めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年3月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主によって定められた道を歩む!良心が麻痺することは危険:ダビデの生涯から思考>



 
★旧約聖書(口語訳) 詩編 37:23,24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
   たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられ
   るからである。
 
★旧約聖書  詩編 103:2
   わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 
旧約聖書「詩編」を読んでいてダビデのことを考えた。 ちなみに「詩編」は、原語では「賛
美歌集」という意味だが、150篇のうちダビデの関係でタイトルからは98篇ある。 その上、タイ
トルにはないが明らかにダビデに関するものを合わせると5分の4がダビデの関係の歌である
という。 ダビデの歴史は、サムエル記列王記歴代誌に書かれているが、その時々のダビ
デの心情は、「詩編」に書かれている。 ダビデのことを考えながら「詩編」を読んでいくうちに、
「ダビデは、主を愛し主に愛されていたのに、なぜ罪を犯したのだろうか?」という疑問が湧い
てきた。 
 
ダビデの生涯を大きく分けると、(1)生まれてから神に見い出されて、預言者サムエルから油
を注がれるまでの少年期。(Tサムエル16:13 ) (2)サウルに仕え、その後サウルから逃れて
逃亡生活を送った時期。(Tサムエル17章〜31章) (3)30歳で王となってから王としての約40
年間の時期。 以上3つに分けることができる。 また、ダビデに起きた出来事から区分する
と、@サウル王に追われていたとき。 Aバテ・シェバとの不貞の罪を犯し、罪を悔い改めたと
き。 B息子アブシャロムの反乱のとき。 以上、これも3つに分けることができる。
 
@のとき、ダビデは、主のあわれみと守りの体験を何度もした。 徹底的に主なる神の権威
尊重し、優先した。 たとえば、サウル王を二度殺すチャンスがあったときにも、サウルは神が
立てられた王だからと言って殺さなかった。 1度目に殺さなかった時、サウルは、自分が間
違っていたと反省し、その言葉をダビデに伝えた。 しかし、またぞろ、サウル王はダビデを追
いかけて殺そうとした。 それでも二度目のサウル王を殺すチャンスの時が来ても、ダビデは、
サウル王を殺そうとしなかった。
 
サウルに追われているとき、様々な苦境に立たされてもダビデは主に頼り、主に感謝してい
る。 サウルが人々を遣わしてダビデを殺そうとしたとき(Tサムエル19:10-17:詩編59篇)
ガテでペリシテ人に捕えられたとき(Tサムエル21:13:詩編56)ガテの王アキシュ(アビメレ
ク)の前で気違いを装い彼に追われて去ったとき(Tサム21:10-15:詩34篇)サウルから逃
れて洞窟にいたときとその時の祈り(Tサム22:1:詩57篇、142篇)、エドム人ドエグがサウル
に「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったとき(Tサム22:9:詩52篇)ジフの人たちにダビ
デの居場所をサウルに告げ口されたとき(Tサム23:19,26:1:詩54篇)サウルの手から救い
出されたとき(Uサム22:1、詩18篇)ダビデは、主に信頼し、主をほめたたえている。
 
これほどまでに主のみわざや守りを体験し、主の方を絶えずしっかり見ていたのに、バテ・シェ
バとの不貞の罪を犯した。(バテ・シェバに関して:めんどり通信/2014年9月7日参照) それ
が、どうにもわからなかった。 確かに、ナタンに指摘され、明確で深い悔い改めをして回復さ
れ、再び主を愛し主に愛される歩みに戻ったが、何故?何故?という思いが湧いてきた。 そ
れでダビデの生涯を振り返ってみた。 すると、ダビデの生涯は、まさしく大いなる神の計画の
にどっぷり入っていたこと。(ダビデとバテ・シェバの間に生まれたソロモン。それから後イエ
スが生まれられたからである) ゆえに、主はあえてサタンの攻撃を許されていたこと。 ダビ
デを愛しておられた主は、前もってダビデの「良心」が麻痺していることをあえてダビデに教え
られなかったことなどを改めて痛感した。 
 
ダビデといえども、アダム以来の罪人である。 罪の性質が全くなかったというわけではない。 
だから、聖書に記される程のことでなかったのかもしれないが、サウルに追われている頃、主
が喜ばれない「思い」「行動」があった可能性はある。 律法から見て「罪」と指摘されること
もあったかもしれない。 しかし、聖霊が何らかの形で示され、ダビデはすぐにへりくだって神な
る主の方に向き直したのでは ないだろうか。 だからと言って、ダビデの内側すべてが完全
に清められたのでもない。 人の内側深くを神が探るならば、「完璧だ」という人は誰もいない
のではないかと思う。 「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとり
も地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。(ヨブ2:3)」と神に評価されたヨブ
でさえ、神の許しを得たサタンに振るわれてみれば、「自分の義」が強かったことを神に指摘さ
れ、砕かれた。(ヨブ42:1-6) 
 
神である主が「良し」とされるなら「良い」「否」とされるなら「否」なのである。 要は、ダビデ
は、神のご計画があったゆえに、「主によって定められた道」を全うしたのだ、ということであろ
う。 詩編37:23「人の歩みは主によって定められる」とあるが、それは「主によって定められ
た歩み」ができるということであり、「主によって定められた道」を歩むということである。 この
「主が定められた道」を歩むということが重要であると思われる。 ところが、このことが結構、
難しいものであることも事実だ。
 
クリスチャンは、律法に縛られてはならないし、律法からも解放されていると通常、言われ
ている。 しかし、案外、クリスチャンも、ある一点のところで「良心」が麻痺して鈍くなってしま
い、「罪」は犯さなくても無意識のうちに、「律法」に縛られていることがある。 聖書から見て正
しい「教え」「主の御心」と言われることを口に出して行なっているとき、クリスチャンは皆、そ
の言動に同意し、自らもますます そのことに励もうとするだろう。 決して悪いことではない。 
 
しかし、ある一点でも「良心」が麻痺して鈍くなった状態で、そのことに取り組むとき、ともすれ
ばサタン、悪しき霊からの誘惑に知らず知らずに乗ってしまうということがある。 ダビデのよう
に明らかに「罪」とわかっていることでも、気づくことが難しいのに、まして「罪」ほどでないことに
は、尚更、気づくことは難しいであろう。 例えば、クリスチャンは、一般的には「罪」に対して敏
感であるが、日々の生活の細々したことでも、その都度その都度「罪を犯してしまった。悔い改
めます。」と祈るとする。 そうするうちに、「悔い改める」ことに疲れてしまい、本当に「悔い改
め」をしなければならず、聖霊「悔い改め」を導いておられる「時」が来たときに気づかず、そ
「時」を逃してしまうことがある。 
 
「罪」というのは、「聖書のことば」から自分で判断して「悔い改め」の祈りをすることも大切では
あるが、ともすれば「表面的な悔い改め」で終わっている場合があり得る。 それは、「悔い改
め」というより「反省」である。 だから、同じレベルで、同じことを、何度も何度も繰り返す。 同
じことを繰り返しながらでも、その人の心の深みへと入っているなら砕かれているし、前進して
いるが、同じ位置で繰り返しているなら、余計に自我が堅くなっていく可能性がある。 「罪だ」
「主が喜ばれない」と気づいたならば、それをやめたらよいだけのこと。 やめることができない
なら、やめることができるように、助けと導きを求めて、 根気よく祈りつつ一歩踏み出すのだ。
 
「罪」「真の悔い改め」も、聖霊によって示され導かれるものである。(ローマ2:4) 「真の悔い
改め」をした者は、明らかに変わる。 その人の目が「神である主」の方を見て、明確に方向転
換するからである。 そのことは、たとえ傍から見て「変わった」と言われなくても、変化を見抜く
ことができる者が見たら必ず、変わっているものである。 「悔い改める」ことは必要なことであ
るが、それ以上に必要かつ重要なのは聖霊の導きに従う」「聖霊の流れに乗る」ということ
である。 「悔い改める」ことが、聖霊の導き無視した独りよがりにならないため、自己満足に
ならないためである。 
 
また、例えば「偽ってはならない」という聖書の戒めから、クリスチャンは「嘘」についても敏感で
ある。 をつくことは、主が喜ばれない、嫌われることを知っているからだ。 それで、特に子
どもを持つクリスチャンは、自分も子どもにも「嘘をつくこと」には、極力気をつける。 そして、
重要なことがらでなく、ちょっとしたことでも「嘘をついた」ならば注意する。 旧約聖書(口語訳) 
箴言10章31節には、「偽りの舌は抜かれる」と書かれているからだ。 必要なことではある。 
しかし、そのようなことを厳密にきちきち繰り返していると混乱してきて、主が言わんとされてい
主の御心が見えなくなることがある。 自分や子どもの「思い」「話す言葉」の一つ一つを
「聖書」に照らし合わせて「嘘」だと判断することに目くじらを立てているクリスチャンが多いこと
も事実ではないだろうか。 かく言う著者も、主への信仰堅く立って間もない頃、そのようだった
と思う。 自分にも子どもにも厳しかったと思う。 しかし、主の訓練試練を受けるうちに、それ
らの失敗さえ、主は益と成してくださったとつくづく思う。 主に感謝! 神である主が「嘘」と見
なされるなら「嘘」「嘘」と見なされないなら「嘘ではない」ということである。 そして、主が「嘘」
と見なされたときが、悔い改める時であり、子どもをしつける時である。 
 
これらは、「主のみことば」をきちきち守り行おうとするクリスチャンにありがちなことではないだ
ろうか。 「クリスチャンらしく」「クリスチャンなんだから」と思いながら、言いながら、ある一部の
良心が いつの間にか麻痺してしまい、そこに巧妙に悪しき霊が気づかないように働く、という
ことは本当にある。 気づかないにしても、悪しき霊の誘惑に乗ってしまったり、悪しき霊の働
きを受け、誘導されるということが、「主によって定められた道」から逸れてしまう原因となり得
るということである。 
 
ダビデは預言者ナタンの指摘を受けた。 ナタンは主から遣わされていた。 ということは、
霊の導きダビデにあったということである。 このように、「主によって定められた道」から逸
れてしまわないように、主から遣わされた者から、「主のことば(牧会のことば)」を与えられ、
それを素直に受け取る者は幸いである。 「主こそ真の牧者」である。 主はご自身が選ばれ
た者に、与えようとされる「ことば」を預け、その人に語らせる。 いずれにしても、一部であった
としても「良心」が麻痺することは避けなければならないということである。
 
ダビデの場合、「良心」が麻痺するきっかけとなったのは、いつも先頭に立って戦っていたの
に、アモン人との戦いのときには、戦いを家来たちに任せてエルサレムに留まっていたことで
ある。 それまで主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。 その戦いも勝利の見通
しがあったようである。 また、部下のヨアブから「我々だけで大丈夫ですから、王は留まってい
てください。」との要望なり説き伏せなりがあった可能性もある。 事実、ヨアブたちだけで勝利
していたからだ(T歴代誌20:1) また、ダビデはサウルに追われていたときには、戦いに次
ぐ戦いの日々で、息つく暇もなかったくらいであった。 だから今度も勝利を与えられるであろう
から、ゆっくりしたいという気持ちがあったのかもしれない。 しかし、たとえどのような理由があ
ろうとも、ダビデがエルサレムにとどまったことは、「良心」が麻痺するきっかけとなった。 
 
我々クリスチャンも日々の生活の中で「良心」がたとえ一部でも麻痺しないように気をつけなけ
ればならない。 何がきっかけになるのかわからないからこそ、絶えず主の方に目を向けてお
くことが必須である。 とにかく誠実に主に尋ねること、絶えず祈ること、神に依り頼むことをし
ていき、キリストとしっかりつながっていたいものである。 そして、正しい「良心」を保っていき
たいものである。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 12:2
   信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・
 
★新約聖書 へブル人への手紙 9:14
   まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその
   血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕え
   る者とすることでしょう。




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