めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年6月28日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「待つ」ことについて:ノア、使徒たち、アブラハム、サウルから学ぶ>



★新約聖書 へブル人への手紙 11:7
   信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れか
   しこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰
   による義を相続する者となりました。
 
★旧約聖書 イザヤ書 8:17
 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
 
「神のことば」が与えられて後、その「神のことば」がその通りになる時までの長い期間、忍
耐をもって待った人と言えば、「ノア」であろう。 ノアについて、創世記から見てみる。 ノアが
生きていた時代の様子は、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いこ
とだけに傾くのをご覧になった。地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(創世記
6:5,6)」という主のことばから伺える。 
 
主が「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」とまで、決心され宣言されたのは、外側
だけではなく、人間の心の奥底まで悪が深く染み込み蔓延していたからである。 それほど
は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 そのような中でも、ノアは、主の心にかなっ
ていた。(口語訳:主の前に恵みを得た。) それで神はノアに箱舟を造ることを仰せられた。 
ノアには、3人の息子、セム、ハム、ヤペテがいた。 子どもたちが生まれたのは、ノアが五百
歳のときだった(創世記5:32) 神は、箱舟の詳細な設計書をノアに示されたが、その壮大な
箱舟を造るのは、ノアとその家族だった。 
 
箱舟の健造期間については、120年、100年、70年かかったという考え方があるようだが、いず
れにしても長期間である。 ノアは、箱舟を造りながら、義を宣べ伝えた(Uペテロ2:5) ノア
が、洪水による神の裁きがあることの警告を伝え、神の義を伝えたときの人々の反応や箱舟
を造っているときの人々の反応は記されていないが、人々から蔑まされたり、無視されたり、
嫌がらせを受けたりしたことが推測できる。(Uペテロ2:5)
 
箱舟を造るのにノアの家族、すなわち聖書に名前が書かれているノアの祖父メトシェラ、父レメ
ク、ノアとノアの息子たちや、名前は書かれていないが、存在が書かれている彼らの妻たち4
(創世記6:18)。 また、名前や存在が書かれていなくても、彼らの他の家族も箱舟造りに関
わったのかもしれない。 ただ、箱舟に入った人間は、ノアと妻、3人の息子たちと彼らの妻の
合計8人だけだった。 空想話のような洪水のための箱舟造り、それも、とてつもなく巨大で重
労働が強いられる箱舟造りに、途中から落伍する者もいたであろう。 また、箱舟造りの中心
であったノアは、世間から愚か者、変わり者と蔑(さげす)まれ、見下されは半端でなかったか
もしれない。 それでも、ノアは、ひたすら「神のことば」に返り留まって従順の限りを尽くした。 
ノアは「神のことば」に徹底的に従いながら、語られた「神のことば」の完了の時を待った。 
 
箱舟に入ってからも、大洪水を含め1年以上も、一緒に箱舟に入れた動物たちの世話をしなが
ら、箱舟から出られる日を待った。(創世記7:11、8:14) そして、箱舟に入り待っていたノアと
家族には「救い」が与えられ、「神のことば」を信じなかったノアの家族以外の堕落した人々は
「裁き」を受けた。 箱舟の健造は、「神の裁き」と同時に、「神の救い」をもたらせた。 ある意
味、「神の裁き」「神の救い」は同時進行だった。 いずれにしても、「神のことば」が成就、完
了するまでの期間は、ノアにとって忍耐の時、試練の時だった。 その試練の時をノアは乗り
越えることができた。 それは神の守り神の恵みノアにあったからだ。 ノアが神を愛し、
神とともに歩んでいたからだ。(創世記6:8,9)
 
さて、「待つ」期間はノアに比べれば短いが、キリストの弟子たちも迫害下の状況の中で「待
つ」ことの体験をした。 聖霊がいつどのように降るのかわからなかったが、主イエスが語られ
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)」ということ
ばに従い、祈りつつ待っていた。 このときペテロが立ち上がって、「12」にこだわり くじを引い
てユダを失った分を補充をしたことは、間違っているという意見もあるようだが、ペテロは待ち
きれずに補充をしようとしたわけではないと思う。 皆で心を合わせて、祈りに専念して、待って
いた時であり、補充して12にする件もペテロは祈って導きを求めている。 それまで 散々 失敗
してきたペテロであったが、そのときの祈りも表面的な祈りとは感じられない。 むしろ、12部族
を意味する「12」という数にこだわったことは、「イスラエルの回復」にこだわっていたことと思わ
れる。 それを、主は「良し」とされていると思うのだが。 いずれにしても、結果的には待った
期間は10日であったが、彼らにとっては長く感じられたことであろう。 彼ら一人一人は「主と主
のことば」最優先していた。 それは、主から愛されていることを知った彼らが、心の底から
主を愛していたからである。
 
また、神に大いに用いられた人物で待つことに失敗した例もある。 アブラハムの場合。 75歳
の時、神からの約束のことばがあった(創世記12:1) その後も何回も語られたが、子孫が
祝福されることについては、具体的に、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を
継がなければならない。(創世記15:4)」と主はアブラハムに語られた。 しかし、待っても待っ
ても その兆候がなかった。 すでにアブラム85歳、サライ75歳であり、世的には子どもが生ま
れるのは無理な年齢であった。 それで、サラの提案を受け入れ、人間的な方法で、奴隷ハガ
ルによって長男イシュマエルを産んだ。 この失敗により、神はアブラハムに13年間、顕現され
ず、沈黙された。 この期間のことは聖書に記されていないが、このときほど、アブラハムは
「神との交わり」の重要性、「神のことばに信頼し続ける」ことの重要性を思い知ったと思われ
る。(アブラハムの13年間についての思考:めんどり通信/2015年2月1日参照) その後、99歳
の時、神の顕現を受け、アブラハム100歳でイサクが生まれた。 失敗はあったが、25年間
待った。 その間、アブラハムの「信仰」「霊」も大いに鍛えられた。
 
他に、待つこと失敗した例。 サウル王の場合。(Tサムエル記13:8-14) ペリシテ軍の脅
威にさらされていた時、サウル王は、預言者サムエルに「7日間、ギルガルで待つように。 全
焼のいけにえと和解のいけにえをささげる。 なすべき事を教える。(Tサムエル10:8)」と言わ
れていたが、サムエルの到着が遅れたので、待ちきれず、いけにえをささげた。 このことは、
本来、祭司の務めであり、王には許されていなかったことである。 ささげ終わった時、サムエ
ルが到着した。 しかし、サウル王は悔い改めるでなく、言い訳をして、自分の行為を正当化し
た。 この事のために、サウル王は、王位から退けられた。
 
待つことに失敗した者でも、アブラハムのように「益」になった者とサウルのように神に退けら
れた者の違いは、一つには、彼らの心の奥にあった「思い」などを神が見られていたことでは
ないだろうか。 アブラハムは、人間的な考え(肉で)を行なって失敗こそしたが、「主と主のこと
ば」優先していたところがある。 「主のことば」が成就することを考えた上での勇み足的失
敗である。 しかし、一方、サウル王は、サムエルのことば(サムエルを通しての主のことば)、
すなわち「主と主のことば」よりも、自分の「面子(めんつ)、思い、考え」最優先した。 サウ
ルは、自分の思いを遂げようとする身勝手な失敗であった。 ここに大きな違いがある。
 
更にもう一つは、「神からのことば」があったかどうかである。 アブラハムは、「子孫繁栄の約
束」、「地上のすべての民族を祝福する者になる約束」、「子孫に土地を与える約束」のほか、
神から直接、数々の「神からのことば」を聞いた。 具体的なことばもある。(創世記17:21,18:1
0) 一方、サウルは、預言者サムエルを通して「主のことば」を聞いていた。 サムエルがサウ
ルに語ることばは、「主のことば」でもあった。(Tサムエル記10:1-8、15:1-3) 
 
これらの「ことば」を比較してみると、その内容の重要性の違いがわかる。 神の幸いなご計画
の中にあるのかどうかによると思われるのだが、どうだろうか? 神は、すべてをご存知であ
る。 人の「心の奥にある思い」も今後のことも すべてご存知である。 イエスは「招かれる者
は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ22:14)」と言われた。 神が、イスラエルの民の引かな
い要望に応えて、サウルをイスラエルの君主とすると言われたが、サウルを選ばれたというよ
り、「be called」英語訳(NKJV)となっているので、サウルは神に「呼ばれた、召喚された」とい
う方が適切かもしれない。 サウルは、イエスが言われたことばに当てはめるなら、「招かれた
者、呼ばれた者」なのだろう。 ただ、誰が選ばれるのか、誰が招かれる(呼ばれる)のかは、
神のみぞ知るである。 だから、主に招かれたなら、素直に主の御前にへりくだって、主に選
ばれた者としての歩みに取り組んでいくことは、主が望まれていることであろう。
 
今日、我々には基本的に「聖書」を通して、「主のことば」が与えられる。 もちろん、人を通し
て、環境、出来事、夢、ビジョンなどを通しても与えられる。 また、稀ではあるが、直接、主に
与えられる者もいる。 どのような方法にしろ、「主が語られたことば」であるなら、必ず、成就さ
れる、完了される。 待つ期間は一人一人に応じて、主が定めておられると思われるが、我々
は、「待つ間」にいつでも「主と主のことば」最優先できるように変えられたいものである。 そ
のためにも「待つ間」は、神からの訓練試練の時であるから、主によりすがり続けることに取り
組んでいきたいものである。 そして、主に鍛えられ、主を心から愛する者になりたいものであ
る。 また、主から直接なり、聖書を通してなり、人を通してなり、・・・などと、どのような方法か
はわからないが、我々はへりくだって、主が「ことば」を与えてくださるよう求めつつ、心を絶え
ず主イエス・キリストに向けていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 145:20
   すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
 





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