めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年10月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<みことばを心の深みに受け入れる重要さについて:1列王記13章の神の人から思考>


★新約聖書 へブル人への手紙 4:12
   神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
   かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
 
★旧約聖書 詩編 66:10〜12
   神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。
   あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。
   あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、
   水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
 
列王記 第一 13章「神の人(預言者)」からの学びは、めんどり通信/2013年10月6日で学
んだが、今回、別の方面から見てみる。 簡単にあらすじを書いてみる。 ソロモン王の死後、
「主のことば」通り、イスラエル王国は北と南に分裂した。 ソロモンの家来だったヤロブアムが
北イスラエル王国の王となってから、北イスラエルは、神が忌み嫌われる偶像礼拝の道へと
まっしぐらだった。 ヤロブアムはベテルに祭壇を築き、偶像を安置し、民を罪の道へと歩ませ
た。 そのようなとき、南のユダから一人の神の人が主の命令によってベテルにやって来た。 
ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
 
神の人は、その祭壇に向かって主の命令を呼ばわって言った。 また、その主のことば証明
するための しるしも語った。(T列王記13:2,3) するとヤロブアムが彼を捕えよ。」と言うや
いなや、ヤロブアムの手がしなび、戻すことができなくなり、神の人主のことば従って与え
たしるしが実現した。 あわてたヤロブアムは、主に願ってくれるよう神の人に言い、手をもと
に戻してもらった。 ヤロブアムは、王宮で一休みするように勧め、お礼をしたいとも言った。 
すると神の人は、それを断り、ベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。
 
この一連のことの詳細をベテルに住んでいた老預言者の息子たちが、父に語り聞かせた。 
父は、すぐろばに乗って神の人のあとを追って行った。 神の人は、樫の木の下にすわってい
た。 老預言者は、神の人を食事に誘ったが、神の人は、ヤロブアムのときと同じように断っ
た。 しかし、老預言者は、御使いが来て、「その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさ
せ、水を飲ませよ。」と命じたとだました。 神の人は、だまされたことに気づかず、その人は彼
といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。 彼らが食卓についているとき、神の人
を連れ戻した老預言者に、「あなたは命令を守らなかったので、あなたのなきがらは、あなた
の先祖の墓には、はいらない。」という「主のことば」が臨んだ。 
 
神の人が、パンを食べ、水を飲んで後、その人は立ち去ったが、途中、一頭の獅子に出会
い、殺されてしまった。 そこを通りかかって、その死体と獅子を見たことを人々から聞いた老
預言者は、すぐに出かけて行き、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄り
の預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。 そして、老預言者は、息子たちに、自分
が死んだら、神の人を葬った墓に私を葬ってくれるように言ったということである。 そして、こ
の出来事の後も、ヤロブアムは悪の道を離れて立ち返ることがなく、ヤロブアムの家は、地の
面から滅ぼし去られることになった。 このところで今回、思考するのは、神の人が、ヤロブア
ムと老預言者に答えたことばである。 「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたと
いっしょにまいりません。(T列王記13:8)」の言い方については、めんどり通信/2013年10月6日
で思考したので参照してほしい。 
 
さて、この神の人は、ヤロブアムと老預言者に答えるとき、「『そこではパンを食べてはならな
い。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからで
す。(T列王記13:9,17)」と、自分に語られている「主のことば」を、そのまま打ち出している。 
このような答え方はどうなのか?  イエスは悪魔の誘惑を受けたとき「・・・と書いてある」
書のことば応対された。 このとき、悪魔も聖書のことば知っていた。 悪魔も聖書のこと
でイエスを誘惑しているからだ。(マタイ4:1〜4:10) 
 
ところが、神の人に命じられた「そこではパンを食べてはならない・・・」ということばは、この人
だけに語られた「主のことば」であり、「主の命令」であり、その人だけが知っていることばであ
る。 主とその人だけの関係である。 だから、この神の人は、その「主のことば」を心底から
受け入れて、その「主のことば」に固く立って、毅然とした態度で断るべきであった。 自分に語
られた「主のことば」「主の命令」を人に告げる必要がある場合と告げずに自らがしっかり受け
取り、心に留めて、それを足場に言動すべき場合がある。 自分だけに語られた「主のことば」
を必要もないのに人に話す場合、それは「主のことば」を軽んじていることになる。 「主と主の
ことば」の前にへりくだっていないことになる。 当の本人は、そのようなつもりはなくても、その
軽んじが、ともすれば高ぶりへと誘導され、道を逸らさせる要因になる危険性があり得る。
 
人は、表面上だけ毅然とした言動を取っても、心底に「主のことば」に従い得ないものを潜ませ
ていたなら、悪魔や悪しき霊どもの思うつぼになる。 ただ、心底にある主に従い得ない「思
い」「願い」などがあることに気づいていない場合もある。 主に対して、あまりにも熱心な場
合、案外、気づきにくいかもしれない。 その熱心が肉(生まれながらの性質)からのものが強
いとき、むしろ、自分は心から従っていると勘違いする場合があり得る。 しかし、主は、それら
「思い」「願い」すなわち、その人の「本心」「本音」に、主に従い得ないものがあること
に気づかせ、それから離れさせ、捨てさせるためにも、その人を「試される。」 その肉の熱心
を、神の愛によって押し出された霊からの熱心、すなわち聖霊の導きによる熱い心に変えられ
るためである。
 
詩編66篇10節新共同訳では「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを
試された。」と書かれている。 人は、神の「試し」「練り」すなわち神からの「試練」「訓練」
を受けて、真に神に喜ばれる者、自分の思い、気分や願いに関係なく、いつでもどんなことに
も主に従うことができる者に整えられる。 神からの「試練」は、詩編66篇11節ことばのよう
に、人を手かせ足かせの状態にし、66篇12節ことばのように、人に敗北や絶望を体験させ
る。 そのような「体験」をしながら、人の自我は砕かれ、肉が切り落とされて、心は磨かれ、鍛
えられて、神に対し純粋な者、素直な者、自分を捨ててでも主に従って行く者へと変えられてい
く。 そのようにしてくださるのは、神のあわれみによる。 そして、そのことで「神の栄光」が現
われる。
 
もし、この神の人が、ヤロブアムに自分に語られた「主のことば」を言わず、むしろ、自分に命
じられていた「主のことば」を心底受け入れ、その「主のことば」の上に固く立って、ヤロブアム
の誘いを毅然と断っていたなら、老預言者による「試し」はなかったのかもしれない。 あくまで
推測ではあるが。 老預言者による「試し」は、神の人主のことば」に最後まで従うことが
できるようになるための「神のあわれみの試し」と言えるかもしれない。 
 
また、神の人は、神のご用が終わったなら、べテルからユダへ速やかに帰るべきであった。 
神と出会う場所であったべテルは、当時、ヤロブアムによって金の子牛が置かれ、偶像礼拝を
される場に変質していたのである。 まして、そのご用は、人に感謝されるものが含まれていた
のだから尚更である。 老預言者が神の人のあとを追いかけて行くと、彼は、「樫の木の下に
すわっていた」と書かれている。 樫の木の下までは、それほど離れていたわけではなかった
ようだ。 神の人と老預言者が、老預言者の家までいっしょに帰って、食事をしたと書かれてい
るからである。 ユダを出てから、神のご用を終え、ほっと一息ついて、休憩していたのかもし
れないが、彼の心の奥にあった思いの中に「贈り物」「お礼」に対する若干の未練があったの
かもしれない。 もたもたしているということは、何かしら、そのご用に対しての人からの期待を
持っているということである。 
 
いずれにしても、「主のことば」は心の奥深くに受け入れ留めて、言動するときの足場となるこ
とが重要である。 「神のことば」「主のことば」は、神ご自身であるヨハネ福1:1) だから、
神のことばには力があり、その上、主は「人のうちにあるものを知っておられる」ので、人の最
も深みに潜んでいる神に喜ばれないもの、主に従い得ないものを浮き彫りにさせ、取り除くこと
ができる。(ヨハネ福2:25) ただ、人が「みことば」を心底受け入れる必要がある。 「聖書の
ことば」にしろ、直接語られた「主のことば」にしろ、人を通して自分に語られた、もしくは出来事
などを通して語られた「神のことば」「主のことば」にしろ、心の深いところで受け入れず、留め
ていないなら、鳥に食べられたり、惑わされたり、信仰から離れたりするのである。(ルカ8:4〜
15)
 
さてT列王記13章神の人が主の命令によってヤロブアムに対して語った「主のことば」
は、南のユダ国のヨシヤ王によって成就した。 預言では、ヨシヤという名まえまで語られてい
た。 この神の人の働きは、約3百年以上経ってからも町の人々に知られていた。 神の人
働きが残ったというより、一旦語られた「主のことば」は、必ず成就するからである(U列王記
23:15〜17) しかし、この神の人に対する主のあわれみも感じる。
 
結局、人は心の奥深くに潜んでいる「思い」「願い」を主に探っていただき、きよめられる必
要があるということだ。 一人一人に応じてではあるが、「主の試し」すなわち主からの「試練」
「訓練」は、必須であるということだ。 特に、主のために働きたい、主に用いられたいと願って
いる者は尚更である。 とにかく、思い込みではなく、事実、聖霊の流れ乗っていたいもので
ある。 聖霊の流れ乗っているなら、正しい(霊の)耳で「主のことば」を聞き、心の深みで正
しく受け取り、心の奥に留まることが出来るようにしてくださるであろう。 そうして、主が一人一
人に応じて自我を砕き、肉を切り取ってくださって「神のあわれみ」「神の栄光」を見つつ、体
験しつつ、主なる神に「神の栄光」をお返しして、主なる神に喜んでいただける者と整えられる
であろう。 そのような者になりたいものである。 
 
★旧約聖書 詩編 66:16
   さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。
 
★旧約聖書 箴言 4:4
   父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。
 



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