めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年6月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「献金」「教会運営」「教会のあり方」についての思考>



★旧約聖書(新共同訳) サムエル記 第一 15:22
   主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き
   従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂
   肪にまさる。
 
●最近、「献金」について祈りつつ いろいろ思い巡らせていた。 教会で「献金」の話しが出る
時に必ずと言ってよいほど引用されるのが、旧約聖書 マラキ書3章8-10節の、「・・・あなたが
たはわたしのものを盗んでいる。・・・あなたがたはのろいを受けている。・・・十分の一をことご
とく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万
軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの
祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」である。
 
この箇所を引用して、収入の十分の一を献金しないことは、「神から盗んでいる」、「罪であ
る」、だから、神から祝福ではなく呪いを受けているというような説教をする牧師もいるというの
を聞いたが、驚きである。 また、献金しないことは、「神から盗んでいる」、「罪である」とまで
厳しく言わないまでも、「什一献金」は救いの条件ではないが、「信仰」の表われであって、クリ
スチャンは当然すべきことと、暗黙のうちに強要している教会もあるというのを聞くと、何とも言
えない悲しさがある。 
 
「十分の一をささげる」ことについては、レビ記27章30,32節、民数記18章23-26節、申命記14
章22-29節などに書かれている。 旧約聖書「十分の一のささげもの」は、祭司やレビ人(神
殿で働く人々)や在留異国人、みなしご、やもめ(寡婦)など、当時、生産手段を持たない人た
ちが食べていけるようにということが目的とされた。 ところが、マラキ書が書かれた時代は、イ
スラエルの民がバビロン捕囚からパレスチナに帰還したものの、繁栄したころの面影の一欠
けらもなく、国土は荒廃し、不正が蔓延(はびこ)り、イスラエルの民の心は、すっかり神から離
れ、祭司たちさえ、汚れたパンや盲の獣、足なえや病気の動物を神に献げていたくらい荒んだ
状態だった。(マラキ3:14、1:7,8) それで神はマラキを遣わされ、「わたしのところに帰れ」
愛をもって語られ、イスラエルの民に正しい「信仰」へと立ち返らせ、(U歴代誌31章に書かれ
ている)神の祝福を与えようとされた。 
 
新約聖書「十分の一」という献金の率、数字は書かれていない。 パウロが献金を集めようと
したとき、パウロが使うのではなく、エルサレムの貧しい信者たちを助けるためであって、「什
一献金」とは関係ない。(Tコリント16:1,2) もちろん、主の働きをしていく上で足りない分は、
ピリピの教会がパウロを助けていたということはある。(ピリピ4:15) しかし、基本的に、パウ
ロは天幕作りという仕事をして生活の糧を得ていた。 むしろパウロはコリントに滞在している
とき、「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられ
ます。 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」とコリントの教会から献金を受
けなかった。(Tコリント9:14) 当時、コリントの教会はいろいろ問題があったので、明確にそ
れらの問題について指摘していくためには、コリントの教会から献金を受けることを避けようと
したのかもしれない。 「キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。」とも言ってい
る。(Tコリント9:12)
 
「献金」について、パウロは「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに
蒔く者は、豊かに刈り取ります。 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心
で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と言っている。(Uコリ
ント9:6,7) 以上のことから、「献金」は、一人一人がよく祈って、主がその人に望まれている
額の「献金」をすべきであるということであろう。 
 
ただ、ふと思うのは、それぞれの教会によって違いはあったとしても、大まかには似ている今
日の「教会運営の仕方」「献金の仕方、あり方」を、本当に、主は喜ばれているのだろうか、と
いうことである。 旧約聖書では、どのように幕屋を建設すべきか、祭司やレビ人の具体的な
役割など詳細に記されている。 しかし、新約聖書では、教会指導者の役割や適性については
書かれているが、教会運営の仕方や教会のあり方については詳細に書かれていない。 今
日、教会運営は、教団教派によって異なり、いろいろな運営の仕方がある。 また、パウロの
時代、教会の建物はなかったが、今日の多くの教会には建物(教会堂)がある。 
 
教会の会計の内、牧師の給料は、働きに対する教会から感謝のしるしとして与えられるから、
「謝儀」と呼ばれている。 多くの教会には、複数の役員がいて、彼らの役割、仕事の一つに
「会計」があるという。 礼拝での献金を計算し、教会運営に必要な費用を支払い、牧師の謝
儀を出し、毎月報告書を作成するのだという。 ちなみに牧師謝儀は給料と同じ扱いなので所
得税を申告して払うのだという。 牧師は牧師館などに住まい、光熱費など必要経費は教会が
払うというケースがほとんどだという。 
 
大きい教会では、牧師も裕福で その家族も十分すぎるほど満たされて、その教会の信者が
つまずいたなどという話しも聞いたことがある。 教会によって違いがあり、一律ではないが、
教会の「献金」の使い道、教会運営(特に会計)は、このようなものであるようだ。 ただ、単立
(教団教派に所属しない)のキリスト教会の教会運営は、教団教派に所属している教会とは大
きく違いがあるようだ。 単立の教会は、牧師が何もないところから始めるので、牧師の家の
会計と教会の会計が、明確に分けられていない場合が良くあるという。 また、会計は牧師が
行なうが、小さい教会のうちは問題は あまり生じないが、単立の教会であっても大きくなってく
ると様々な問題が生じてくることがあり、問題の根底にお金が絡んでいる場合も多いと聞く。 
 
それでも教団教派に所属している教会の牧師より、伸び伸び教会運営を行なっている牧師も
いる。 ただ、牧師の権威が強くなりがちな教会もあるようだ。 教会運営、牧会などのような
問題が少ないかわりに、牧師の権威が強すぎて、信者を成長させるためとはいえ、いろいろな
ことで強制的になっている教会もあるという。 
 
約25年ほど前、ある教会に所属していたころ、ある牧師から何度も聞いた話しがある。 その
牧師は、信者さんが、いくら献金しようが、その金額の多い少ないに関わらず、献金の額にと
らわれずに牧会をすると言っておられた。 信者さんが献金や品物を持ってきても、それらに
目を留めず影響されず、それらは脇に置いて牧会をすると言われていた。 理想的である。 
多くの教会が、このお金のこと、献金のことで問題が起きたり、牧師が信者の顔色を見て、牧
会にも影響が出ている多くの実例も聞いた。
 
しかし、教会生活の中で、話してくださった その牧師さんの心の奥に、僅かではあったが、何
「お金」「献金」に対する拘(こだわ)りみたいなものを感じたことも覚えている。 しかし、訓戒
としていろいろ話してくださっているし、その内容は間違っていないのだから、それこそ、そのよ
うに感じる自分が間違っている、変えられなければならないと思ったことも覚えている。 
 
さて、このような現実を考えていると、主が望まれている「教会運営の仕方」や主が喜ばれる
「教会のあり方」は、今までのようで いいのだろうかと、そう思った。 牧師が教会の役員から
呼び方こそ「謝儀」だが、要は給料をもらう。 「主からいただいている。みことば通り、主が
養ってくださっている。」と口で言い、心でも そのように思っていたとしても、心の奥底では ど
うなのだろうか 信者の自我を砕き、肉を切り取るのは、主がなさるが、そこまで導くのは牧
師の務めである。 しかし、一般的に、人は自我に触れられたり、肉に関することを指摘される
ことを嫌うものである。 下手に触ると、教会に来なくなる信者もいる。 
 
「献金」は確かに神にささげるものである。 ささげた「献金」がどのように使われたとしても主
が導いておられるからお任せします、と使い道さえすべて委ね切っている信者がどれほど存在
するだろうか。 謝儀(給料)を「献金」から与えられると言っても、それは主が与えてくださって
いるものだと、心の底から言い切ることができ、信者に、強く指摘しなければならない肉や自我
の具体的な問題を本当に言うことができる牧師がどれほど存在するのだろうか。
 
あのパウロでさえ、経済的に助けてもらっている状態では、強く問題を指摘することができない
と考えたのである。 それで妨げにならないために、コリントの教会から「献金」を受けなかった
ときがある。 以前 聞いた「牧師が信者の顔色を見て、牧会にも影響が出ている」という多く
の実例もある。 一般的にも、どのような形でも どのようなことでも「お金」が絡むと、結構、難
しくなるものである。 単立の教会の牧師は、教会を無一文から自分が祈って建て上げてきた
という自信(本心)もあるが、だから余計に教会の会計と牧師の会計の線引きが難しくなるの
だろう。 
 
パウロの時代のように、基本的には、「献金」以外のこと、すなわち仕事などで生活の糧を得ら
れるならば、それがいいのか 主のための働きをするにおいて、足りない分とか何か目的が
ある場合(例えば、パウロの時のようにエルサレムの貧しい信者を助けるためとか・・・他)に
は、「献金」を使えばいいのか 現代の教会では、信者が少なくて、「献金」だけでは牧師と
その家族が生活できないばかりか、教会が維持できない事態になりそうな教会もあるという。 
教会の建物の「維持費、事務費、光熱費、税金、・・・」など何かと入用であるからだという。 だ
から「教会運営」に四苦八苦しているというのを聞くと、「教会運営の仕方」「献金の仕方、あ
り方」を見直さなければならないのではないかと思ったりする。
 
いや、もしかしたら「献金の仕方」「教会運営の仕方」を見直すというより、「教会のあり方」
見直す必要があるのかもしれない。 主が建て上げようとされている「教会のあり方」が、今ま
で我々クリスチャンが考えていたのとは違うのかもしれない。 今までの「教会運営の仕方」
「献金の仕方、あり方」「教会のあり方」では、主が満足されていないのではないだろうか。 
「今後の教会のあり方」について、主に尋ね求めていかなければならない時が来たのかもしれ
ない。 このことについて少しだが「めんどり通信/2015年4月19日。めんどり通信/2015年1月
18日で思考したので参照してほしい。 
 
著者も「献金」をささげてきた者であるが、今までのクリスチャン人生を振り返ってみると、確か
「献金」は、「神の恵み」であると思う。 ただ、それは、主が著者にささげる「思い」「願い」
与えてくださったからできたのだと思う。 金額も主に示された通りに行なってきた。 「教会の
あり方」について長年キリスト教会が行なってきたことだから、そのようにあることが当然だと
思っていた。 しかし、特に数年前から この「献金の仕方、あり方」について、「教会のあり方」
について、主は どのようにすることを望まれているのだろうかと祈るようになり、今もなお、祈
り尋ね続けている。 
 
主のみこころ知ることは結構、難しいが、真剣に心から求め続けていくなら、一人一人に応
じて、自我を砕き、肉を切り取りながら、主が定めておられる時に知らせてくださると思われ
る。 だから、我々は、いかに深く主キリストの中にとどまるか、いかに日々、主と交わり、主と
ともに歩むかが重要になってくる。 とにかく主の御前にへりくだって、絶えず祈っていくこと、い
ろいろな方法で主が語って下さろうとしているか細い御声を聞こうと(霊)の耳、心を絶えず主イ
エス・キリストに向けることに取り組んでいきたいものである。 
 
★新約聖書 マタイによる福音書 16:18
   ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教
   会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 18:19,20
   まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事で
   も、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてください
   ます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるか
   らです。」



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