めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年1月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<真に主に従って行こうとするなら神に背く根本的な自我が砕かれ、肉が切り取られる必要がある>



★旧約聖書 申命記 10:16
   あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:13
   もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだ
   の行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
 
★新約聖書 ヤコブの手紙 1:21
   ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すな
   おに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
 
創世記によると、人祖アダムとエバが造られた当初は、罪がなかった。 神は霊であるか
ら、彼らも霊で神との親しい交わりを持っていた。 神は人間を愛するがゆえ、人間に自由意
志を与えられた。 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守ら
せた。(創世記2:15)
 
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせ、園
の中央には、いのちの木と善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9) そして 人に「善悪の
知識の木を、決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬ。」と命じて仰せられた。 彼らには
食べる実がなかったわけではない。 「命の木」もあり、園のどの木からでも思いのまま食べて
よかったのである。 しかし、アダムとエバは、「食べても決して死なない。食べるのに良く、目
に慕わしく、賢くする」という蛇の誘惑のことばを受け入れて「善悪を知る木の実」を食べた。
 
そのとき「(原)罪」が人間に入ってきて、彼らの霊が死に、肉体にも死が入ってきた。  「罪」
は、新約聖書原語ギリシャ語では「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味がある。 「
(原)罪」によって神との交わりが絶たれた人間は、神という「的(まと)」から離れて、自分を「的
(まと)」にした。 すなわち自分を基準にして生きるようになった。 また、そのことは、自分で意
識している場合もあるが、無意識の場合もある。
 
また、アダムとエバの罪は、蛇のことばを優先して「神のことば」から離れたこと、すなわち、そ
れは「主である神と神のことば」に背いたことである。 一般的に言う犯罪とは違う。 このアダ
ムとエバ以降、すべての人は罪人となった。(ローマ 3:23、5:19)   すなわち、アダムとエバ以降
のすべての人に、「神と神のことば」に逆らう、背こうとする罪があるということだ。 それは人の
性質の中に、思いの中に、人の考えや願いの中に染み込んでいる。
 
確かに、罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じたとき、「(原)罪」は赦され、それまでの罪も
キリストによって許された。 神から離れていた者が、神のもとに立ち返ることができた。 神を
「的」にすることができるようになった。 それだからと言って、罪を全く犯さなくなったとは言い切
れない。 自分の内には、「神と神のことば」に背くところは一切なくなったとは言えない。 主イ
エス・キリストを信じるまで「的外れ」で生きてきた中で、自我は固まり、肉(生まれながらの神に
従うことのできない性質)は強くなっている。 親がクリスチャンだったので幼いときからクリス
チャンであるという者も、生まれながらの性質がある。 神に喜ばれる者になっているとは言い
切れない。 この地上で生きていく中で自我や肉が強くなっている可能性は大いにある。 
 
この自我、すなわち、「自分」は砕かれる必要がある。 この肉、すなわち「生まれながらの神
に従うことのできない性質」は切り取られる必要がある。 頑固な自我や肉は、人を神から引
き離すからだ。 肉の思いは神に対して反抗するものだからだ。(ローマ8:5-7) 主イエス・キ
リストを信じて「神の子」としてくださった者を、神は成長させ整えるために、一人一人に応じて
訓練試練を与えられる。(ヘブル12:6 -11) 
 
神からの訓練試練、試しを受けながら、徐々に「霊」「信仰」が成長していく。 ただし、神から
の訓練試練、試しを素直に受け入れていくかどうかが鍵となる。 神からの訓練試練、試しを
受けているとき、自我や肉が大いに抵抗することが多い。 ある意味、その抵抗の強さで、そ
の人の自我や肉の強さがわかるというものである。 それでも主に寄りすがり、導きに従って
祈っていく者に主は、目を留めてくださる。 ところが、ある程度、進んで行くと井戸掘りの時に
硬い岩盤や石にぶち当たって下に進めないのと同じような事態になる。(めんどり通信2013年
12月08日) 自分で気づいていない場合が多いので厄介だが、主に真に求めている者は、そ
のことを見破ることのできる指導者や聖書のことばや祈りの中で教えられるであろう。 
 
その岩盤が、主に従って行くにおいて、主のみこころを行なうにおいて、大きな妨げとなる根本
的な自我である。 心の奥底にある肉のものである。 ひと言で根本的な自我、肉と言っても、
それらは人によって様々である。 人によっては、名誉 、人によっては、自分の考え 、人に
よっては、自分の思い通りにしたい、他の人から良い人に見られたい、財産、お金、・・・など具
体的なものから範囲の広い抽象的なものまで、いろいろである。 結局、「自分」であるので、
自分が「的」、「基準」である。 このように、この岩盤は、いろいろな面があっても、「神と神のこ
とば」に逆らう、背く、大本としての自我、すなわち根本的な自我と言えよう。  
 
この大本としての自我が砕かれていなければ、たとえ主イエス・キリストを信じていると言っても
主に従いたいと言っても、神から離れて行く可能性がある。 イエスの弟子たちの多くが、「わ
たしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と仰せられたイエスのことばを聞いて、「こんなひどいこと
ばを聞いておられようか」と主から離れて行った。(ヨハネ福6:60)  主から離れて行った弟子た
ちの根本的な自我が砕かれていなかった、と言えよう。 旧約聖書民数記に登場してくるバ
ラムの場合。 バラムは、当時、モアブの王バラクからイスラエルをのろうようにとの依頼を受
けたが、結果は、主である神に従い、イスラエルを祝福した。 いわば、神に用いられた。 し
かし、後にバラムは滅んだ。(ヨシュア記13:22) バラムの心の奥底にあった「金銀が欲しい」
という「願い」が、固い自我となり、その後、進むべき道を誤らせた。 それでも表面は、「主の
ことば」に従おうとしているが、それはバラム自身気づいているかどうかはわからないが、繕い
であり、擬装である。(バラムについて:めんどり通信/2013年5月12日2007年10月14日
照)
 
その人にとって何が岩盤なのかはそれぞれであるが、真に主に従って行くためには、この大本
としての自我、根本的な自我の砕きが必要である。 パウロは「あなたがたはまだ、罪と戦っ
て、血を流すまで抵抗したことがありません。」と言っているが、本当にそうである。(ヘブル12:
4) 「肉が出てしまった」「ごめんなさい」「また、肉が、肉が・・・」「悪霊が、悪霊が・・・」と言うこ
とは、根本的な自我から出てきている言葉であることを知るべきである。 
 
パウロは我々が本気になることを促している。 本当に主を愛しているのか、本当に主に従っ
て生きたいと願っているのか、自分の思い、考えではなく、本当に主のみこころを行いたいと
思っているのか、本当に神が与えようとしておられる「神の恵み」を受けたいのか、・・・などと自
分自身に問うてみることも大切なことであろう。 とにかく、日々、単なる反省ではなく、心の方
向転換である悔改めをもって主に祈り、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスか
ら目を離さないで」主の御前にへりくだって、キリストとの交わりを深くしていきたいものである。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 19:14
   わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
   の前に喜ばれますように。
 



めんどり聖書研究会