めんどり通信/2015年5月3日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <再臨について、裁きの座についての思考>2018年3月20日付修正文 |
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●我々人間だれにでも「死」がある。 そこがこの地上での最後のゴールである。 人によって、
そのゴールが近かったりと遠かったりするが、どんな人にも間違いなく「死」というゴールはある。
死に方にもいろいろ人によって違う。 安らかに亡くなる、壮絶な苦しみ悶えて亡くなる、病気で
亡くなる、不慮の事故や災難で亡くなる人と様々である。 多くの人は、「死」が最終ゴールであ
ると考えているようである。 しかし、聖書によるなら「死」は、この地上での最終ゴールではある
が、それはまた、「死」の向こう側、それを越えたところにある世界に生きるためのスタート地点
でもある。
また、どのような人でも(キリストを信じている者、無神論者、・・)、死後、神の御前に立つ。 そ
のとき、主は、その人のどこを見られるだろうか? もちろん、キリストを受け入れているかどう
かを見られるだろうが、クリスチャンだといっても表面ではわからない部分が多々ある。(マタイ
7:21,22) 結局、人の心の奥底を見られているのではないだろか。(Tサムエル16:7)
主イエスがこの地上におられたとき、「イエスは、幼子たちを呼び寄せて、「子どもたちをわたし
のところに来させなさい。・・・神の国は、このような者たちのものです。(ルカ18:16)」と言われ
たが、実際の幼子というより、親(神)に頼らなければ何もできない弱い者としてのたとえとして
言われた。 だから、主は人の心の奥を見ておられると思われる。(エレミヤ書20:12、ルカ11:
17) そして、子どもにおいても同様であろう。 ただ、子どもより、大人の方が、「自業自得」「自
己責任」のゆえに裁かれることが多いと思われる。 ちなみに聖書でいう「金持ち」とは、知恵も
体力もあって、自力で立っていける人たち、すなわち神に頼る必要のない人たちのこと。 また、
黙示録に書かれているラオデキヤの教会のように、主の喜ばれない教理や主が介入されてい
ない不思議や奇跡を行ない、いろいろな賜物を売り物にして富んだと思い込んでいる人たちの
ことである。
さて、神は、人に「自由意志」を与えられた。 それは、その人に任されている。 だから、与え
られている「自由意志」には責任が伴う。 主に頼ることも、自分の力や他のものに頼ろうとす
ることも、その他一つ一つのことで どちらを選択するのかは自由であり、その人に任されてい
る。 だから、ある意味、長い人生の旅路を「自己責任」で歩んでいることになる。(自由意志に
ついて:めんどり通信/2012年2月5日参照) しかし、様々なことにおいて人が、真にへりくだっ
て神の介入を求めるならば、主が責任を持ってくださる。(詩編16:8) ただし、そのときには、
人には主の御心に全く従う、という素直な本心が必要ではある。
人がこの世に生まれて最期の時までの、一人一人の行ない、思ったこと、考えたこと、話した
ことなどすべて詳細にわたって神の書物に書きしるされている。(詩篇7:9,11:4,139:2、黙示録
20:12) だから神の裁きは正しい。 人は、死後、「神の御前に申し開きをすることになる。
(ローマ14:12)」と書かれている。 このローマ人14章12節の「申し開き」は、英語では
「account 」が使われており、(人に)金の収支を報告する(to ...)など、会計報告を出すという意
味だという。 罪は借金として記され、その借金が残っているかどうかが問われることになる。
借金は、自分の責任において返済しなければならない。 死後にどうやって借金を返済するの
か。 マタイ18章では「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」と書かれている。 恐ろし
いことである。(借金の清算について:めんどり通信/2005年10月23日<借金の清算と返って
くる借金>、めんどり通信/2008年11月30日<御国を相続する報いか苦しみの報いか、どち
らの報いを受けるのか>参照)
しかし、この借金「罪」は、キリストの十字架の血によって、帳消しにされる。 その上、様々な
神の恵みという黒字(利益)が与えられる。 なんという「尊い救い」を神は与えてくださること
か。 主を褒め称える。 ただ、この「救い」は、自分がどれほど愚かな罪人であったのか、とい
う「罪」の重さ深さを知った者が、知ることができるであろう。
また、新約聖書のコリント人への手紙 第一12章9節に「聖霊によるのでなければ、だれも、
「イエスは主です。」と言うことはできません。」と書かれているが、自分は「イエスは主です」と
言えるから、この「救い」をいただいている、借金は帳消しにされている、と安易に思い込んで
いうみことばは深い。 「イエスは主である」ということは、自分は「しもべ」であるということ。 本
当に、「主と主のことば」に従う意志(意思)があるのかどうか、真剣に自分の本心に問うことは
大切なことである。
ひとりひとり、いずれは神の御前に立たねばならない。 クリスチャンであるなしに関係なく、信
じる信じないにも関係なく、「その時が来る。」 このことを厳粛に受け取っていきたいものであ
る。 そして、イエスは主であると真に信じ認め、従う本心ある者は、神の御前にへりくだり、
じっくり聖霊の御声に聞き従い、主が示される行くべき道を、確実に一歩一歩を踏みしめてい
きたいものである。(詩編32:8)
★新約聖書 ヨハネによる黙示録 20:11〜15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から
逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そし
て、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書
であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行
ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々は
おのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ
込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
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