めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年3月7日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<偶然と思われることも神の計画の中での主の采配によることがある>



★新約聖書 ローマ人への手紙 11:36
       というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、こ
       の神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

★旧約聖書(口語訳) 歴代誌 第一 29:17
   わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。・・

ルカの福音書19章にザアカイという取税人が登場する。 あらすじはこうである。 イエスが
エルサレムに向かわれる途中、エリコに入って、町を通られた。 ここには取税人のかしらで、
ザアカイという人がいた。 当時、取税人はユダヤ人でありながらローマの手先になって同国
人から苛酷な税金を巻き上げていたので、民の憎しみを買っていた。 その上、ザアカイはそ
の立場を利用し、ローマの権力をかさに着て私腹を肥やし金持ちであった。 

イエスが町を通られるというので、人々が大勢で押し掛けた。 ザアカイも「イエスがどんな方
か見」
るため、出掛けた。 ところが大勢の群集で見ることができなかった。 そこで、いちじく
桑の木に登り、イエスが通り過ぎるのを待った。 ところがイエスはそこに来られると、ザアカイ
を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるか
ら。」
と言われた。 ザアカイは大喜びでイエスを迎えたが、それを見た人々は「あの方は罪人
のところへ行って、客となられた」
とつぶやいた。 ザアカイはイエスの前で悔い改め、イエス
「きょう、救いがこの家に来ました」と言われた、ということである。
 
さて、イエスが入られる家は恵みを受けるが、イエスは祭司の町エリコで、祭司のところに泊
まったのではなく、誰もが毛嫌いしていた取税人ザアカイの家に泊まられた。 ザアカイはイエ
スを迎え入れることによって心の中に決定的な変化が起こった。 イエスが何も言われなくて
も、イエスの存在がザアカイに罪の認識をはっきりさせた。 そして「悔い改め」がザアカイに生
まれ、イエスに従っていきたいという意味合いで、主の御心を宣言することができたのである。

人は聖霊によって罪を認識したとき、真の悔い改めへと神のご慈愛によって導かれるものであ
る。(ローマ2:4) ザアカイから見るに、真の「悔い改め」がなされたとき、私欲を持たず、純粋
に主イエス・キリストに従っていきたいという心持になれるものと思われる。  

イエスとザアカイは偶然、出会ったのではない。 イエスの方が神の計画の中でザアカイに会う
と決めておられたかのようである。 「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とい
うことばから、そのことが伺える。 主はザアカイを選ばれていた。 ザアカイが行ってきたこと
は、そうせざるを得なかった当時の事情はあるとは言え、確かに同族の民に嫌われても仕方
のないことであった。 

それでも主は祭司の家ではなく、ザアカイの家に入られた。 「人はうわべを見るが、主は心を
見る(Tサムエル16:7)」 「正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。(エレミヤ
20:12)」
と聖書に書いてあるが、ザアカイの本心、本性は神から見られて、名前の意味のごとく
「きよい、純粋」であったと思われる。 

神は人の真の心、本心、思いが純粋か正直かどうかを見られているようである。 またすでに
知っておられ、そのような者に対してご計画を持ってくださっているようである。 我々人はどう
しても外側の行いやことばなどを見て、人の基準で判断してしまいがちである。 実際、人の
心の奥底を知って、本当のその人を知る、見ることは結構、難しい。  

しかし神はすべてをご存知である。 人の心の奥底までも知っておられる。 ただ我々人は、
キリストによって初めて霊的な見方、知り方ができる。 神の基準で正しく人を知り、見ることが
できる。 その見方は主イエス・キリストから与えられるものであり、訓練を受けて、正しい霊的
な見方ができるようになるものであると思われる。 

ザアカイは主に選ばれていたと我々は知ることができるが、通常、誰が神に選ばれているかな
ど明確に知ることは難しい。 もちろん主イエス・キリストを救い主と信じて救われた者は、「神
がキリストにあって選」
んでくださったと言えるが(エペソ1:4)、信仰は最後まで全うすることが
重要である。 途中でキリストへの信仰を失うことも考えられる。 また、人から見てキリスト信
仰をしているから”良し”と思っても、神から見られたら、それは神の望んでおられるキリスト信
仰とは違うので”否”という場合も有り得る。

ユダヤ人は、「自分たちは神に選ばれた」という選民意識が強く、それが傲慢となり、選民の本
当の意味さえ失い、自分たちの考えで「神は自分たちのためにメシヤ(救い主)をつかわし、そ
のメシヤが異民族を駆逐し再びパレスチナの土に栄光と誇りを与える」と信じた。 

その傲慢な選民意識で盲目になり、神がメシヤ(救い主、キリスト)を遣わしてくださったのに、
彼らはその救い主イエスを十字架につけた。 傲慢、高ぶりは真理を見えなくする。 イエスは
言われた。 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)」 「失われ
た」
という言葉は、「滅びた」とか、「滅びつつある」という意味が含まれている。 

主は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたが
たを任命したのです(ヨハネ福15:16)」
と言われた。 しかし主イエス・キリストを信じたクリス
チャンでも失われた羊がいるようである。 当時も主イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血
を飲め」
ということばを聞いて、群集や弟子と呼ばれる人たちの中にもイエスから離れて行った
人々がいた。 当時の群集や弟子はイエス・キリストを信じ受け入れていたので、今でいうな
らクリスチャンなのである。 

神はすべてにおいてご計画を持っておられる。 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来ら
れる方、万物の支配者が「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であ
り、最後である。(黙示録 21:5,6)」
と言われた。 神の中では選別も事も終わっているのかもし
れない。 しかし、これは神のみぞ知っておられることである。 神が考えておられることは、
我々の思いをはるかに越えている。 だれにも知る由がない。 しかし、すべてが神の思うまま
になっている。

だから今、主を信じて、日々の生活の中で主に選ばれている事実や確信が与えられていると
しても、神の御前にへりくだりを維持すべきである。 主はご自身が選ばれた者を捜し救うため
に、人から見れば偶然と思えることも、実は主が采配されているということが有り得るからだ。

我々は日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリスト
との交わりをより深くしていきたいものである。 そして聖霊の流れに乗って、主の導かれるま
まを進んでいきたいものである。
 
★新約聖書  第一コリント人への手紙  2:14
       生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚か
        なことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊に
        よってわきまえるものだからです。

★旧約聖書  伝道者の書 3:14
       私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えるこ
      とも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れ
       なければならない。




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