めんどり通信/2015年7月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「備えができた」「準備ができた」と主が見なされる時、聖霊の注ぎと主に大いに用いられることがあっても高ぶらないことについての思考:使徒行伝、聖霊降誕から学ぶ> |
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★旧約聖書 詩篇 31:19
あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者の
ためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。
●先週の「めんどり通信/2015年6月28日」で「待つ」ことについて思考したが、「神の時」まで
「待った」ノアも、使徒たちもアブラハムも、神のみわざを体験した。 特にノアの場合は、奇跡
を体験すると同時に、裁きを見た。 いずれにしても、主のみわざが現われるには、それまで
に主が選んでおられる者たちが、そのみわざをへりくだって受け留めることができる備えが彼
らにできていたと思われる。 そのことを筆頭弟子ペテロで見てみる。
シモン・ペテロはガリラヤ湖で漁師をしていた。 ある時、イエスの方から「わたしについて来な
さい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われた。(マルコ1:17) イエスの「ことば」を聞くと
すぐに、網を捨て置いて従った。 その後、約3年間、イエスと寝食を共にすることになった。
その間、イエスがなさる数々の奇跡的な癒しや権威ある悪霊追い出しを目の当たりにした。
また、いつも一番近いところで主イエスから直接、教えを受けた。 群衆には許されていない
「天の御国の奥義」も直接知らされた。(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章) そして、「あなたが
たは、わたしをだれだと言いますか。」という主イエスの質問に対して、「あなたは、生ける神の
御子キリストです。」と答えられるまでに成長させてくださった。 もちろん、このことは、主が言
われたように、天の父がペテロに示してくださったから答えられたのだが、父に示されるまでに
成長させていただいたとも言えよう。(マタイ16章) しかし、その後、大きな失敗をする。 主が
十字架と復活のみわざを弟子たちに話されると、そんなことが起こるはずはありません、と主
イエスをいさめ始め、主から「下がれ。サタン。」と厳しい叱責を受けた。(マタイ16章)
変貌山で、イエスの光り輝く栄光の姿だけでなく、旧約時代のモーセとエリヤをも目撃するとい
う貴重な体験もしたが、最大の失敗をした。 それは「火の中水の中あなたに従います(ルカ2
2:33)」と言っておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、「私はあの人を知らない」と三度も繰
り返し言って、イエスを裏切ったことである。 福音書を読むと、ペテロの主イエスに対する情
熱、直情的でおっちょこちょい、自信過剰、血気盛ん、それでいて臆病な様子が窺(うかが)え
る。 主から直接、教えられた多くのことを受け入れながら、多くの体験を通して、ペテロは、多
くの失敗をし、数々のお叱りを受けた。 そうしながら、ペテロは、自我が砕かれ、肉(生まれな
がらの性質)が切り取られ、「信仰」と「霊」は徐々に成長していった。
そして、主イエスの復活後、40日の間、何度か
復活の主にお会いした。 復活の主にお会いし
た体験は、その時には変えられた部分が明確に見えてはいないが、「信仰」と「霊」は集中的に
成長していったと思われる。 更に、オリーブ山で「エルサレムを離れないで、聖霊のバプテス
マを受けるという父の約束を待ちなさい。」と主のことばを聞いたこと、昇天される主の姿を目
の当たりに見たという体験は、大きく変えられる要因になったと思われる。 昇天される姿やそ
れまでの復活の主にお会いした体験が、「主のことば」をまっすぐ心の底に受け入れることが
できるまでにペテロを変えたと言っても過言ではないだろう。 主が復活された当初は、ユダヤ
人を恐れて戸がしめてある中にいたが、40日の間の主の顕現によって、ペテロは強くされて
いったと思われる。(ヨハネ福20:19)
使徒行伝1章を読むと、エルサレムの泊まっている屋上の間で、みなで心を合わせ、祈りに専
念している様子からユダヤ人の迫害を恐れているようには感じられない。 むしろ、「主のこと
ば」(使徒1:4-8)を握っての祈りや、主が教えてくださった主の祈りを祈ることに集中している
ように感じられるのだが。(マタイ6章) そして、その中で立ち上がって欠けたユダの補充を提
案したペテロのことばには、聖書のことばの裏付けがあり、そのような知恵は、主イエスと寝食
を共にしていたときに学んだことかもしれない。 多くの失敗と数々のお叱りで自我が砕かれ肉
が切り取られて、ペテロが頭で覚えていたというより、イエスがペテロの心の奥底、霊に刻み込
んでくださった教えが、40日間の主にお会いするという集中的な「信仰」と「霊」の成長で、表わ
れてきたのかもしれない。 ペテロが語ったことばは詩編のことば(69:25,109:8)を引用してい
るからだ。 そして、「イスラエルの回復」にこだわっていたから「12」にこだわり、祈って主の導
きを求めたと思われる。 このように、ここまで変えられたから、いわば備えができたから、聖
霊降誕の時を迎えることができたのかもしれない。
聖霊を受けると途端、ペテロたちは、たちまち力づけられて、御霊が話させてくださるとおりに、
他国のことばで話しだした。 それを驚き怪しんでいる人々に、またもやペテロが代表して聖書
のことばの裏付けをもって福音を語りだした。 ペテロが語ることばを聞いて人々は心を刺さ
れ、その日、三千人ほどが弟子に加えられたという。(使徒行伝2章) その時から、一同の心
に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれたという。
聖霊が目立って働かれるようになったのである。 ある意味、聖霊が、人を通して大きく働かれ
ること、大いなる主のみわざが顕著に現われるようになることは、ペテロが言った通り、主が前
もって語られていた「主のことば」が、その通りになるということである。 ペテロが語ったことば
は、旧約聖書のヨエル書2章28〜32節である。 ペテロたち聖霊が注がれた者たちは、一人一
人に応じて主の訓練試練を通って備えができた者たちであった。 だから、聖霊がペテロたち
を用いて、多くの不思議なわざや奇蹟を行なわれても彼らは、主の御前にへりくだり続けた。
これらのことから、このときのペテロは、めんどり通信/2015年5月24日に書かれている「小さな
小さな門」、「いのちに至る門」、「狭い門」をくぐったということではないだろうか。 「狭い門」に
もいろいろ考え方があるが、ビジョンで書いた「狭い門」をペテロはくぐったのではないだろう
か。 めんどり通信/2015年5月24日に書かれているビジョンでは、薄汚れた服を着て傷ついた
小さい人が、その小さい門にたどり着いた。 その小さい門をくぐると、部屋はなく、細い道が
真っ直ぐに向こうの光に向かって延びていた。 そして、その門をくぐった人の右横には、御使
いと思われる人(?)が、その人を肩から抱くようにして倒れないように支えていてくれた。 細
い道を一人ではなく、一緒に進んでくれるという。
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と復活された
主イエスは言われたが、「いのちに至る小さくて狭い門」をくぐったペテロは、この主のことばを
絶えず、実感していたのではないだろうか。 キリストを信じたとき、「神が人のところに降りて
来てくださって、どんな時も我々一人一人と共にいてくださる。」と教会で教えてもらうが、「神が
わたしと共におられる」ことを、なかなか実感できないのではないかと思う。 何かの出来事な
どで神の愛を感じたときには、「主がわたしと共におられる」と実感できたとしても、日々の生活
に戻ると、そのような実感が持続できない者が多いのではないかと思う。
ペテロも、復活の主が「あなたがたと共にいる」と言われても、いつも自分と「主が共におられ
る」と、そこまで実感できていなかったのではないかと思われる。(使徒行伝1章前半より) し
かし、激しい聖霊の注ぎを受けてからは、確かに主が言われた通り、力を受け強くなったが、
一番ペテロを強くした要因は、ペテロが「主が共におられる」ことをいつも実感し続けていたか
らではないだろうか。 ペテロを肩から抱くようにして倒れないように支えていてくれた主、もしく
は御使いの存在を実感し続けることができたからではないだろうか。 もちろん、ペテロの歩み
は、新たにここから また始まる。 細い道ではあるが、まっすぐな道であり、倒れそうになって
も決して倒れることのない歩みである。 事実、ペテロは逆さ十字架で殉教したと言われてい
る。 まさしく栄光の中に入っていった。
このようにしてみると、一人一人、主の訓練試練を受けて砕かれ「信仰」と「霊」が成長した「備
えのできた者」「準備できた者」は、豊かに聖霊が注がれ、主に大いに用いられても、主の奇
跡や主の明確ないやしを体験しても、へりくだりを維持できるようである。 主への愛が深まっ
ており、主への感謝がきちんと絶えずささげられているようである。 福音書の時代、群衆は、
イエスがなさる奇跡を見たり、癒(いや)しを体験したり、上からの権威による悪霊の追い出し
を見たり、不思議を体験してもイエスを裏切った。 弟子と呼ばれる者たちの多くもイエスから
離れて行った。(ヨハネ福6:66) 彼らは主によって「備えられること」「準備すること」を拒んだ
のである。
「備えができた」「準備ができた」と主が見なされるのは、神のご計画されていた数々の体験を
通して、人が砕かれ、肉が切り取られて、主との交わりが深くなって、主のみこころを完全では
なくても知ることができるようになったと判断されたときであるようだ。 主がそう判断されたとき
には、人の上に聖霊の大いなる働き、主のみわざが現われて奇跡などを体験しても、その人
は決して高ぶることはないのであろう。 高ぶることができなくされているのかもしれない。 む
しろ、へりくだって受け入れ、へりくだりを続けざるを得ないくらい砕かれているのかもしれな
い。 いずれにしても、「主がそう判断された時」、「主がそう見なされる時」というのがある。
我々も「備えができた」「準備ができた」と主が見なされるために、とにかく主イエス・キリストか
ら目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、キリストにしっ
かりつながっていきたいものである。
★旧約聖書 詩篇102:13
あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの
時が来たからです。
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