は、一人一人に応じて、その時の一人一人の内容に
応じて、徐々に変えてくださるものである。 大きく砕かれて大きく変わる場合もあれば、少しだ
け砕かれて少しだけ変わる場合がありと様々である。 すべて、主が一人一人に応じてご計画
されている通りに導いてくださるであろう。 主なる神は、その人の純粋で正直な心からの祈り
に答えてくださり、その人も主を知ることが徐々に深くなる。 そうして、主と自分の一対一の交
わり確かなものになってくる。 そして、主につながり続けることが、また一歩、前進する。 
 
この民数記22章〜24章のバラムの箇所では、バラムのことが主要なことではない。 イスラエ
ルの民ののろいが祝福に変えられること、このことが主要なことだと思われる。 しかし、バラ
ムのことが目立っている。 ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言うなどは不思議
なことである。 上記に書いた申命記23章5節のことば通り、まず主は、イスラエルを愛してお
られるから、イスラエルが主要なのである。 それでも、異教の国のひとりの占い師を悔い改
めに導き、砕こうと主なる神が働かれているのを見ると、すべてを主にゆだね切り、どのような
主の答え、みこころでも素直に受け取って従うことができるために取り組んでいる者、真に肉
からの「願い」「思い」「考え」を捨てる、離すこと、すなわち「自分を捨てる」「自分の十字架を負
う」ことに取り組んでいる者に、主が働かれないわけはない。 
 
主に尋ね祈り求めても 祈りの答えを自分の願っている通りになってほしいと自分の心の底で
握ったままでいると、いずれ、その自分の「願い「思い」は噴火して、それを押し通す時が来る。
バラムが金銭欲に対する「願い」「思い」を押し通したように。 心の奥に居座った「願い」「思
い」を、本当に離す決意、意思があるのかどうかとバラムに尋ねたなら、バラムは、離すつもり
はなかったと答えたかもしれない。 どこまでも自分の「願い」「思い」「考え」が最優先すること
を自分の意志でやめなかったからである。 どうするかの選択は、人に任されている。
 
主イエス・キリストを信じた者たちが、絶えずすべきことは祈ることであるが、自分自身を主に
ゆだね切って、すなわち自分を捨て、自分の十字架を負うて心から祈りたいものである。 主
の答えが、行動を必要としているなら、また祈りつつ、従い行っていきたいものである。 その
ためにも、心の奥に潜んでいる神に良しとされない「願い」「思い」「考え」がないかどうか、自分
を吟味することは大切なことである。 主の御前にへりくだって、教えていただくための「祈り」
もしていきたいものである。 
 
★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
   イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
   て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 
 



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