めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年10月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<偽預言者にだまされないために:T列王記13章の神の人から学ぶ>



★新約聖書  ガラテヤ人への手紙 5:16
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
   なことはありません。
 
★旧約聖書 箴言 4:23
    力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
 
★旧約聖書   エレミヤ書  12:3
        主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。
 
旧約聖書 列王記 第一 13章に2人の「預言者」が登場する。 当時のイスラエルは、
北イスラエル王国と南のユダ王国に分かれていた。 北イスラエルの王ヤロブアムは、イスラ
エルの民が、神殿のあるエルサレムに礼拝へ行き、そのまま南のユダ王国に帰り、自分を殺
すことを恐れたので、金の子牛を造り、ユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五
日と定め、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を立てて人々の心を安心させようとした。
(12章) そのヤロブアム王に神は、南のユダ国から、ひとりの神の人(預言者)をべテルへ遣
わした。 遣わされた預言者は金の子牛が祭られている祭壇に向かって「祭壇よ。・・・おまえの
上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、
人の骨がおまえの上で
焼かれる。』」
と神からの「預言のことば」を語った。 そして、主の告げ
られたしるしとして
「祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
と叫ぶと、ヤロブアム王はその
預言者を捕らえ
ようとした。しかし、神が介入され、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すこと
ができなくなった。
 
そのとき、神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼ
れ出た。 手を元通りにしてくれるよう懇願するヤロブアムのために、預言者が神に祈ると、ヤ
ロブアムの手は元通りになった。 王は喜び、預言者にお礼がしたいと、家に来て食事をする
ことを勧めた。 しかし、預言者は「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっ
しょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。主の命令によって、
『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならな
い。』と命じられているからです。」と断り、来た道を通らず、ほかの道を通って帰って行った。
 
ところが、その一切の出来事を伝え聞いたべテルの老預言者が、その神の人(預言者)を追っ
て行った。 当時のべテルの預言者たちは、この世に染まり、神から与えられている預言者と
しての権威を使うことができない状態だった。 そういう中で、老預言者たちは、果敢な神の人
の姿に感動したのかもしれない。 老預言者は、神の人(預言者)に出会って、「私といっしょに
家に来て、パンを食べてください。」と言った。 しかし、神からそのことを禁じられていることを
話して断ると、老預言者は、自分も同じ預言者であること、御使いが私に「『その人をあなたの
家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」と言ってその神の人を
だました。 老預言者のことばを信じた彼は、老預言者の家、すなわちべテルへ引き返した。 
彼らが食卓についていたとき、べテルの老預言者に本当の「主のことば」がのぞんだ。 それ
は、この神の人(預言者)が「主のことば」に背いて飲み食いをしたことへの神の報いに関する
ことだった。 そして、その通りに、彼は帰りに獅子によって殺されたということである。
 
南のユダ国から来た預言者は、神からヤロブアムに対しての「ことば」を預かり、それを伝える
ため、すなわち主のご用のため、北イスラエル国のベテルのヤロブアム王のところに来た。  
この預言者自身にも、「神のことば」が語られていた。  それは、北イスラエル国のベテルで
「パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならな
い。(1列王記13:8,9)」という「ことば」だった。
 
しかし、この自分より年上の老預言者の言葉を、あっさりと信じ、自分に最初に直接、語られて
いた「神のことば」に背いたが、彼自身は、決して「神のことば」に背いたなどとは思っていな
かったと思われる。  むしろ、新たな「神のことば」、それも自分より経験豊かで、尊敬に値す
ると見受けられる老預言者に与えられた「神のことば」に従っていると思っていたのかもしれな
い。  それでも、神から見られた事実は、そに預言者の行動は、神に背いたのである。  それ
にしても、獅子に殺されるとは、裁きが厳しいのではないかと考えられなくもない。  しかし、
「預言者」といえば、「神のことば」を預かるものである。 「神のことば」を預かることは、「神で
ある主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらな
い。(アモス書3:7)」と書かれているように、厳粛なこと、特別なことなのである。 「神のことば」
「みことば」を扱うすべての務めは同様である。 今日の牧師や教師など教会の指導者は特に
注意すべきであろう。 ヤコブの手紙3章1節には「私の兄弟たち。多くの者が教師になっては
いけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と書かれ
ているからだ。
 
さて、この南から来た預言者の心の奥にある本心、本音と、民数記22章で登場するバラムが
心の奥に持っていたものとは、共通するものがある。 預言者バラムが当時のモアブの王バラ
クからイスラエルの民をのろってくれとの依頼を受けた。 王はバラムの下へ使者を送るが、
最初の依頼をバラムは神に尋ねて断った。 ところが二度目の使者は大ぜいの、しかも位の
高いつかさ達であるうえ、多くの銀や金を提供すると申し出た。 バラムは口では「たといバラ
クが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、・・何もする
ことはできません。・・(民数記22:18)」と言ったが、心は「銀や金の満ちたバラクの家」にひか
れていた。 それは最初、神は「一緒に行ってはならない。」と語られているにも関わらず、「
が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。(民数記22:19)」という彼の言
葉でわかる。 本音の表れである。 このときは、バラムは神から「ことば」を預かり、イスラエ
ルをのろわず、祝福したが、後になっても、富を欲するというその本心、本音を放さず変わらな
かったバラムは、イスラエル人に殺された。(ヨシュア記13:22、Uペテロ2:15、ユダ1:11) 
 
このバラムの言葉、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても・・(民数記22:18)」
T列王記13章の神の人(預言者)の言葉、「たとい、あなたの家の半分を私に下さって
も、・・・(T列王記13:8)」は、言葉の表現が同じというだけでなく、何よりも心の奥にある本
心、本音が同じところがあるということである。 「銀や金の満ちた彼の家」「あなたの家の半
分」、これらの言葉から彼らの心の奥には「富」に対する「思い」「願い」が執着していたようであ
る。 「神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ6:24)」とイエスは言われた。 
 
人は、重要な場面、大事な場面では、何を話したらよいのか、どのように言ったらよいのかと、
自分の語る言葉に注意を払うものだが、そういう時にでも本心、本音が、案外、言葉の端々で
垣間見られるものである。 何気なく話している日常の中ではなお更であろう。 自分の本心、
本音が出ないように細心の注意を払っていたとしても、やはり、完全に隠すことはできないもの
である。  表面は繕った言葉を話していても、やはり、完全に隠すことはできないものである。  
結局、心の深層部に隠れている「思い」「願い」「考え」が、主の否とされるものがないのかどう
か、「肉欲」から出て来ているものであるのかないのかを吟味するということも大切と思われ
る。 聖書に書かれている「肉の欲」という心は、人を罪へと誘い、信仰から迷い出させ、滅び
へと向かわすようであるからだ。 
 
また、自分に語られた「主のことば」を心の深いところで受け取ることが必要である。 自分を
通して、他の人に語られる「主のことば」は、正確にぶれずに伝えることはし易いかもしれない
が、自分に語られた「主のことば」は、自分の心の奥にある本心、本音によっては、いつでも揺
るがされて、騙される危険性があるということだ。  また、「主のことば」であるのに、自分の解
釈を入れて自分の都合のいいように受け取ってしまう可能性もある。
 
いずれにしても、「主のことば」「聖書のみことば」「神のことば」を、主が望まれるように受け取
り、「主のことば」から離れないためにも、心の奥に、主が喜ばれないものを潜ませていてはな
らないということである。  偽預言者に騙されないために、「真理」である主イエス・キリストを知
ることが一番重要なことであるが、自我の砕きや肉(生まれながらの性質)の切り取り、清めら
れることも必須なのである。  主は愛するご自身の子を試練の火を通して清め、訓練される。 
試練も訓練も神が神の子を愛するがゆえに、神が許されるのである。  我々は日々、自分の
心を主に吟味していただき、純粋な心をもって主に祈り求めていきたいものである。 
 
★新約聖書  第一コリント人への手紙 7:31
   世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
 
 



めんどり聖書研究会