めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年3月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主に心を向けることについて:マルタとマリヤ、良きサマリヤ人から思考>



 
★新約聖書 ルカによる福音書 8:8  8:18
   イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
   だから、聞き方に注意しなさい。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木につ
   いていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしに
   とどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 
ルカによる福音書10章ヨハネによる福音書11章に登場するマルタとその姉妹マリヤとラザ
ロの兄弟姉妹3人をイエスは愛しておられたと記されている。(ヨハネ福11:5) 彼らは、エルサ
レムから3キロほど離れた村ベタニヤに住んでいた。 主は度々ここを訪れて憩いの場所にし
ておられたようだ。 ルカ10章38節〜42節に書かれていること。 マルタはイエスがベタニヤの
村に来られると、喜んで家にお迎えした。 イエスの周りには いつも大勢の人たちがおり、12
弟子以外にもイエスと行動を共にしていた弟子たちもいたが、この箇所を読むとイエスおひとり
だけのようにも伺える。 しかし、実際は、12弟子も共にマルタの家に入ったと思われる。 い
ずれにしても、マルタは主を迎え入れ、いろいろのもてなしのため せわしく立ち働いていた。 
 
最初は喜んで迎えたマルタも、忙しくて心の喜び、平安を失ってきた。 一緒にもてなすはずだ
と思っていたマリヤは主の足もとにすわって「みことばに聞き入って」いるのを見て、マルタは
手伝わないマリヤに苛立ち(いらだち)を覚えた。 挙句の果てに、マリヤに注意しない主にま
で苛立ち、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょ
うか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と言ってしまう有り様。 しかし、主
「マルタ、マルタ。」と呼びかけられた。 名まえを2度続けて呼ぶ表現は親愛の情を込めた
へブル的表現だという。 主はマルタに、必要なことは一つだけであることマリヤは良いほう
を選んだことマリヤからそれを取り上げてはいけないこと、をマルタに語られ諭されたというこ
とである。
 
このようにしてみると、マルタは外交的で行動派、マリヤは内向的で思索的な性質であったよう
だ。 マルタもマリヤも主を迎えた。 迎え方にそれぞれの性質の違いのあらわれがある。 マ
ルタは、主をもてなすという形。 マリヤは、主の語られることばに聞き入る、聞き続けるという
形。 主は、マリヤの方を弁護なさったが、マルタのもてなしが悪いわけではない。 イエス
はマルタの家に入られる前、ある律法の専門家が、イエスをためそうとして質問してきたとき、
良きサマリヤ人のたとえを話された。(ルカ10:25〜37) あるサマリヤ人が、強盗に襲われ半
殺しになった人を助けたが、律法の専門家にイエスは「あなたも行って同じようにしなさい。」
言われた。 だから、決して行ないが悪いのではないということである。
 
ただ、ここで大切なことは、このたとえのサマリヤ人は、強盗に襲われ、着物をはぎとられ、な
ぐりつけられ、半殺しにされた人を見て「かわいそうに」と思い助け介抱したことである。 この
「かわいそうに」という感情のことばは、イエスに関してだけ、すなわちイエスが主語のときだけ
使われているようだ。(マタイ9:36,15:32,18:27,20:34、マルコ8:2、ルカ7:13,10:33,15:20) 
主が「かわいそうに」思われる時と、人が「かわいそうに」と思う時、深さの度合いは違うという
ことである。 主が「かわいそうに」思われるときには、神の深い愛神のあわれみがあらわれ
ている。 この良きサマリヤ人は、イエスご自身のことであるということだ。 「行ない」だけに徹
するのではなく、「心」が大切であり、「心の伴った行ない」が大切であるということだ。 
 
「かわいそうに」という感情は、「主の心」同じ心、内臓まで動かされるほど心が動く、寛容、情
深い、高ぶらない、誇らない、切なるあわれみの心である。(Tコリント13:4)決して肉の感情か
ら出てくる「かわいそうに」ではない。 また、そのような「心」は、主から与えられるものである。 
 
さて、もし、マルタが、主のために もてなそうと働いていても、心が絶えず主の方に向いていた
なら、自ずとマリヤと同じように「みことばに聞き入ろう」「みことばを聞き続けよう」と外側の働
きを一旦、止めたであろう。 何しろ現実、目の前に、主がおられ主が語られ、主の御声が聞
こえているのである。 主の御声なのか自分の思いなのか、主が語られているのか自分の願
いなのか、など確認しなくてもリアルに目の前に主がおられるのだ。 
 
福音書の時代、イエスはこの地上におられた。 イスラエルの多くの人々は、直接イエスを見
ただけでなく、イエスがなさる業、悪霊を追い出したり、病を癒されたりと奇跡と不思議を間近
で見た者が多く、実際、癒されたり、悪霊を追い出してもらったりした者も多かった。 それらを
目撃したヨハネは「イエスがなさったことを、いちいち書きしるすなら、世界もその書かれた文
書を収めきれない」記している。(ヨハネ福21:25) 
 
今日、我々は、この姉妹のように肉眼でイエスを見ることはない。 しかし、主は我々の肉眼で
見えなくても、事実、生きておられ、我々の心を見ておられる。 だから、我々が、「心」を主に
向けるなら、主の方もなおなお我々を見てくださるであろう。 そして、主を知ろうと求める者に
聖霊は働いて下さり、主との交わりが深くなっていくであろう。 主との交わりが深くなれば、肉
眼では見ていなくても主がおられることを実感できるようになる。 主が生きておられることを痛
感できるようになる。 
 
今日、何事においても昔に比べて時間の流れが早いように感じる。 科学、物理、医学、・・・な
ど昔では考えられないくらい進んだ。 交通機関も機能も進歩し、世界は狭く感じるようになっ
た。 日本では生活様式も変わり便利になったが、それでも多くの大人も子どもも忙しい毎日
を過ごしている。 人によっては、一人だけその忙しさを放棄するわけにもいかない。 そうす
るなら周りにしわ寄せがいくからだ。 ゆったりとした時間を過ごそうと思っても難しくなってい
る。 
 
主の方に向くことに専念する時間がない、というクリスチャンも多い。 キリストのために、妨げ
るそれらを直ちに捨てるべきだ、という教会からの意見もあろうが、みなが皆、それをできるわ
けではない。 もちろん、何らかの形で、主がそうするように促される人もいることは事実であ
る。 そのような人は、主のために、それらを捨てるべきであるし、いついかなる時も優先順位
の筆頭に主を挙げるべきである。 ただ、多くの人たちは、そのことが難しい。 だからと言っ
て、そのままで いいというわけではない。
 
「忙しい」という字は、左側はりっしんべん=心を意味するが、心を亡くする(失う)と書く。 忙し
くなると、心を失くしてしまう。 そうすると、落ち着かなくなったり、イライラしたり、落ち込んだ
り、・・する。 もし、外側が忙しくても「心」を失わなければ、イライラしたり、落ち込むこともなく
なるであろう。 結局、「心」を失わなかったらよいのである。 そうは言っても確かに、それは
難しいことである。 
 
しかし、それでも、外側が忙しい中、「心を主に向ける」ことは可能である。 時々に たとえ1分
でも数秒でも深呼吸するように「主よ。」「イエス様。」と口で言うなり心で言うなりをすることであ
る。 そうして、また動き出せばいい。 そして、もう少し時間が取れるようになったら、そこでま
た御名を呼んだりして心を主に向ける。 また、祈ることができれば祈るのである。 たとえ僅
かな時間であっても最初は、意識して、「心を主に向ける」ことを行なうことである。 そうするこ
とを繰り返しているなら、意識しなくても自然に絶えず「主よ。」「イエス様。」と深く主に心を向け
ることができるようになってくる。    
 
そのようにしているなら、その人に必要な「主のことば」を、主が牧会者なりを通してなり聖書
なりを通して与えてくださるであろう。 その時には、人を通して語られた自分への「主のこと
ば」「牧会のことば」を素直に 受け入れ、受け留めることができるであろう。 クリスチャンは、
このように一人一人に与えられる「主からのことば」「牧会のことば」によって砕かれ、信仰が成
長し、霊が強くなっていく。(主からことばをいただくことについて。 めんどり通信/2010年9月
12日参照) だから、その人に与えられた「主からのことば(牧会などのことば)」を受け入れる
ことは、とても重要なことである。 また、主が語られ、皆一様に聞いたとしても、その中には主
が、一人一人に与えようとしておられる「主のみこころ」がある。 だから、大切なことは、表面
上で「主よ」「イエス様。」とやらないことである。 心の浅いところで「イエス様」と言っていると、
自分の心は主に向いている、だから主とつながっている、何をしても大丈夫だ、と勘違いしてし
まう危険性があるからだ。
 
日々の生活の中で、ほんの僅かな時間であるなら、何度でも取ることは可能であろう。 要
は、「心」を失わなかったらよいのである。 そのためにも絶えず「心を主に向ける」ことは必須
である。 「心を主に向ける」ことは、「主のもとに来る」ことである。 「心を主に向ける」ことか
ら、「主のうちにとどまる」ことができるようになってくるものである。 「主のうちにとどまる」こと
ができるようになってくると、「主のみこころ」を少しずつ わかってくるようになる。 
 
ちなみに、マルタは主の諭しを受け入れたと思われる。 イエスが再びマルタ、マリヤ、ラザ
ロの家に来られたとき、心を主に向け、主のうちにとどまって、大いに外交的な性質で給仕して
いた様子が、ヨハネによる福音書12章1〜3節に書かれている。 イエスが十字架にかかられ
る少し前のことである。 そのときマルタは給仕し、マリヤは、やはりマルタの手伝いをするの
ではなく、「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女
の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」と書かれている。 それに対して、マルタの心は失われて
いない。 いらだっていない。 主のうちにとどまって、喜んで給仕(もてなし)をしていたようであ
る。 マルタも「みことばに聞き入る」「みことばを聞き続ける」ことができるようになったと思わ
れる。 結局、肉眼で主を見る見ないは関係ないということであろう。 
 
一人一人みな性格、性質が違う。 主はみな同じ迎え方をせよ、同じ聞き方をせよ、とは言わ
れない。 要は、「主のことば」が、その人に応じてその人の内側深くに留まったらよいのであ
る。 それは、その「主のことば」に納得し、主が言わんとされていること悟ることができると
いうことである。 主はマルタ、マリヤそれぞれを愛され、それぞれに応じて諭され、それぞれ
に応じて取り扱われたように、我々一人一人に対しても同様である。 ただ、基本的には、誰も
かれもが主に諭され、取り扱われるわけではなく、主を心底、求めている者に対してである。 
主は人の自由意志(意思)を尊重されるからである。 とにかく、主のもとに来て、主のうちに留
まることに取り組んでいきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 10:17
   そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるの
   です。




めんどり聖書研究会