めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年5月24日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれであるについて思考>2018年3月20日付修正文



新約聖書 マタイによる福音書 713,14
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだ
   す者はまれです。
 
旧約聖書 申命記 3019,20
   私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
   のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生
   き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。
 
冒頭のみことばについて、いろいろ考えていた。 クリスチャンの人生について書かれた本
「天路歴程」の内容を思い出したり、聖書のことばから、いろいろ考えていた。(天路歴程につい
ては、めんどり通信/2008年10月19日<天路歴程(てんろれきてい)>、めんどり通信/2014
年12月28日<天路歴程からキリストを信じる者の人生を思考してみるを参照
 
冒頭のみことばから、多くの牧師や聖書教師、クリスチャンの方々が説教なさっておられる。 
「狭い門」「小さい門」をくぐった後に「狭い道」「細い道」を歩むと解釈しておられる方々が多い
ようだ。 ただ、何回も「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれで
す。」と読んだが、「その道」は、「いのちに至る門」までの道のことを言っているように感じるの
だが、どうだろうか。 「狭い門」の「狭い」は、字義の通りであるが、「道が狭い」というときの
「狭い」の原語は、「狭い門」「狭い」とは違う語が使われているという。 その原語には「苦難
が多い」「苦労する」という意味合いがあるという。 
 
「それを見いだす者はまれです」「それ」は、「いのちに至る門」「狭い門」のことを言っている
ことから見ても、「いのちに至る門」「狭い門」までたどり着く道は厳しいということであろう。 だ
から、その「狭くて小さい門」見いだす者はまれなのであろう。 もちろん、「いのちに至る門」
「狭い門」をくぐった後にも「細い道」「狭い道」がまっすぐにゴールに向かって伸びていると思わ
れるが、「いのちに至る門」「狭い門」にたどり着くまでの方が、くぐった後に比べて その厳しさ
は、はるかに超えているのかもしれない。 だから、主は「いのちに至る門は小さく、その道は
狭く、それを見いだす者はまれです。」と仰せられたのだと思われる。
 
確かに この「狭くて小さい門」を見いだすことは、本当に結構、難しいものである。 ただ、そ
れを難しくしているのは、神ではなく、人であることも事実だ。 罪や咎(とが)の問題だけでな
く、神は人間をまっすぐに造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたり、多くの計略を考え出し
たりと複雑な考え方をしたがること、すなわち、人の自我の強さ、肉の強さも「狭い門」を見いだ
すことを難しくしてしまったと思われる。(伝道者の書729 なぜなら、この「狭い門」にたどり
着くまで「道は狭い」、すなわち、苦労する、困難、苦難がともなうということであるが、人の本音
は、自分にとって困難なこと、苦しいこと、嫌なことを避けようとする傾向が強いからだ。 
 
一般的に、困難や苦難を乗り越えることによって、人は成長し、強くなれると言われる。 「若い
時の苦労は買ってでもせよ」とことわざにもある。 人間が困難や苦難を乗り越えようとすると
き、自分の力や努力をすることこそ価値があると思われている。 自分の力や努力で困難や
苦難を乗り越えることは美徳とされている。 だから、人は、その人の自我に触れられることや
握りしめている肉からの願いや考えを捨てること、離すことには最大の抵抗を示す。 それが
また、「狭い門」を見いだすことを難しくしている。
   
イエスは、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あな
たがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ520)」と仰せられた。 当時、厳格に律
法を守っているように見え、人々から尊敬されていた律法学者やパリサイ人たち以上に、律法
を厳格に守らなければ天の御国に入れないというのである。 それは、すなわち、人の義、す
なわち、人の努力、人の力で救われることは無理であり、不可能であるということを仰せられて
いる。 しかし、イエスは来てくださって、律法を全うされ、我々の罪のために十字架で死んでく
ださった。 そして3日目によみがえられ、今も生きておられる。 これこそが福音であり、神の
である。 パウロは「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」
と言っている。(ローマ117
 
イエスによって「救いの道」は開かれ、主も、人がひとりでも滅びることを望まず、すべての人が
悔い改めに進むことを望んでおられるが、聖書をよく見ると「残された者」「残りの者」と呼ばれ
る者たちが、「狭く小さい門」をくぐり、「いのちの道」を選ぶようである。Uペテロ39)(イザヤ1
0213732、ミカ212、ローマ927,115 「狭く小さい門」をくぐり、「いのちの道」を歩んで行
く者を、出エジプトしたイスラエル人たちを、神が昼は雲をもって、夜は、夜通し炎の光で彼らを
導かれたように、主が導いてくださる。(出エジプト1321,22、詩編7814) 
 
「狭く小さい門」をくぐるためには、人は小さくならなければならない。 イエスは、自分たちの中
で、だれが一番偉いかという議論をしている弟子たちに、「あなたがたすべての中で一番小さ
い者が一番偉いのです。(ルカ948)」と仰せられた。 小さくなるとは、ひと言でいうなら「へりく
だること」であるが、そのためには、自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られる
必要がある。 主イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十
字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と仰せられた。(マタイ1624 
 
神は、ご自身が選ばれた神の子には、必ず「試練」に会わせられる。(へブル12章) アブラハ
ムもダビデもペテロもパウロも、多くの神が選ばれた子たちは、苦しく、激しい「試練」にあっ
た。Uコリント82他)  そうして、彼らは心の底から傷つき、肉からの自分の力、考え、知
恵、・・・ははぎとられ、砕かれていった。 彼らは ぼろぼろの着物を着て小さくなった者のよう
だった。 だから 彼らは、「主である神」に焦点をあわせ続けなくてはならなくなった。 彼らの
心の底にまでついた傷は、彼らを整えるに必要であったが、その傷に主は油(聖霊)を塗ってく
ださった。 彼らは、ますます主に頼り、主を愛した。 彼らに共通していたことは、苦難と苦悩
の中にあっても「心底から主を愛し、主を愛し続けた」ことである。(詩編119143他) 
 
我々クリスチャンと呼ばれる者たちは「イエス・キリストを信じています」「主を愛します」と告白
し、宣言できる。 しかし、「キリストを信じる」ということは、「キリストについていきます」と告白
し、宣言するのと同じである。 だから、真にキリストを信じ、主を愛するならば、「自分を捨て
る」、すなわち自我が砕かれること、肉が切り取られることを避けることはしないであろう。 「私
は、自我が砕かれるために、肉が切り取られるために祈っています。」と言って祈っていて、知
らず知らずに変えられていた、砕かれていたなどということは決してない。 本当に祈っている
なら、一人一人に応じて、砕かれるような出来事がある。 傍から見て、たとえ大きな出来事で
はなくても、ほんの些細な事かもしれないが、主が祈りに答えてくださって、砕こうとされるため
の何かがある。 大小にかかわらず、その事には多くの場合、人が絡んでいる。 
 
だから、そのようなときに、心の奥底に隠されていた「思い」「感情」などが出てくることが多い。 
ただ、そのとき、その人が いかに自分の「思い」「願い」「感情」など、すなわち自分自身を主
に差し出すかどうかは、その人の自由意志による。 また、何でもかんでも、主が起こされたと
いうのも間違いである。 起きた出来事が、主が直接、起こされたことなのか、自らの自業自
得によって起こったことなのか、悪しき霊からの攻撃による事なのか、・・・いろいろなケースが
あり、それらの見分けは難しい。 いずれにしても、主の御許しなしには何事も起こり得ないか
ら、そのときの自分の心の奥底から出て来る「思い」「願い」「感情」に 十分、注意を払うことで
ある。(マタイ1029 
 
いずれにしても、「いのちに至る門」「狭い門」までたどり着くために、自我が砕かれ、肉が切り
取られることが重要である。 主の喜ばれない心の奥底にあるものが露呈されたとき、素直に
認めて、捨てるべきものは捨て、離すべきものは潔く離していきたいものである。 そうすること
によって、心が傷つくなら、その傷を主は見られ、聖霊を注いでくださるだろう。(箴言20302
76 本当に主を愛する者が、「いのちに至る門」「狭い門」をくぐることができるのである。 
日々、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の御前にへり
くだって、主の御前に素直でありたいものである。
  
旧約聖書 エゼキエル書 3416
   わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のも
   のを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって
   彼らを養う。
 





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