めんどり通信/2014年8月3日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「神に見捨てられた」と感じる経験は大切な訓練試練である:アブラハム、ヨセフ、ダビデから学ぶ> |
|
★旧約聖書 詩編 22;1-3
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いになら
ないのですか。私のうめきのことばにも。 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお
答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イス
ラエルの賛美を住まいとしておられます。
●主イエス・キリストを信じて本当のクリスチャン(キリストに従う者)となった人は、主によって
「信仰」も「霊」も成長させていただく。 日々の生活の中で「祈り」、様々なかたちで「神のみこ
とば(聖書のことば)」に触れ、成長していく。 主を信じる者たちとの交わりも茶話会にならず、
主の望まれるようなキリストにある交わりとなっていく。 また、聖霊の導きによって、いろいろ
な経験を積み重ねていき、主イエス・キリストを実際的に知るようになってくる。 主イエス・キリ
ストと交わり、成長していくに連れ、ますます自分の内側にある神に喜ばれないもの、主に従っ
て行く上で妨げとなるものが何であるかを教えられ、愕然とするも主が変えてくださる神のみわ
ざに心から感謝するようになってくる。 主は、ご自身が選ばれている真に主に従って行こうと
している者たち、すなわちその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えら
れる。(へブル12:6)
訓練試練の中でも特に苦しく感じるのは、「神に見捨てられた」と感じる時である。 そのような
体験を聖書の登場人物の中で主が「良し」とされた者たちが通っている。 「信仰の父」と言わ
れるアブラハムの場合。 アブラハムが75歳のとき、主がアブラハムに直接、「あなたは、あな
たの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(12:1)」と言われた。
その後、アブラハムに神は何回も「子孫繁栄の約束」、「地上のすべての民族を祝福する者に
なる約束」、「子孫に土地を与える約束」を語られた。 しかし、アブラハムは「主と主のことば」
を信じたが、約束を待つことにおいて失敗した。 アブラハムは、高齢の者から子どもが産ま
れるはずはないという人間の常識的な見方をした妻サラの言い分を受け入れ、若い女奴隷ハ
ガルをによって長男イシュマエルが産まれた。 「神の約束のことば」を無下にしたのである。
この時から13年間、神はアブラハムに顕現されず、沈黙された。 この13年間について、聖書
には何も書かれていないが、アブラハムは「神に見捨てられた」と感じ、苦しんだのではないだ
ろうか。 しかし、13年間は無駄ではなかった。 苦しみの中でアブラハムがしたこと、それは、
それまでに語られていた「神のことば」に返ることだったのではないかと推測できる。 なぜな
ら、13年経って99歳の時、神はアブラハムに現われ再び約束のことばを語られたが、最初に
語られたことばが「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」で
あったからである。 神は、ご自身の前を真にへりくだって歩もうとしない者には、このようには
語られないからである。 13年の間に、アブラハムは、ある面、砕かれたと神は見られたと思
われる。
ヨセフの場合。 17歳の時、畑でまっすぐに立っていたヨセフの束に兄たちの束がおじぎをして
いた夢と太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいた夢を見た。(創世記37章) この夢をヨ
セフは「神からの啓示」、「主からのことば」と受け取っていたように思われる。 この夢の通り
になるまで、ヨセフにとっては苦しみの多い過程だった。 特に、兄たちによってイシュマエル人
に売られエジプトに連れて行かれた時は「神に見捨てられた」と感じたのではないだろうか。
しかし、苦しみの中でヨセフがしたこと、それは、「夢」、すなわち「主からのことば」に返ること
だったのではないだろうか。 その後、いろいろな理不尽なことや苦しいことがあっても主はヨ
セフとともにおられたので乗り越えることができた。 ヨセフは、「神に見捨てられた」と感じるく
らいの苦しい経験を通ることによって、砕かれ整えられて、ますます主が喜ばれ、主の方がと
もにおってくださったのではないだろうか。
ダビデの場合。 ダビデの生涯は波乱万丈だった。 密かに、イスラエルの王としての油注ぎ
をサムエルから受け、主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下り、石投げで巨人ゴリヤテ
をやっつけて華々しく登場したものの、サウルに妬まれ、命を狙われ、苦しい逃亡の日々を過
ごした。 公にイスラエルの王として立った後も息子アブシャロムに反逆され、命を狙われ、逃
亡するようにして宮殿を追われた。 ダビデの生涯は、苦悶の日々が多かったが、その中でも
サウルに執拗に追われ、イスラエルの仇敵であるペリシテの地で過ごし、イスラエルとペリシテ
の板挟みになっていた日々が最も苦しんだときであると思われる。
また、イスラエルにつくかペリシテにつくかを明確にしなければならなかったとき、神の計らいで
その戦いに参加しなくてよくなったが、ダビデたちの留守の間に住んでいた集落がアマレク人
に襲われ、焼き払われ、家族もすべて捕虜にされて連れ去られてしまった。 このとき、それま
で共に戦い共に行動をしていた民がみな、ダビデを石で撃ち殺そうとしたときも、最も苦しいと
きであったと思われる。 詩編22篇は、そのようにダビデが四面楚歌状態の「神に見捨てられ
た」と感じたときに歌われたものだと思われる。 しかし、「ダビデは彼の神、主によって奮い
立った。」と書かれている。(Tサムエル30:6) 苦しみの中でダビデがしたことは、それは、サ
ムエルから、兄弟たちの真中で、王としての油注ぎを受けたという、「主のことば」にも等しい体
験に返ることだったのではないだろうか。(Tサムエル16:13)
このように見てみるとアブラハムもヨセフもダビデも、「神に見捨てられた」と感じたときにでも、
とにかく「主と主のことば」や「主のことばにも等しい体験」に返ることができた。 それは、彼ら
の心の奥、霊が、神に対して素直だったからではないだろうか。 彼らの心の奥には、表面上
どのようなことが起きようと、どういう状況になろうと「主なる神への信頼」と「神への愛」がどん
と据えられていたと思われる。 だから心は苦しくてもがいていても、「主と主のことば」に返る
ことができたのであろう。 主がダビデを選ばれたとき、主は、サムエルに「人はうわべを見る
が、主は心を見る。(Tサムエル16:7)」と語られた。 主が見ておられるのは、「主なる神に対
してどうなのか」という「心」、「主のことばに対してどうなのか」という「心の奥にある思い」を見
ておられると思われる。
「主と主のことば」に返ることは、「神のもとに返る」、「キリストのところに戻る」ということであ
る。 「主のもとに返る」とか「キリストのところに戻る」ことは、どのような形であれ、主から「こと
ば」を頂いているなら、ある意味、返りやすい、戻りやすいかもしれない。 アブラハムもヨセフ
もダビデも、「主からのことば」を、直接、語られたり、夢でもって与えられたり、預言者を通して
語られたり、体験でもって与えられたりした。 どのような形にしろ「主からのことば」が与えられ
ているなら、「ことば」に返りやすくなるだけでなく、「主からのことば」、「神のことば」は生きてい
て、力があり、人のうちで大いに働いてくださる。(Tテサロニケ2:13、へブル4:12) ただ、「こ
とば」が語られ与えられるということは「神の恵み」であるが、その「ことば」を無下にしているな
ら、他へ「移される」ということがあり得る。(めんどり通信2014年2月2日参照)
約29年前、著者も「神に見捨てられた」と感じる体験をした。 当時、教会の牧師から指導や教
えを受ける中、メッセージなど他いろいろなことが、なかなか牧師の望まれる通りにならなかっ
た。 牧師の望まれるようにならなくてはと、勧められたベニーヒンの本を必死で何度も何度も
読んだが、少しも心に入ってこなかった。 今思えば、聖霊の守りであったが、当時はそんなこ
と知る由もなかった。 著者を浮上させるために使った言葉であろうとは思うが、「おまえはイエ
ス様に嫌われている」とよく言われた。 ある日、牧師が「今すぐ教会に来なさい」ということで、
車を飛ばして教会へ向かった。 「また怒られる。」と思うと何とも心が重たく、沈んで浮上でき
なかった。 そのとき、ふと詩編のことばの一節が思い出された。 「人の歩みは主によって定
められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはな
い、主がその手を助けささえられるからである。(詩編37:23,24)」その「ことば」が浮かんだ途
端、何とも言えないくらいの平安、安心、明るさが戻って来た。 教会に着いて牧師の顔を見る
と、また落ち込んでしまったが、その後も主が与えてくださった「ことば」に戻っている。 自分の
歩みは主によって定められた道を進んで行くことが著者にとっても一番良いことだと痛感して
いる。 そして、今まですさまじい出来事が多々あったが、この「ことば」通り、全く打ち伏せられ
たことはない。
また28年前、教会を追い出された後、教会不信、牧師不信、クリスチャン不信、人間不信に
陥って息をするのもしんどいと感じる時期があった。 「神に見捨てられた」のかと感じるほど
苦しかった。 悪しき霊からの声のようなものが「お前はもう終わりだ」と迫ってきた。 そのと
き、「ひとりでも滅びることを望まず(Uペテロ3:9)」の「ことば」がよぎった。 一方では、その声
が言うように自分はどうしようもない者だ。主に従って行く資格さえない、という思いがあり、もう
一方では、自分はこれほど愚かな者であっても、主はわたしが滅びることを望んでおられな
い、という思いがわきあがっていた。 こころが真っ二つに分かれるような感覚だった。 それ
で、必死に一方の思いを掻き消し、離して、「このようなわたしでも滅びることは神のみこころで
はない」と叫んだことがある。 車を運転しているときだったが、悪しき霊に向こうへ行けと言わ
んばかりに大きな声で叫んだ。 主が「ことば」を与えてくださったことは、本当に「神の恵み」で
あり「主のあわれみ」であった。
さて、ちなみに、詩編22篇1篇の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです
か」は、十字架上でイエスが直接叫ばれた「ことば」である。 イエスにとっての最大の苦しみ
は、父なる神から離れた状態にあることだった。 「わたしと父とは一つです。(ヨハネ福10:30)」
と仰せられていたイエスが、父から見捨てられた状態に置かれたのである。 我々の罪を受け
てくださり身代わりになられたイエスは、十字架上で罪そのものとなられたゆえに、聖なる父な
る神から目をそむけられた。 主イエスは、ご自身は誰のために何のために苦しまれているか
をご存知だった。 「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威
があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたので
す。(ヨハネ福10:18)」と前もって十字架の苦しみは覚悟されていたと思われる。 しかし、主イ
エスの苦しみは、我々の想像のはるか及ばない程であった。 人を救うという神のご計画ゆえ
に主は苦しまれたのである。 そして、我々は、主の叫びは「神に見捨てられた」ままでなかっ
たことは、3日目によみがえられたことによって知った。
「神に見捨てられた」と感じる体験は、人にとって訓練試練である。 「神に見捨てられた」と感
じたところからの主への叫びは、決して無駄になることはない。 むしろ、その体験は人を鍛え
る。 人は、窮地に追い込まれたとき、いざっ!というときに、今まで気づかなかった真実な気
持ち、本当の心が現れるものである。 また、人は常々、心の奥に、本当の自分の思い、願
い、考え、気持ちをしまいこんでいることがある。 主が、我々の心の奥を見られて、「良し」とさ
れることを願う。 そのためにも、主からの「ことば」を求め、日々、絶えず「キリストのところに
返る」こと、「主と主のことば」に戻ることに取り組んでいきたいものである。
★旧約聖書 詩編 22:21-24
・・・あなたは私に答えてくださいます。主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべて
のすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。まことに、主
は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、
彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
|
|