めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年6月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<選別、聖別された主が良しとされた者が救いの「舟」に乗る>


★旧約聖書 創世記 7:1
   主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこ
   の時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
 
★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 17:17
   真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 4:3
   しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。
   主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
 
聖書に書かれている「舟」について印象的なのは、「ノアの箱舟」である。 新約聖書では、
福音書でイエスが説教をされたり、弟子たちを強いて乗せられたり、とイエスがおられるとこ
ろで、よく「舟」が登場する。(マルコ4:1、マタイ14:22) 旧約聖書に記されている「ノアの箱舟」
は、明らかに「救い」に関することである。 新約聖書では、激しい突風で舟が沈みそうになっ
てもイエスが一緒に乗っておられたので、風はやみ、大なぎになり救われた。(マルコ4:39、
6:51) 福音書を見ると、群集は「舟」に乗っている場面が書かれていない。 「舟」に乗って
いるのは、弟子たちである。 群集は、浜、湖のほとり、岸べの陸地(マタイ13:2、マルコ2:13、
4:1)にいた。 「舟」に乗ることは、「神の救い」「キリストの救い」と関係があるようだ。 尚、
「舟」とは、一般的に「教会」のたとえだと解釈されているが、「主キリスト」が一緒に乗っている
聖霊の流れに乗っているそのような「教会」のことを言う。 
 
また、「教会」とは、言うまでもなく、建物のことでなく、主イエスキリストを信じ、キリストの権威
のもとで、召しだされた者たちの集まりのことである。 「ふたりでも三人でも、わたしの名にお
いて集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)」というイエスのことば通
り、イエスが真中におられるところである。 新約聖書において、教会のあり方、具体的な詳
細、運営に関してはあまり詳しく述べられていない。 だから、もしかすると、我々が今まで見て
きた教会、今ある教会のあり方は、主がこれから建て上げようとされる「教会」のあり方、姿で
はないかもしれない。
 
さて、「舟」に乗る者はどのような者が乗るのであろうか。 「ノアの箱舟」のときには、主が、主
の前に正しいと見られた者が乗ることができた。(創世記7:1) 福音書では、イエスが許された
者が「舟」に乗ることができた。 「舟」に乗れる者は、ある意味、「選別された者」「聖別され
た者」と言えるだろう。 「選別された者」「聖別された者」とは、基本的には、自分は罪人であ
ると認め、その自分のためにイエスが十字架で死んでくださり、三日目によみがえられて今も
生きておられることを信じ、自分の救い主として、主イエス・キリストを信じ受け入れた者であ
る。 簡潔に言えば、主イエス・キリストを信じた者である。 
 
しかし、一般的に言われる「教会」に所属する、「教会」の中にとどまることが、この「舟」に乗っ
たことではない。 また「主イエス・キリストを信じた」ことは、基本的には「選別された者」「聖
別された者」と言っても、この「舟」に乗れる者は、神が「選別された者」「聖別された者」
あって、その判別は、その人が、神が一人一人に応じて望まれている「信仰」を全うしたかどう
かによって、明確になるであろう。 いわば、主イエス・キリストを本当に、真に、信じた者が、キ
リストへの「信仰」を全うできるのである。
 
新約聖書によると、主を信じる者は、主イエス・キリストの「弟子」「群衆」に分けられる。 イエ
スは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたが
たを任命したのです。」と言われたが、それは「弟子たち」に言われた。(ヨハネ福15:16) 群集
は、不思議な神のみわざや奇蹟、権威ある教えに驚嘆し、主をほめたたえたが、主に従おうと
はしなかった。 自分の必要に応じ、自分の都合に合わせた「信仰」だからである。 だから、
たやすく寝返る。 神が「選別された者」「聖別された者」とは、キリストの「弟子」である。
 
また、イエスが語られた「種まきのたとえ」では、道ばたに落ちた種、土の薄い岩地に落ちた
種、いばらの中に落ちた種は、実を結ばなかった。 良い地に落ちた種だけが、あるものは百
倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章) 
このたとえの種は「神のみことば」であり、「土地」は人の「心」である。 要は、実を結ばなかっ
た種が落ちた3種類の土地は、深く根を下ろすには土地が固すぎたのである。 道ばたも土の
薄い岩地もいばらの中の土地も耕されていない。 
 
良い地になるには、土地が耕される必要がある。 すなわち主からの訓練試練、試し受け
て、自我が砕かれたり、肉が切り落とされたりなど、生まれながらの性質や育ってきた中で作
り上げられてきた性質が変えられていく。 日々の忙しさの中で心に留めていなかったり、忘れ
ていたり、自分でも気づいていなかった神に喜ばれない本当の思い(本心)、願いを、人を通し
てなり、出来事なり、みことばなりで知らされたときには、素直に認めて、悔い改め、そこから
の解放、変革を主に求めていく。 そうして「信仰」が鍛えられ、「霊」が強くなっていく。 そし
て、主に最後まで従っていこうとする。 そのような者が「弟子」である。 主はご自身に従おうと
する本当の「弟子」に特別、目を留めてくださり、顕著に聖霊働いてくださる。
 
人は、救われた当初から良い地であることは、難しいかもしれないが、良い地になりうるかどう
かは、主がご存知である。 主の方に向いて、主からのものをいただこうとすることは、キリスト
を信じて間もない者でも信仰歴が短い者でもできることである。 そのように真に取り組んでい
る者には必ず聖霊の導きがある。 尚、この聖霊の導き、働きは、表面的に起こる事柄だけで
は判別しづらい場合が多々ある。 多くの人は、良い事がら、良い出来事が起こり、良い状況
になってくると聖霊が働いておられると受け取り、悪い、しかも「主のことば」と正反対の事がら
が起きたり、悪い状況、「主のことば」と正反対の状況になってくると聖霊が働いていないと判
断しがちである。 しかし実は、主が語られた「ことば」「みことば」通りになっていくためには、
その過程は順風満帆ではないことの方が多い。 むしろ正反対の場合を経験することが多々
である。 主は、そうして、人が本当に「主と主のことば」に返るかどうかを試されているように
思われる。(詩篇105:19)
 
いずれにしても誰がこの「舟」に乗っているのか、乗るのかは、主がご存知である。 一旦、こ
「舟」に乗ったから、もう何をしても大丈夫、この救いの「舟」から降ろされることはない、とい
うことはない。 そのように思い、考え、行動している者は、実は、この「舟」には乗っていなかっ
たということであると思われる。 人は、一人一人、「信仰」のレベルも霊」の深さもみな違
う。 主は、一人一人に応じた「信仰」のレベル、「信仰の働き」のレベルで「良し」とされてい
る。めんどり通信/2014年2月2日参照) 主が「良し」とされているなら、それでいい。 外側か
ら見て見える「信仰的な働き」の大きさで判断すべきではない。
 
旧約聖書、レビ記11章3節には「動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れ
ているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。」と記されている。 「反芻(はんす
う)するもの」とは、「みことば」を繰り返し繰り返し読みながら、「主がいわんとされること」「主
のみこころ」を悟っていくことである。 また、「ひづめが分かれている」とは、この世から分離さ
れていることであるが、要は、この世の基準人の基準から離れて、「主なる神の基準」「キリ
ストの基準」を握っていくようにということである。 このことに真剣に取り組むことが重要であ
る。 とにかく、「舟」に乗れるよう真に取り組んでいきたいものである。 すでに乗っていると思
われる者は、尚々、主のみこころを知って聖霊の導きに従っていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 7:9
   正しい神は、心と思いを調べられます。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12、13
   神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
   かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造ら
   れたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、
   さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
★新約聖書 使徒行伝 20:32
   ・・・みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御
   国を継がせることができるのです。
 

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