めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年2月23日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神からの試しについて:アダムとエバから思考>


★旧約聖書 エレミヤ書 12: 3
   主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。…。
 
★旧約聖書 申命記 8: 5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。
 
★旧約聖書  詩篇 11:7
   主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
 
聖書に、神はご自身が愛する者を試され、訓練なさることが記されている。(ヘブル12:6、箴
言3:11 ) 創世記22章には、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが、神の「試し」を受けたことが
記されている。 アブラハム百歳、妻サラ90歳の時、神の約束どおり、子どもが生まれた。 奇
跡的なことである。 ところが神はその子イサクを「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささ
げなさい」と仰せられた。 アブラハムはその命令に従って、モリヤの山の上で、刀を取って自
分の子イサクをほふろうとした。 そのとき、主の御使いが止め、アブラハムが「自分のひとり
子さえ惜しまないで神にささげ、神を恐れることがよくわかった」と仰せられた。 神の「試し」
合格したと言えよう。 「神から与えられた自由意志を正しく用いる」ことができたからである。 
その他、神の「試し」に合格した者が、ダビデ、ヨブ、・・など他多々いる。
 
新約時代に入ってペテロの場合。 主を愛し、主に従って行こうとする熱い思いは強かったが
血気盛んでよく失敗した。 火の中水の中、たとえ死ぬようなことがあっても主に従って行きま
す、と言ったにも関わらず、ユダヤ人たちがイエスを捕らえに来ると他の弟子たちと共に逃げ
てしまった。 逃げたものの気になって後からついて行ったが、「あなたも、彼らの仲間だ」と言
われると三度もイエスを「知らない」と否定した。
 
ペテロは正しく「自由意志」を用いることに失敗した。 神の「試し」に合格したとは言えなかっ
た。 そればかりか、思いや考えさえ、主の御心とずれていることが多かった。 それで時に
は、イエスにしかられた。(マルコ8:33) しかし、主はそのようなペテロを選んでくださってお
り、いろいろな訓練試練を通され、見事に変えてくださった。 そして、「神から与えられた自由
意志を正しく用いる」ことができるようになったペテロを、主はご自身のため大いに用いてくだ
さった。 ただただ、主のあわれみのご計画に入れられていたペテロは幸いである。 主はペ
テロの心の奥にある「直き思い」、すなわち「直き本音」「直き本心」を見られていたと思われ
る。(詩篇7:10、36:10、112:4)
 
さて、神からの「試し」というとき、一番最初に試されたのは、アダムではないだろうか。 アダ
ムは、神のかたちに、土地のちりで造られ、その鼻に「いのちの息」を吹き込まれた。 「そこ
で、人は、生きものとなった。」  「いのちの息」は、原語ヘブル語では「霊」ということばと同
じだという。 「神の霊」を吹き込まれたアダムは、神と愛の交わりをしていたと思われる。 主
なる神はエデンの園に、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。 園の
中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 園の様子が創世記2章
書かれている。 園は潤され、木々は豊かな実を結び、豊かに川が流れている。 そこには金
や宝石もある。 そこの様子は、黙示録21章、22章と同じようである。 
 
アダムは、エデンの園に置かれ、そこを耕しながら、自由に園のどの木からでも思いのまま食
べることができた。 ただ、たった一つの木、「善悪を知る木」からは取って食べることができな
かった。 「善悪を知る木からは食べてはならない。 取って食べると必ず死ぬ。」と、神の命令
「ことば」があったからである。 アダムが一人で園にいた時間、期間はどのくらいか、わか
らないが、アダムは、園の中央に生えさせられていた「善悪を知る木」から取って食べることは
なかった。 ただ、同じ園の中央に生えさせられていた「いのちの木」からも取って食べたと言う
記述はない。 なぜ、アダムは「いのちの木」から取って食べなかったのだろうか? その後、
アダムに「ふさわしい助け手」の女エバを神は造られた。 アダムとエバが、蛇の誘惑を受けて
「善悪を知る木」から取って食べるまで、すなわち「罪」が入ってくるまでの時間、期間もどのくら
いか、わからないが、アダムとエバは園の中央に生えさせられていた「いのちの木」から取って
食べたと言う記述はない。 
 
最初アダムが造られたとき、神は人を愛するがゆえに「自由意志」を与えられた。 アダムは、
吹き込まれた「霊」によって、「自由意志」でもって神と交わっていたと思われる。 その交わり
の中で、神から、どの程度かは、わからないが、「いのち」「死」について、教えられていた可
能性が無いとは言えない。 むしろ、あると思われる。 人は、他の生き物とは違って「いのち
の息」、すなわち「神の霊」を吹き込まれたのである。 それは、「神と交わる」、「神とのかかわ
りを持つ」ためだったからである。 だから、より神との交わりが深くなるため、永遠に続くため
の「いのち」について、また、神との交わりが絶たれる原因となる「死」について、何らかの教え
を受けていた可能性があるとは考えられないだろうか。
 
そうであるのにアダムが、園の中央に生えさせられていた「いのちの木」から取って食べなかっ
たことを見て、そこに隙ありと蛇は見たのではないだろうか? 一般的には、罪が入って後、
「神の救いの計画」が立てられたと言われているが、むしろ、もっと前、アダムが一人のそのと
きに、「神の壮大な人に対する救いのご計画」を立てられたのではないかと思われる。 具体
的な預言としては、「罪」が入った後ではあるが、主なる神の中では、もうすでに「救いのご計
画」を持っておられたのではないだろうか。(創世記3:14,15,21) 
 
神は、父なる神と御子が、愛の交わりを持たれているように、アダムと交わり「一体となる」
「ふさわしい助け手」エバを造られた。 アダムとエバの二人とも、「いのちの木」から取って
食べなかったようである。(創世記3:22) 蛇は、神からの命令の「ことば」を直接には聞いてい
なかった女エバに声をかけてきた。  結局、二人とも「善悪を知る木」から取って食べてしま
い、「罪」が入った。 神から与えられた「自由意志」を正しく用いることができなかったためだと
思われる。 また、アダムとエバが、「いのちの木」から食べていなかったということは、彼らの
「霊」が成長していなかったためだとも考えられるかもしれない。 「霊」が成長していない者の
特徴、すなわち、甘言を簡単に信じ受け入れてしまうという人の弱さが浮き彫りにされているよ
うに思える。 いずれにしても蛇の思惑は成功した。
 
蛇、すなわちサタンはその後、「この世の君」となり長い間、人々を迷わせ、滅びへと誘(いざ
な)ってきた。 主なる神の目的は、サタンに捕らわれ支配されている人、失われた人を捜して
救い、神との直接のかかわり、交わりを永遠に持たせることである。 そのために「人の救い
のご計画」を長い期間をかけて実行してくださった。 また、人が安易に甘言にだまされて、神
から離れることがないように、「信仰」「霊」を成長させるためのご計画も立ててくださった。 
そして、イエス・キリストが来てくださった。 キリストの「十字架」は、罪や咎を処分するだけでな
く、人間の弱さや「自由意志」を正しく用いるのに妨げる人間の軽さ、浅はかさなども処分してく
ださった。 
 
そして、主なる神は、よみがえられたキリストと一体となる「教会」を建て上げ、整えて、「主の
時」が来たら花婿なるキリストが再臨される。 結果、黙示録21章、22章へと行き着かせてくだ
さる。 そこでは、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」と言われた「神のことば」通り、贖われて、生
み、ふえ、地に満ちた者たちの中で、「いのちの書」に名が書いてある者たちが、神の御顔を
仰ぎ見ながら愛の交わりを永遠にすることができる。 アダムとエバのとき、途中で閉ざされた
神との愛の交わりが永遠に続く。 このような「神の壮大な計画」をアダムがまだ一人のときか
ら持ってくださっておられたと思われる。
 
我々人は、「試し」を受けて、自分の真の心の状態を知ることができる場合が多い。 「試し」
「試練」によって、主はその人に、その人の「本心」、「本音」を明らかにして、真の悔い改めへ
と向わせ、「自由意志」を正しく用いるのに妨げる自我を砕き、肉を切り取ろうとされる。 神は
あらかじめ知っておられる人々を愛するがゆえに、「試し」「試練」を与えられる。 神の選びが
我々において明らかになるために「試し」「試練」があるとも言えよう。 素直に神からの「試し」
「試練」を受け入れ、砕かれる者たちは、自分は、キリストに頼らなければならないことを真
から知ることができるだろう。 ただ、そのときに、素直にその導きに従えば良いのだが、中に
「主の示し」を認めない者、反抗する者もいる。 ペテロのように、「直き思い」を持ちたいも
のである。 
 
神は、我々が強制ではなく「自由意志」「神を愛し」「神と交わる」「キリストと一体となる」こと
を望まれている。 とにかく、自分の内の井戸掘りに取り組んでいきたいものである。めんどり
通信/2013年12月8日参照。) イエスの「十字架」は、神に従うのに妨げるもの、すなわち「罪
以外のすべてのもの」を処分するためでもあり、我々に与えられた「自由意志」が正しく用いる
ことができるようになるためでもあったことを認めて、心から主に感謝しつつ、正しく「自由意
志」を用いたいものである。
 
また、神は人の弱さ、愚かさなどをよくご存知で、人間を造られたその時から、「神の救いのご
計画」を立ててくださり、長い時間をかけて、黙示録21章22章にまでたどり着くようにと過程を
備えてくださった方であること、その「神の愛」の深さを知って、ますます、主の御前にへりくだ
り、聖霊の導きに従っていきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:29
   神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた
   からです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。



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