めんどり通信/2015年7月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神の御前に立った時、どのような応答をするのかを主は問われていることについて思考> |
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★旧約聖書 箴言 16:2
人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。
★新約聖書 ヤコブの手紙 1:21
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すな
おに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
●多くの日本人は、本音と建前を使い分けているが、神の御前では、「本音」「本心」が問われ
る。 また、いかに建前を上手く使って生きてきた要領の良い者も、ひとたび神の御前に立つ
なら、「本音」「本心」ばかりか、その人のすべてがさらけ出される。 へブル人への手紙4章13
節には「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸
であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」と書かれている。
人が神の御前に立ったとき、どのような態度、どのような応答をするのかを主は問われてい
る。 真実な神であり、永遠のいのちであるイエスがこの地上におられたとき、イエスの御前で
へりくだった者、高ぶった者と 主への態度が正反対の者たちがいた。(Tヨハネ5:20) ル
カによる福音書19章に書かれている取税人のかしらザアカイとイエスから「忌わしいものだ。」
と言われた律法学者やパリサイ人である。(マタイ23章) ザアカイは相当な嫌われ者で、置か
れていた地位を利用して私服を肥やしていたような者であった。 ところが、イエスに出会い
「ザアカイ。・・・きょうは、あなたの家に泊まることにしてある。」と声をかけてくださったとき、素
直に喜び家にお迎えした。 そして、自分の財産の半分は貧しい人に施し、不正の取立てをし
た分は4倍にして返します、と真実な悔い改めをした。 ザアカイも気づいていなかった「本音」
「本心」は、主が「良し」とされるもの、すなわちへりくだったものだったということだ。
一方、律法学者やパリサイ人は、厳格に律法を守ることを目指していた。 民にも支持され、
「汚れ」は外から移ってくるからと、外側のことに徹底的に熱心だった。 ところが、イエスから
は、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」と非難された。 イエスから詳細に
指摘を受けても、彼らは、自分の内側を見るどころか、イエスを妬み憎んだ。 彼らの「本音」
「本心」は、「強奪と邪悪な思い」で主が「否」とされ、何よりも主イエスに出会っても、イエスから
指摘されても悔い改めようとしない頑(かたく)なさを「否」とされた。 まことに、人はうわべを見
るが、主は心を見るということだ。(Tサムエル16:7) (めんどり通信/2010年3月7日。めんど
り通信/2012年7月8日を参照)
今日の場合、神である主ご自身を直接肉眼で見ることはできない。 しかし、肉眼で見えなくて
も主は実在されておられ、聖霊も実在されておられることは曲げようのない事実である。 そし
て「主のことば」がある。 神のことばである聖書があり、牧会者など人を通して、出来事などを
通して、状況環境を通してなどと様々な方法で今も尚、主は求める者に語られる「主のことば」
がある。 だから、主を信じている者には、「主のことば」に対して、どのような態度、どのような
応答をするのかが問われていると思われる。
ただ、、聖書のことばの中から、与えられたという「ことば」が、主から本当に その人に与えら
れた「主のことば」であるのかどうか、牧会者など人から聞いたことばが、主が本当に その人
に語られ与えられた「主のことば」なのかどうか、出来事を通して、状況環境を通して主が「こと
ば」を語られた、与えられたと思っても、主が本当に その人に語られ与えられた「主のことば」
なのかどうかは、吟味の必要がある場合が多い。 日々の生活に励みを与えられたり・・など
元気が出るための「ことば」であるなら、そうそう吟味は必要ではないかもしれない。 それらの
「ことば」によって元気が出て前向きに進んで行けることは主も望まれているであろう。 しか
し、預言的な「ことば」や明確にその人が砕かれるため、人の心の奥に潜んでいることに関して
の「ことば」などは、主からのことばなのか思い込みなのか、悪しき霊からの偽りのことばなの
かを吟味することが必要になってくる場合も多い。 「主のことば」を安易に捉(とら)えてはいけ
ないからだ。
あまりにも「人間の思い込み」「人間の考え」「人間の解釈」など、人の側に問題が多いことも事
実だからである。 安易に捉えて、主のご計画や主のみこころが軽いものになってはいけない
からだ。 人が軽いものにする時、そこが悪しき霊の付け込む隙になり得ることがある。 ま
た、一旦、確かな「主のことば」が与えられたなら、その「主のことば」を心の深くにしっかりと受
け留めることは、与えられた者がすべきことであり、責任でもある。 しっかりと主に深くつな
がった者であるなら心配はないのだが・・・。 霊の見破りができる、主に愛され主を愛している
者であるなら心配はないのだが・・・。 あまりにも、そのような者が少ないのも事実である。
また、「神の御前に立つ」ことで、すべての者が該当するのが、人の死後である。 「人間に
は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とへブル人への手紙9章27節に
書かれている。 すべての人は死後、神の御前に立つ。
主イエス・キリストを受け入れている
受け入れていないにかかわらず、何かの宗教を行なっている行なっていないなどにもかかわら
ず、このことを信じる信じないにもかかわらず、すべての人が死後、神の御前に立つ。
すべての人が神の御前に立つことについて、少し参考に考えることができることで臨死体験の
ことがある。 約20年ほど前、人間が死ぬことについて、世界中の臨死体験をした人をリポー
トしてNHKドキュメンタリー番組としてテレビで放映されたことがあった。 出版物も出され読ん
だことがある。 臨死体験者の共通していたことは、文化や宗教の違いはあっても、その人の
人生が走馬灯のように映し出されたことだという。 誰も皆、「忘れていた」、「そんなこと言った
覚えはない」、「そんなことした?」、「そんなことを思ったことなどないはずだ」などとの言い逃
れができないほど明確に映し出されるという。 そして、更に共通していたことは、霊魂は、肉
体が終わっても存続すること。 肉体がなくなる(死ぬ)ことは、無になるのでも、何もわからな
くなるのでもないということ。 肉眼で見えるものではない、何か偉大な存在する者がおられる
ということなどであったという。
臨死体験からしても 聖書からしても、結局、神の御前に立って、走馬灯のように自分の行なっ
てきたこと(忘れていたこともすべて)、思ったこと、言ったこと、…など認めざるをえないほど、
はっきりと思い出され、そのことについて、「あの時は、ああだったから…」「…こういう理由で仕
方がなかった」とか申し開きをしても、言い訳を主張するだけで悔い改める者がいるのかどう
か?(ローマ14:12) その言い訳こそが、その人の「本音」「本心」であり、それは、突然に生ま
れたわけではない。 地上生活の中で、親譲りの性質だけでなく、いろいろな人々と接し、様々
な経験を通して、思い、感じ、考えて自ら作り上げてきたものである。 世の常識を基準で考え
たり、時には聖書の基準、神の御心に照らし合わせながら考えたりしながらも、その最終的判
断を自分で決めて、知ってか知らずか、心の奥に仕舞い込んできたものである。 心の奥に仕
舞い込んだものが、主が「良し」とされるものであるのならいいのだが・・・。
しかし、主は、その人の「本音」「本心」を、すでに人が生きているときから、ご存知である。 人
の「本音」「本心」は、自らが明確に意識して自分でしっかり持っているものもあるが、案外、無
意識に奥へ奥へと仕舞い込んで、いつの間にか、自分自身も忘れているということがある。
だからといって、「本音」「本心」について、その人に責任がないわけではない。 言動すると
き、その「本音」「本心」から、言葉が出てきている、行動をとっているという場合が多いから
だ。 それを、その人自身が気づいていないのは厄介なことであるが、この地上にいる間に、
主は、それを一人一人に応じてわかるように知らせてくださっていると思われる。 なぜなら、
主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるから
だ。(Uペテロ3:9) この地上にいる間であれば、もし、自分の「本音」「本心」が主の望まれな
い、主に忌み嫌われるものであることを知って、その人が、そのことについて認め、主に寄りす
がり祈るなら、主は変えてくださるからである。
ローマ人への手紙1章19節〜25節にも、神がご自身を人に知らせておられることが書かれて
いる。 知らせてくださっていることに素直に応答しているなら、主イエス・キリストという名をそ
の時には知らなくても、真の神の臨在、実在を認めるであろう。 人間が考えた偶像を神にしな
かったであろう。 もしかしたら、正しい神を認めていた者の中には、イエス・キリストの名を聞
いたことがなかった者もいるかもしれない。 そういう人は、この地上で生きていたとき、当の
本人は神に喜ばれようとは思わなくても「良心」が神を基準に正しく働いて、死後、神の御前に
立ったとき、神の御前にへりくだり、真実な神を知って喜び、また、走馬灯のように見せられた
中のことを知り、悔い改めるということがあるのかもしれない? もちろん、このことは決して、
セカンドチャンスとは全く違うことである。
ただし、そのようなことは本当に希であろう。 なぜなら、今の世の中では、どのような形にしろ
「キリストの名」を一度も聞いたことがないという人は、ほとんど いないと思うからである。 そ
れでも 世界中を見渡せば
また、日本でも昔のことを考えれば、そういうことも有り得ないこと
ではないかもしれない。 いずれにしても、主は、人の心の奥に潜む思い、考えを見ておられる
ようだ。 本当に、人はうわべを見るが、主は心、それも心の奥底を見ておられるということ
だ。(Tサムエル16:7)
この地上生涯において、どのような形であれ、「主と主のことば」を語られ与えられた時、主の
御前に へりくだって、素直に「主と主のことば」を心の奥に受け入れたいものである。 そし
て、必ず、人に訪れる「死」、そして「死後」、神の御前に立つ時には、主への愛と感謝と喜びに
満たされたいものである。
★旧約聖書 ゼパニヤ書 2:3
主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。 主を尋ね求めよ。 義を求めよ。
柔和を求めよ。 そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
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