めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年9月12日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神のことばをいただく>


★新約聖書  マタイによる福音書 4:4
   イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つ
   のことばによる。』と書いてある。」

★新約聖書  ヨハネによる福音書 6:63  
   いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話し
   たことばは、霊であり、またいのちです。

●約20年前、以前、所属していた教会で「ロゴス」と「レーマ」について教えてもらったことがあ
る。 新約聖書の神の「ことば」がギリシャ語では「ロゴス」と「レーマ」で書かれており、英語で
「言葉」と訳されているという。 簡単に言うなら「ロゴス」とは、誰にでも読むことが出来る聖書
(神)の言葉。 「レーマ」とは、神がある時、ある人だけに直接語られる言葉という。 この見解
に関して反対している方もおられるようではある。

長年、クリチャン生活をしてきて思うのに、聖書を通してなり、人を通してなりで主から直接、こ
とばを与えられることは重要だと感じる。 聖書は確かに、神のことばである。 聖書の著者は
神である。 世の中には様々な小説などの書物があるが、それらは著者がいろいろ想いを込
めて書かれている。 それらの本では、その著者のいわんとしていることが込められている。 
しかし読者は、読む一人一人が自分の観点、感情、思考で解釈し読み取る。 様々な受け取
り方があって いい。 解釈についての主導権は読者にある。 

しかし、聖書の場合は違う。 神が著者であり、神が人に、しかも一人一人に伝えたいことを
持っておられる。 主導権は神にある。 神は、主イエス・キリストを信じ受け入れた一人一人
が、主の喜ばれる者になることを望んでおられる。 この地上生活だけで平安を得ることが目
的ではなく、むしろ、永遠の御国へ向かう者として準備する生き方、すなわちキリストの弟子と
してこの地上を歩むことを望んでおられる。 だから、主はご自身のみことばをもってクリチャ
ンを養い、成長させようとされる。 健全なクリチャンも主のことばと聖霊の導きによって進もう
とする。

神は、聖書のことばにおいても一人一人に、このみことばは、この人には、この程度、あの人
には、この時に、この程度などと、その人に応じて深みを悟らせたいと望んでおられる。 だか
ら、神の前にへりくだって聖書を読むこと、祈ることは、大切なことである。 

また、主は人に直接、主のことばを語られることがある。 主から直接、ことばを頂くということ
は非常に重要である。 主から直接なり、人を通してなりで、主のことばをいただいた、という
場合は、相当の吟味と訓練が必要かと思われる。 自分の思い込み、願望、期待や主以外の
ことばであることが、あり得るからだ。 真剣に何度も何度も主に尋ね祈って吟味していただ
く。 もし間違っていたなら、主は必ず教えてくださるお方である。 また語られたことばは、聖
書に則(のっと)っている。

そして一旦、主が語られたことばであるならば、必ず、主がそのことば通り成される。 また内
容によっては、この「ことば(レーマ)」が与えられることによって、時には信仰が試され、鍛えら
れることがある。 また時には忍耐が身に着くような状況になることもあろう。 清められ、悔い
改めに導かれることもある。 主導権はすべて主にある。 主がご計画のゆえに一旦、ことば
を語られたときには、人によっても何によっても妨げられることはない。 

著者も24年ほど前、ある日Uコリント8章9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリス
トの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられ
た。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」
を読んでいたと
き、突然、涙があふれてきた経験がある。 そのとき、「あれっ、何で涙がでてきたのだろう
か?」とわからなかった。 特別、その御言葉に感動したわけでもなく悲しくもなかった。 不
思議だと思い、また8章1節に戻って読み始めた。 すると9節になると、また涙が出てきた。 
おかしいな、と思いつつ、また8章1節に戻り、読み始めた。 やっぱり9節の箇所を読み始める
と涙が出てきた。 3回目のとき、当時はわからないまま「この御言葉が私の上に成就します
ように。 主の御心のままにしてください。」と祈った覚えがある。 

その後、何年も経ってその御言葉を悟らせていただいただけでなく、自分の上に成就しつつあ
ることがわかり、主に感謝の祈りをした。 その後もこのように聖書を通して、また直接なりで
主からことばをいただいたが、その度、御言葉は生きていると痛感した。 「初めに、ことば(ロ
ゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ福1:1)」「わたしがあ
なたがたに話したことば(レーマ)は、霊であり、またいのちです。(ヨハネ福6:63)
」 これらの
みことば通りである。

だから、「みことばを行なう」ということは、自分の力で行っているか聖霊の導きで行っているか
で大いに違いがあるように思われる。 聖霊の導きで「みことをを行なう」ことができるようにな
ることを、主は望まれ喜ばれる。 また、聖書の神のことばを人に伝える時には、へりくだって
慎重になって、みことばを用いることである。 「御霊の与える剣である、神のことば(エペソ6:1
7)」
と書かれているように、主の御心だからと、人の考えでみことばを用いるなら、時には人を
むやみに傷つけてしまう、ということがあり得る。 それは決して主の喜ばれることではない。

いずれにしても聖霊に導かれて、主を見上げていきたいものである。 世の基準や人の思考
に左右されないようにしていきたいものだ。 たとえ傍から見て、主のことばを行ない、活躍して
いてすばらしい人といわれるような人であっても、やはり人には左右されることのないようにし
ていきたいものである。 もし、すばらしいと思われる人がいたら、その人がどのように聖霊に
導かれているか、どのようにへりくだっているかを見て学ぶことは主が喜ばれることである。 

神からことばを頂いて、ますますへりくだり、神が良いことを成してくださることを信頼して、主が
現わしてくださる御わざを待ち望んでいきたいものである。 神と神のことばを信頼するがゆえ
に、現実を見つめながら、そしてその現実に今できる聖霊の導きによる最善をなしながら、待
ち望んでいきたいものである。 

★旧約聖書  詩篇 33:4
   まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。



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