めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年6月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<イエス・キリストが人を分ける試金石>


★新約聖書 ルカによる福音書 7:23
   だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 12:3
   主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。・・・
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:4-8
   主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける
   石です。・・・「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者
   は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊い
   ものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが
   礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくの
   は、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
 
●著者が聖霊に触れられてもう34年になる。 主イエス・キリストのことを一人でも多くの人に
伝えて救われてほしいと心から願い伝道を始めたのは約30年前のこと。 「イエス・キリストの
ことば」「福音」を伝える機会を主に与えられ、いろいろな人に話してきた。 「主のことば」
話すと、すぐに信じ受け入れる人も多かった。 しかし、当時、その中の多くの人が、話す側の
著者がまだまだ砕かれていなかったという要因もあるが、他様々な理由でそれ以上、「主のこ
とば」を受け入れようとしなかった。 反対に、最初、疑い用心していた人たちの中には、信仰
に堅く立った人たちもいた。 
 
また、一人一人、人間的に良い人、すばらしい人、賢い人、短気な人、嫌味な人、意地悪な人
と様々な人がいたが、その中でも霊的にも悪くはないし、人間的にもやさしいし何事についても
正しい判断をされていると思われる人に、「イエス・キリストのことば」「福音」を伝えると耳を
塞ぐということがあった。 また、世的な話しははずんでよくするが、「福音」「主のことば」とな
ると疎んじたり、軽視する人も多かった。 聖書に書かれている「神の救い」に与(あず)かるに
は、ひと言で言うなら、イエス・キリストを信じるか信じないかである。 そのことで、「神の救い」
に与かる人、与からない人の区分ができる。 言うなれば、イエス・キリストが人を分ける試金
となっている。 神は本来、全ての人が救われることを望んでおられる(Uペテロ3:9) 本
来、人が救われることは「神のみこころ」である。 イエス・キリストを信じないということは、
によるなら、「神のみこころ」を拒んだことになる。 まことに、イエス・キリストは人を分ける
金石であり、信じない者にとっては「つまずきの石」である。
 
また、イエス・キリストを自分の救い主であり神であると信じた者たちにとっても、イエス・キリス
が人を分ける試金石、つまずきの石となることがある。 イエスが十字架にかかられる前、弟
子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。(マタイ26:31)」と言われ
た。 その「主のことば」にペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決
してつまずきません。(マタイ26:33)」ときっぱりと宣言した。 ほかの弟子たちも同様だった。 
ところが、その宣言の言葉むなしく、舌の根の乾かぬうちに弟子たちは、イエスを見捨てて逃
げた。 イエスのことば通り、ペテロたちは、イエスキリストという試金石につまずいたのであ
る。 ただ、全てをご計画され、見通しておられた主は、彼らを回復された。 そして、ペテロた
ちは、その後、主のために大いに用いられ、主の喜ばれる者としての人生を全うした。 
 
ペテロたちは、「つまずいた」ことが、むしろ彼らの自我が砕かれ、肉が切り取られるための
「益」としていただいた。 「つまずいた」ことによって、心の奥に隠されていた主が「良し」とされ
ない本心、本音が浮き彫りにされたからである。 彼らは、相当な苦しみを通ることにより、自
我が砕かれ、肉が切り取られて、主が喜ばれる者に、変えられていった。 これで完了という
わけではないが、明らかに彼らの「信仰」「霊」も強くなった。 「自我」が砕かれ、「肉」が切り
取られることと、「信仰」が強くなること、「霊」が強くなることは、明らかに関係がある。 「信仰」
が成長し、「霊」が深みに入っていくと、「主のみこころ」をより深いところで正しく知ることができ
るようになるからだ。 ペテロたちは、その後も、ますます「信仰」「霊」も成長しながら、聖霊
に導かれ主に従って行った。
 
ところが、群集は、井戸掘りをせず、トンネルを通ることを拒み、舟には乗らず、自分の思い、
願い、考えを押し通した。 だから、すぐに惑わされ、主を裏切った。(めんどり通信/2013年12
月8日2014年1月26日2014年5月11日2007年5月27日参照) そして、回復されることはな
かった。 それは「つまずきの石、イエス」につまずいても、苦しむどころか、イエスに対して怒
り、蔑み、疎んじ、軽視したからである。 「福音」は、彼らにとって何の関係もなく、聖霊が働こ
うと思われても、働くことができない状態であった。 土地でたとえられる「心」が深く耕されてい
ない者は、イザッというとき、主から離れる可能性が大いにあるということである。 
 
また更に、天の父なる神を信じ、聖書のことばを信じている者にとっても、イエス・キリストが人
を分ける試金石つまずきの石となることがある。 パリサイ人や律法学者という当時の宗教
的な指導者たちは、イエスを拒んだ。 彼らは、律法(旧約聖書)をよく学び、研究をした。 そ
の真面目な姿勢は、人々から非常に尊敬されていた。 彼らの聖書に対する姿勢に生ぬるさ
はなかった。 非常に厳格で厳しいものであった。 昔の先祖たちの言い伝え加えて、厳格
に守ろうとしていた。(マタイ15:2) パリサイの意味は、「分離された者」で、律法を守らぬ人間
と自らを分離するという意味合いがあるという。 その名の意味の通り、彼らは、よく祈り、断食
をし、あらゆるものの十分の一をきちんとささげるなど、厳格に旧約聖書の律法を行なう生き
方をしていた。 それゆえに、律法学者やパリサイ人は、当時の人々から 「義人」と言えば、
パリサイ人だと誰もが考えていたくらいである。 
 
しかし、イエスから「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」と言われた。 た
だ、ギリシャ語では「忌まわしい」という言葉には、怒りと悲しみが混じり合っているという。 イ
エスは、ただ単に厳しく断罪されたというわけではなかった。 イエスは何とも言いがたい心の
痛みと嘆きと憤りをもって、彼らの偽善や思い上がりや人々を自分たちの間違った律法解釈
をもって滅びに導いていることを厳しく非難されたのである。 彼らも群集同様、聖霊が働こうと
思われても、働くことができない心の状態であった。 だから、イエスを拒絶した。 それは神に
従っていることだと思い込んでいた。 まことにイエス・キリストは人を分ける試金石であり、拒
絶する者にとっては「つまずきの石」である。
 
「つまずく」ということは「神のみこころ」「神のご計画」「神ご自身」を拒絶するということであ
る。 一方は、つまずいたまま、イエスに背を向け続けた。 一方は、神の愛によってつまずき
を許され、解放されイエスに従って行った。 ちなみに、イエスキリストという試金石による「つま
ずき」は、すべての人に起こり得ることである。  イエスキリストという試金石が、その人にとっ
「つまずき」となり、そのまま「つまずき」で終わってしまうのか、「つまずき」となっても、聖霊
が働いてくださり回復するのかどうかは、何によって違ってくるのであろうか。 
 
わたしたちの心を吟味される神は、人の心、それもその人の心の奥底にある「思い」「願
い」「考え」を探られ、主が「良し」とされないものは、一人一人に応じて、その人が気づくよう
に浮き彫りにしてくださる。 そのことを重んじている者は、浮き彫りにされた自分から出てきた
もの(肉、自我)と真剣に向き合い、真に悔い改めて変えられていく。 そうして「信仰」は成長し
ていき、その人の「霊」は強くなっていく。 イエスキリストという試金石は、その人を真に「救わ
れている者」「主が喜ばれる者」として取り分けられる。 
 
しかし、せっかく、主がその人の心の奥底にある、主が「良し」とされないものを、いろいろな形
で示されていても、それに気づかない者、それを認めない者、それから目を逸らす者などは、
主なる神に背を向けて自分が正しいとする道、主と何の関係もない道へと進んで行く。 箴言
(口語訳)14:2「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるもの
がある。」と書かれているが、そのことば通りである。 すなわち、イエスキリストという試金石
は、その人を「救われていない者」「主が喜ばれない者」として取り分けられる。
 
「その終りはついに死に至る」とあるが、我々人は、死後についてのことを、多く知っているとは
言えない。キリスト教会でも今まで多くの聖書学者や神学者、クリスチャンたちが、聖書に書か
れていることから、死後についてを解釈してきた。 それらの解釈から論争が繰り返されてきた
歴史があるが、著者は、死後については、神の領域だと思っている。 だから、主が教えて下
さろうとすることのみを知ることができれば良いと考えている。 ただ、言えることは、人間誰も
がいつかは死ぬ。 そして、死後に行き先、すなわち「天国か地獄」がある。 これが「真実」
ある。 イエスキリストという試金石救われている者」「救われていない者」に分け、「天
国へ行く者」「地獄へ行く者」に分ける。 厳粛なことである。 とにかく、真剣に主によりす
がって、神を恐れる歩みをしていきたいものである。 日々、神の御前にへりくだり、聖霊の導
きによって祈り、主に頼ってまっすぐな道を進んでいきたいものである。
 
★旧約聖書 伝道者の書 12:13
    結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これ
    が人間にとってすべてである。
 
 

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