めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年12月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<自分の心を深く深く掘り下げよ!>



★旧約聖書(口語訳)  民数記 21:17,18
   その時イスラエルはこの歌をうたった。「井戸の水よ、わきあがれ、/人々よ、この井戸
   のために歌え、笏とつえとをもって/つかさたちがこの井戸を掘り、/民のおさたちがこ
   れを掘った」。
 
★旧約聖書 箴言 4:23
   力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
 
●イエスの12弟子の筆頭ペテロは、イエスと出会う前は、ガリラヤ湖の漁師だった。 結婚して
家族もいたようである。 イエスと出会ってからも最初はまだ漁師の仕事をしていたようである。 
ルカによる福音書5章には、ペテロたちが漁をした後、網を洗っていた書かれている。 イエ
スはペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 当時の一般的な
漁獲法(投げ網漁方)では、深みに行くと魚が獲れなかった。 深みに漕ぎ出してから網をおろ
すことは、常識的に考えれば決して魚は獲れないはずだったが、「イエスのことば」に従ったペ
テロは、この後、「奇跡」を体験することになった。 「夜通し働いても、何一つとれなかった」
が、「イエスのことば」に従うと、「魚が両方の舟いっぱい」になった。 「深みに漕ぎ出す」は、
「霊の深みに漕ぎ出しなさい」ということである。 イエスは仰せられた。「わたしがあなたがたに
話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ福6:64)」 
 
いうなれば、「主のことば」「霊のことば」「いのちのことば」は、常識的、一般的な人間の解釈で
は理解できないということである。 霊でなければ理解できない、悟れないものであるということ
だ。 霊の深みに漕ぎ出して、はじめて神の方が我々に与えようとされている「神の恵み」を体
験することができる。 我々の方から求めて、その求めに応えてくださったり、様々な窮地から
救われたり・・・なども「神の恵み」である。 しかし、人間の側からではなく、一人一人に応じ
て、神の方から与えたいと望んでおられる「神の恵み」がある。 その「神の恵み」は、霊の深
みでなければ受け取ることができないものである。 そして、その「神の恵み」は、常に、世の
常識的、一般的、通常的視点から見ている人間にとっては「奇蹟」といわれるものである。 
 
「奇蹟」は、体験する者、目の当たりに見る者が、どこで体験し、見るかが重要である。 キリス
トが3年半地上でいやしや様々な不思議や奇蹟を現わされ、多くの人たちが体験し、目の当た
りに見てきた。 しかし、多くの者たち、群集はイエスを「十字架につけよ」と叫び裏切った。 多
くの弟子と呼ばれた者たちさえイエスから離れて行った。 彼らはみな、心の浅い部分、対処さ
れていない心、すなわち肉(生まれながらの性質)で、「奇蹟」を体験し、見たからである。 彼ら
にとって「奇蹟」「奇蹟」になっていない。 むしろ「奇蹟」が引き下げられている。
 
ペテロは、イエスから「深みに漕ぎ出しなさい」と言われ従ったこの時、漁師として持っていたプ
ライド、自信など彼のともすれば高ぶる要素となるものが砕かれ始め、世の常識などからの解
放が始まったと思われる。 この時がペテロの心が深く深く掘り下げられるスタートとなった。 
「主のことば」を悟り、「神が与えようとされる恵み」を霊の深みから受け取るには、高ぶりにつ
ながる自信やプライド、神の教えに反抗する可能性のある常識、すなわち自我が砕かれたり、
肉(生まれながらの神に反抗する性質)が切り取られる必要がある。
 
ペテロはその後も、「霊の深みに漕ぎ出す」ことの重要性をイエスを通して、いろいろな体験を
しながら学んだ。 それでも、一度にパッと霊の深みに入れたわけではない。 その時から
徐々に少しずつ、しかし確実に心の深み、霊の深みへと漕ぎ出した。 「霊の深みに漕ぎ出す」
ために人がすべきことは「井戸掘り」である。 旧約聖書には、「井戸を掘る」ことや「水をくむ」
ことが書かれている。 パレスチナの地は乾燥地帯で水は、人間にとっても家畜にとっても不
可欠なものであり、非常に貴重なものであった。 同じように「霊の深みに漕ぎ出す」ことは、
クリスチャンにとって不可欠なことである。 心の「井戸掘り」は必要なことである。
 
「井戸掘り」は、現代では機械もあるようだが、昔は原始的な手掘りだったようだ。 「井戸掘
り」は重労働である。  ただひたすら下へ下へ深き へと掘って行くが、深くなるにつれ、地面か
ら水が染み込んできて、泥水となって穴の中に溜まってくる。 その泥水を外に運び上げなが
ら、まだまだ掘り進んで行く。 水脈に当たるまでに、硬い岩盤や石に突き当たる。 それを突
き抜けるのが結構、大変である。 それを突き抜けると水脈から水がわき出てくる。 それと同
様に、我々の心のうちを掘り下げることも結構、大変なものである。 深くなればなるほど大変
な作業となる。 自分の内を、祈って祈って掘り下げていくことをしていくなら、主がいろいろな
出来事などを通して、日常生活のたわいもないようなことを通して、人の内に潜む様々な肉の
思い、肉の考え、しっかり握りしめている肉の願望など「神のことば」に従うのに妨げる肉から
のものに気付かせてくださるであろう。 それらのことは案外、自分では気付いていない場合
が多く、聖霊によって気付かせていただけるものだからである。 
 
ペテロは、主から多くを学び、主イエス・キリストの下で多くの失敗をしていく内に、段々と変え
られていった。 ペンテコステのとき聖霊を受けてますます大きく変わり清められたが、それで
も完全なる者としての終着点に到達したわけではなかった。 「井戸掘り」は、更に深くなって
いったと思われる。 あるときペテロが、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まってい
き、夢ごこちの中で幻を見た。 その後にカイザリヤのコルネリオから遣わされた三人の
者が訪ねてきたので、彼らとともにカイザリヤへ出かけて行き、コルネリオの家で「主のことば」
「主の福音」を語った。 一方、カイザリヤではコルネリオが祈りの中で御使いからペテロを招く
ように言われた。 ペテロが到着すると、コルネリオが集めた親族や親しい友人たちとともに、
主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。(使
徒10:33)」と敬虔な態度で語った。 ペテロが語る「みことば」耳を傾けていたすべての人々
に、聖霊がお下りになった。 異邦人がユダヤ人と同じ救いが与えられた。 主が大いにペテ
ロを用いられた出来事である。 
 
しかし、このことが使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに伝わると、ペテロがエルサレムに上っ
たとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難した。 ペテロが、割礼を受けていない異邦人と一
緒に食事したからだ。 それはユダヤ人にとっては律法に反していることであり、ユダヤ人はそ
うしてはならないことだったからだ。 しかし、非難されたペテロは、事の次第を順序正しく説明
した。(使徒11:4-17) 人々はこれを聞いて沈黙し、神をほめたたえた。 深みに漕ぎ出したペ
テロが、祈って祈って「井戸掘り」をした結果、聖霊が存分にペテロを通して働かれたことを見
ることができる。 ペテロも毅然と立つことができた。
 
ところが、それからだいぶ経って、ペテロがアンテオケの教会に来たときのこと。 それまで異
邦人クリスチャンと一緒に食事をしていたペテロが、ヤコブのところから割礼派の者たちが来
ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行った。(ガラテヤ2章) 
イエスを信じてもユダヤ人の中には異邦人と食事を一緒にしないとかユダヤ人は割礼をすると
かの規則を守っている者がいた。 しかし、コルネリオのとき、ペテロは主から直接、そういう
差別があってはならない、ユダヤ人と同じように異邦人も救われることを学んだはずである。 
ところが、異邦人から身を引き、離れて行くというあってはならない態度をとってしまった。 ペ
テロの行動、態度は、ほかのユダヤ人たちだけでなく、それまで主が喜ばれる働きをしていた
バルナバにまで悪影響を与えてしまった。 パウロはこの偽善を見て、ペテロに皆の前で面と
向かって抗議した。(ガラテヤ2:11) 
 
この時点でのペテロは「霊の深みに漕ぎ出」してから長い時が経っており、彼の心の「井戸掘
り」も深く深く進んで、すでに水脈に到達し、聖霊の水がわきあがっていたはずである。 それ
までのペテロの行動や言葉から、そのことが伺える。 それでも、このような大きな失態をす
る。 水脈に到達して、聖霊の水が順調にわき上がっていたのではなかったのか? これらの
ことから、聖霊が働かれ、用いられるようになったとしても、人は油断をしてはならないというこ
とであろう。 それまで順調にわき上がっていた水も台風や地震や近くの工事などで水が濁る
ことがある。 そのような場合、水質改善のための方策を取ることになる。 そうしてまた、きれ
いな水がわき上がるようになる。 同じように、我々にも台風や地震や近くの工事というような
悪霊が働くおそれが多々ある。 深みに掘り下げられれば掘り下げるほど、悪霊の働きも巧
妙でその人の弱いところを突いてくる。 だから、油断は禁物であるし、聖霊が自分を通して働
いてくださることに慣れることは禁物である。 我々は絶えず、「初めの愛」に戻り、へりくだるこ
とを忘れてはならない。 
 
ペテロは、パウロに指摘された後、悔い改めたという記述はないが、明らかに悔い改めたと思
われる。 その真の悔い改めこそが、水質改善のための方策である。 その後に書かれた
テロの手紙を見ればわかる。 たとえ信仰において霊において成長したとしても、隙のない悪
霊の攻撃の恐ろしさをペテロは身をもって知ったゆえ、ペテロの手紙の中に警告も書いたのだ
ろう。 我々はまだまだ「井戸掘り」の途中かもしれないが、たとえ水脈に辿り着いて聖霊が存
分に働かれたとしても油断することなく、ますます純粋に霊の深みへ進んで行きたいものであ
る。 そのためにも日々、祈りつつ聖書を読み、祈りに祈って聖霊に触れられたいものである。
 
★新約聖書  ペテロの手紙 第一 5:6、8
   ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時
   に、あなたがたを高くしてくださるためです。・・・身を慎み、目をさましていなさい。あなた
   がたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、
   歩き回っています。


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